2020年02月02日
●第126回
を行うという意味の用法である。不完了体は主観的ニュアンスのない、動作そのものを示す(叙実的なニュアンス)であるのが本義なので、既存の事実の有無の確認という概念の延長上にある用法であろう。つまり、この用法は過去の時制の不完了体動詞過去形の動作事実の有無の確認の用法や不完了体命令法の促しの用法の類推から、未来の動作事実の有無の確認の用法となったものだと思われる。
これから行われる(ないしは行われない)動作が問題となっている以上、動作事実の有無の確認に見かけ上意図というニュアンスがあるように感じられ、文脈によっては、意図(~するつもりである)という風に理解されることもあるが、ただ動作事実の有無を確認しているに過ぎないのである。なぜならこのような不完了体動詞未来形の見かけ上の意図の用法は、完了体のように新しい事態や情報が出てくる場合に使われる、というような主観的ニュアンスはない。回りの雰囲気や状況を無視して、勝手に「~するつもりです」とは使えないのである。(動作事実の無の確認4-1-1-6項参照)
(止まれ、撃つぞ)Стой! Стрелять буду!
上記の文は意向を示す文だが、Стой!「止まれ」(促しの用法で5-1-1項参照)に文の焦点があるのは明らかであり、止らなかったら、そういう文脈のもとではこれから撃つという未来の事実を述べているに過ぎないということであり、それゆえ不完了体動詞未来形が来ている。
動詞に焦点が来ない、つまり話し手の注意が、場所、時間、動作の主体、手段や様態に向けられている時には不完了体が用いられるのである。対話ではすでに言及された動作を名指す(示す)のである。
(何に乗ってお出かけですか?)На чём вы будете ехать?
(歌い始めはだれですか?)Кто будет начинать песню?
(今晩何をなさいますか?)Что вы будете делать сегодня вечером?
(何をお飲みになりますか?)Что вы будете пить?
(何をお召し上がりになりますか?)Что вы будете есть?
最後の二つの文はレストランなどでよく聞く表現だが、単なる動作事実の有無の確認であり、また文の焦点が動詞ではなくчтоにあるためと、動詞は刺身のつまのようなものなので不完了体動詞未来形が使われている。この他に不完了体が来る理由として考えられるのは、回りの雰囲気を読むということであり、レストランに入ったら飲み食いするのは当然であるということから、不完了体が出てくるのだろう。さらに、最後の文で完了体のсъестьを使うと「全部食べる」という意味になってしまって、意味が違ってくるということもある。不完了体が使われるのは、不完了体の出現を促すいろいろな要素がこのように複合的に絡み合っている場合もあると思われる。
(コーヒー飲むかい?)Кофе будешь? <питьが省略されているが、日常会話ではよく使い、「君はコーヒーかい?」とも訳せるので、それならウナギ文(9-10-2項)の一つである>
4-1-1-3 動作事実の有無の確認に使える不完了体動詞(動詞の語義による)
同じ文でも過去の時制で事実の有無の確認に不完了体が用いられる場合、未来の時制では体が入れ替わることがある。
(私は教授に会った)Я видел профессора.
(教授に会います)Я увижу профессора. <увидетьの過去形は「見た」という意味であり、「会った」という意味にはならない>