2020年02月03日
●第149回
が、現在から切れていると主観的に判断するときに、完了体動詞未来形が使われるのである。
(それでは勉強に取りかかりましょう)Теперь начнём заниматься.
完了体は主観的ということから、点過去のように、過去の時制では完了体は過去の時間軸の特定かつ不動の一点(到達点)での動作をイメージする。それに対比して考えれば、完了体動詞未来形というのは、同じく未来の一点への到達に関する動作を扱うと言える。その際その一点が意識にありさえすれば、具体的に明示されるかどうかは問題ではない。文脈に明示されていなければ、今すぐ動作が起こるというニュアンスがあり、主語が一人称であれば決意や意志を、二人称や三人称では推量を強く示す場合が多い。一方不完了体動詞未来形は未来における動作事実の有無を示す事に主体があり、いつ動作が行われるかは二の次ということになる。これによって未来における時の一点を示す具体的な状況語があれば、完了体動詞未来形を使うのが自然だという事が分かる。
日本語の時制は過去と非過去(現在、未来)が対立する。時制から見て日本語の動詞を状態動詞と動作動詞に分けると、状態動詞は、「~ている」の方を取らずに現在の状態を表す動詞で、「いる、見える、思う」などであり、「今家にいる」、「明日もここにいる」のように、ル形で現在と未来を示す。動作動詞というのは、「話す、行く、歌う」などの動きを表す動詞で、ル形が未来の動作や現在の習慣的な事実を示し、現在の一時的動作はテイル形を用いて示す。文脈にもよるが、動作動詞のル形を完了体動詞未来形で訳せることも多い。「~するはずである」という構文も完了体動詞未来形か、должен + 完了体動詞不定形で露訳できる。
4-2-1-1 点未来(完遂的用法)が用いられる動詞
これには完了体動詞未来形(これを完了体現在形とか、完了体現在未来形と呼ぶ学者もいる)を用いる。過程、持続性を考えないような単一の動作を未来の時制で行う場合は、叙想的ニュアンス(主観的なもので、懸念、期待、動作の完了、新しい事態や情報が出てくる場合、否定文では不可能、否定の強調など)を含んでいれば、完了体動詞未来形が使われる。これらの主観的ニュアンスも動詞や文脈によって現れ方も様々である。無論、гулять(散歩する)、жить(生きる)、играть(遊ぶ)、пить(飲む)、читать(読む)などの無接頭辞単純動詞は例外であり、бытьの未来形と組み合わせて、自由に未来の時制で使われる。また、予定というニュアンスが強く出るのなら、不完了体動詞現在形で予定の意味に使えるものがあれば、それを使えばよい。
(彼は今によくなりますよ)Теперь он выздоровеет. <病気の快癒>
(どこか他のパーツの損傷が重大な危険をもたらしますか?)Приведёт ли повреждения какой-инбудь другой части к серьёзной опасности? <複合動詞(8-3項参照)であるのに完了体動詞未来形が用いられているのは、危害をもたらすという動作が起こるかどうかを問題にしているからである。人命や損得(金銭)に関わる動詞は、世の中の最大の関心事なので文の焦点になるのが当然であり、それゆえ完了体が来ることが多い>
不完了体動詞現在形の予定の用法と完了体動詞未来形の点未来(完遂的用法)の差を見てみると、完了体が近接未来を示している場合は、ニュアンスはともかく、意味はほとんど変わらない。
(彼はロンドンに行く)Он уедет в Лондон. <具体的1回行為の未来における遂行>
(彼はロンドンに行くことになっている)Он едет в Лондон. <予定>