2007年03月07日
●車の話(1991年6月号掲載)
冬の朝。外の寒暖計を覗いてみる。マイナス10度だ。昨日より5度下がっている。ドゥブリョーンカдублёнка(ムートンのコート)を着込み、毛皮の帽子の耳当てを下ろし車のところに行ってみる。僕は気温がマイナス7度より寒くなったら耳当てをおろすことにしている。普通のロシア人はマイナス20度でも下ろさない。おろしているのはガキばかり。でも寒いものは寒い。体面などに構ってられない。キーが入らない。ガチガチに凍っている。用意の解凍スプレーでシュッと一発。入った。中も寒い。ダッシュボードに隠していたワイパーを取り出しはめる。これをしないでつけたままだと盗まれるからだ。4、5年前はサイドミラーも取り外して車の中に隠したものだが、昨今少しましになったようだ。それでも車の車高がやけに低いと思ったもののエンジンをかけたが走らない。車から外に出てよくみたらタイヤが4本盗まれていたというような笑い話も聞く。まずクラッチペダルを何度か踏んでみる。ゴワッゴワッと硬いゴムを踏んでいるみたいだ。次にギヤ。モスクワ方式でローかバックに入れて駐車してみるので、これもニュートラル、セカンド、サード、4速、5速と入れてみる。何か泥の中でやっているみたいなねっとりした感じがする。なぜローかバックにギヤを入れておくかというと、サイドブレーキを使った場合、もし凍ってしまってサイドブレーキが文字通り動かなくなると、車は使えなくなるが、ローかバックなら最悪エンジンはかけられるというロシア人の知恵である。
さてクライマックスのエンジン始動である。キーを入れる前にアクセルを2、3回思い切り踏み込む。それからキーを入れ、チョークを最大に引いて、クラッチを切ってキーを回してかけてみる。ゴワンゴワンと音がするばかり。この車も買ってから3度目の冬、もう45,000キロも走っている。今年の冬はエンジンをかけるのはきついかもしれないなと思う。半分ほどアクセルを軽く踏み込んでおいてトライすること6回目、ようやくゴワンゴワン、ブルンブルンときたので、キーを2、3秒そのままにしていると、ブル、ブルルーとかかった。ここでアクセルをゆるめるとすぐエンジンが止まってしまうので、まだ踏み込んだまま。頭の中で20数えてゆっくりアクセルから足を放してゆく。アクセルを踏む時間が長くすると逆にせっかくかかったエンジンが止まる。この加減も難しい。エンジンをかけたまま車から出て、積もった雪を車から払い、フロントガラスの氷をスクレーパでかきとる。何やかにやで10分ぐらい経ってしまう。いよいよスタート。暖機運転も20分ぐらい必要らしいが、気の短い当方はそんなに待っていられない。チーシェ、チーシェТише, тише(ゆっくり、ゆっくり)と、そろそろ進む。5分ぐらいしたらチョークを戻す。このタイミングも結構難しい。オートマチックは冬場エンジンがかからないといい、外車もマニュアルが普通である。広い通りも雪だまりで3車線が2車線になっている。道は少し赤茶けている。砂と岩塩を撒いたおかげだ。おかげで滑らないが、車は5年もすると車体が腐食して穴が開く。
そういえば昨日は割りと楽にかかったけれど、駐車した場所が悪くて雪がどっさり降って車が雪に埋もれてしまった。自力で出ようとしたが車輪が空回りをしてどうしても出れない。困ったなと思っていたら、通りすがりのロシア人が3人寄って来て押してくれた。すぐには出れず、5分ぐらいでようやく道に押し出してくれた。ちょうど車にカレンダーを積んでいたので渡そうとしたが、どうしても受け取らない。別れ際よく見てみると3人とも知り合いでもなんでもなく、たんなる通りすがりらしい。こういうことが何度かあったのでお返しと言うわけではないが、雪にはまった車があれば手伝うことにしている。人助けも自然にするというのは案外難しいことだが、これはモスクワで教わったうちで貴重なものだ。もっとも日本に帰ってからは元の木阿弥だけど。
サドーヴァヤ・カリツォーСадовое кольцо(サドーヴァヤ環状線)を走っていると、ブルドーザー型除雪車が6台ぴったりくっついて除雪している。見事なものだ。一般に除雪は早くて手際がよい。これでも新聞に除雪が遅いと苦情が出ていたのにはびっくりした。とにかく除雪作業と地下鉄は世界一だと思う。道端の雪だまりにはたまった雪をコンベアでトラックに積み込む通商カニバサミが活躍している。カニがハサミで雪をかき集め、その雪をコンベアで上にもってゆき直接トラックの荷台に運び込んでしまう。子供でなくとも見飽きない。機械という感じがせず、一生懸命仕事をしている姿には打たれるものがある。トラックがいっぱいになれば動きを止め、次のトラックが来るまで存在をやめる。日本の商社の人でこれを北海道あたりで使えないかといろいろやってみたが、結局北海道の雪質が軟らか過ぎてだめだったという話を聞いたことがある。
アンチフリーズ(不凍液)やフロントガラスの掃除用の不凍液がないときは、ウオッカで代用する。これをやると車内がウオッカの匂い(エチルアルコールの匂い)で充満する。ゴルバチョフの節酒令のときは酒不足で、さすがそういうことはせず、フロントガラスが見えないようなままで走っている車が多かった。
朝エンジンがかかれば、その日はエンジンがかからないということはないので一安心だ。アポイント(商談の待ち合わせの時間)が詰まっているので自分の車が動かないと、車のやりくりで本当に疲れてしまう。マイナス30度となれば新車はともかく普通エンジンはかからない。他の車とバッテリーをつないでも、ロープで牽引して走りながらかけようとしても、かからないものはかからない。同じ棟のアラブ人は夜中もエンジンをかけっぱなしにしていたっけ。朝すぐの商談でどうしても遅れてはならないときにやってみたら、満タンの1/3ぐらい一晩でガソリンが減っていた。あるポーランド人はエンジンがかからないのに頭にきて、ボンネットを開けて試しにお湯をかけたらかかったと言っていた。冬は毎日毎日朝起きるたび、今日は何度だろうと不安にかられていたけれど、それがいつになったら懐かしく思い出せるのだろう。
車でこんな苦労をしたことのない私たちは幸せですね。もっともずう~っと前の冬(いつのこと!?)に、わが家の中古車もエンジンがかからなくなりお湯をかけたことがありました。てきめんにかかりましたよ。経験者です。