2020年02月02日
●第130回
来形が来ている。
出だしの「明日モスクワに立ちます」という文を露訳すれば、新しい事態や情報が出てきたわけであるから、Завтра я поеду в Москву. と完了体動詞未来形を使うのが普通である。Завтра я еду в Москву. と不完了体動詞現在形の予定の用法を用いると、前からモスクワ行きを予定していたということになる。あまり言わないが、不完了体動詞未来形を使ってみよう。ただし、завтраという時間の副詞があると、4-2-1項でも述べるが、未来での時を示す状況語があると、時間軸の一点を示すという事で完了体動詞未来形を使うのが自然だという事だということと、出発するという述語に文の焦点が来ることから、それは完了体動詞未来形の領域なので、これを外して文を作ると、Я буду ехать в Москву. となり、「(飛行機ではなく)車や電車でモスクワに行く、モスクワに行く間に乗るのは(飛行機ではなく)車か電車である」という未来進行形の過程や経過のニュアンスになる。
при-という接頭辞のつく運動の動詞(приходить, приноситьなど)は過程の意味がなく、ある程度の期間を示せないからこの用法では使えないが、下記のように動作事実の有無の確認で使うвыходитьや、述語に文の焦点の来ない用法のуходитьは運動の動詞だが、この用法で使える。
(多分、大晦日はあなたが会社から最後に帰ることになるでしょう)Возможно, накануне Нового года вы будете уходить с работы последним.
4-1-1-6 動作事実の無の確認と意識的否定 → 不完了体未来形(не + бытьの未来形〔не + статьの未来形〕 + 不完了体動詞不定形)
不完了体というのは場依存型であり、これを未来の時制の否定文で用いると、その文脈(慣習)により当然なすべきと考えられる行為や動作を否定するわけだから、慣習に逆らうことになり、文脈によってはあたかも意識的な行為や動作を示すように感じられることがあるが、そうではなく、単に動作事実が未来において生じないことを確認しているにすぎない。注意すべきは、不完了体未来形の否定は、あくまで文脈という枠内の中において、その文脈で当然行われるはずの行為や動作を否定するのであって、完了体のように始めから文脈や場を度外視しているわけではないことである。
また完了体は刻々と動く動作のその瞬間を表現できないことにあるわけで、完了体はイメージするがゆえに動作プラスアルファという、何らかの主観的ニュアンスがつく。主観的ニュアンスなしに動詞本来の生の動作だけを意味するのが不完了体であり、これ否定すると今後一切かような動作は行わないという未来におけるあらゆる時点で反復される動作も否定することになり、未来の時制において完了体動詞未来形の完遂的用法(具体的な1回の動作)を否定する用法4-2-1項と対立する。また不完了体未来形が否定文で用いられるのであるから、これこそ動作事実の無の確認の用法でもある。
不完了体動詞未来形の肯定文では、回りの雰囲気や状況から、文脈によっては、一見「~するつもりである」という意味に感じられることもあるが、場独立型の、自らの意図を示す動作ということにはならない。否定文の場合も、不完了体が持つ文脈依存性であることから、今後一切~しないというこれから起こる未来のいつの時点の動作をも全て否定するゆえに、「~するつもりはない」という意識的な否定の動作とは異なることを理解する必要がある。
一方、否定詞と完了体動詞未来形の組み合わせは、不可能の意味か、ないしは特定かつ不動の一点(到達点)をイメージしての具体的動作事実の否定の強調の意味となる。Не буду говорить とНе скажуの違いは、前者が「(今後)言わない」という動作事実の無の確認を示すが、後者は「言わない」という未来の動作の否定の強調であると同時に、「言えない」という不可能をも表せる。そのどちらかは文脈による。