2020年02月03日
●第137回
了体現在形を用いる。一方不完了体未来形は現在とはつながりのないと話し手の考える未来の時制における動作事実の有無の確認(4-1-1-1項参照)に使われるのが普通である。
予定の用法に不完了体現在形を用いるのだから、これは厳密に言えば時制の転用である。用いられているのが不完了体のため、回りの空気を読むような動作であり、動作事実の有無の確認でもある。新しい事態や新規の情報が出てきた場合は完了体動詞未来形を使う。状態動詞は予定の用法では使わない。動詞бытьの現在の時制で完遂的用法として使える場合があるが、それは完了体としての用法であって、状態動詞としての用法ではない。3-1-6項参照。
不完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点(到達点)をイメージしないために、不完了体は時間を示す状況語との相性が悪い。それゆえ不完了体動詞現在形の予定の用法を示す次のような文は一見例外のように見える。
(彼は来月外国に行くことになっている)Он уезжает за границу в следующем месяце.
(彼は明日来ることになっている)Он приходит завтра.
しかし、2-2-1-2項で示したように不完了体動詞過去形でも、踏み台(みなし反復)のように予め場を設定しておけば、時間を示す状況語との共存も可能であることを考えると、予定の用法というのは、あたかも予定表に書き込まれたように、既知の動作をなぞるとか、動作事実の有無の確認という代動詞(動作の反復の意味合いもある)のような用法であり、新規の動作ではない。もともとの予定表に時間を示す状況語があるとイメージされているがゆえに、このような文は可能であることになる。この仮想の予定表が踏み台(みなし反復)に相当するのである。最初の文の示すのは、外国へは徒歩や飛行機ではなく、何らかの移動手段で行くということと、それが予定にあるように来月だということであり、二つ目の文は徒歩で明日だということである。
その他に考えられるのは、時の状況語を時間軸の特定かつ不動の一点(到達点)というよりは期間とみて、来月は来月でも(明日は明日でも)、「来月中(明日中)」という意味ということになる。ムラヴィヨーヴァЛ. Муравьёва先生はприходит, уходит, выходит, переходит, переезжает = собирается прийти, уйти, выйти, перейти, переехатьであるとしているので、予定の意味の場合、形式が現在の時制なので対応する完了体が使えないということでの代用(精確に言えば完了体不定形が要素として組み込まれている)ということで、特定かつ不動の一点(到達点)を示す時の状況と共に用いられても問題ないのかもしれない。完了体の次の文と比較願う。
(その汽車は9時に到着する)Поезд придёт в 9 часов. <完遂的用法>
予定の用法は人に関わる動作を扱い、偶発性(事故、渋滞、事件)に関わる動作や主観的に行う具体的動作とは相容れないと考えてよい。забыть忘れる、потерять失う、разбить割る、сломать壊す、убить殺す、ударить殴る、уронитьなくす、などの瞬間動作動詞(瞬時の移行・変化を示す動詞)は、スローモーションなどの特殊な文脈を除いては、過程を示す事はなく、偶発性に関係する動詞群であり、これらの完了体は主観的な動作を扱うが、これらの動詞の不完了体は主として反復か動作事実の有無の確認に用いられると考えてよい。
予定の用法は次のように否定文でも使える。
(本日より警報時商売も交通も中断されることはない)С сегодняшнего дня торговля и автодвижение во время тревоги не прекращаются.
(彼は12月前に開講することはない)Он раньше декабря лекций не