2020年02月02日

●第122回

第4章 未来の時制

未来には事実がまだ存在しないので、主観的な想定を示すことになる。ただ予定のように確定した事実と見なされる場合には、たとえ未来のことでも不完了体現在形が用いられることに留意すべきである。
 Письмовник, Курганов Н.Г.という1794年に出た、日本でいう往来物みたいな文法と文例集を併せた本があるが、その第1巻の動詞の説明のところに、不完了体未来形は未来において動作が完遂するかは不明であると書いてあり、完了体未来形の動作が完遂するというのと対比させている。これなども一つの見識であろう。
 ソコローフスカヤСоколовская К. А.先生によると、ロシア語で過去の時制が使われる率が45%であり、未来の時制は8%にすぎないという。しかも未来の時制における完了体は不完了体の7倍もよく使われるというから不完了体動詞未来形は重要でないように思われるが、その用法を究めれば、なかなか奥深い用法であることが分かる。
 日本語では形式上現在と未来の時制が曖昧な場合があり、「~します」を露訳するときに、毎日や何度もというような規則的反復なら不完了体動詞現在形を使うが、これから~するという動作であれば、遂行動詞を除き、露訳では未来の時制を使う事になる。

4-1 未来の時制における不完了体の用法

今と言っても、「今電話があったよ」とか、「今行く」というように、ロシア語でも今この瞬間から時間的にある程度前後するということは何回か述べた。不完了体動詞未来形は未来の時制のみで使われるが、このような近接未来ближайшее будущее(発話時点のすぐ後に続くか、発話時点と融合した未来)を表す場合には不完了体未来形は用いられない。これは過去というものはすでに動作が終了しているので、終了したという確認は不要であり、そのため不完了体過去形は直近の過去でも使えるが、未来においては、動作が終了するという確証はその動作の結果が出るかどうかである。不完了体未来形は、動作事実の有無の確認だけで結果には言及せず、そのため未来における動作の不確実性が感じられる。近接未来は、極端に言えば、一瞬後に動作が始まって終わり、一瞬後ゆえすぐその結果が出て、それが分かるというニュアンスであるが、不完了体では動作が終了するかどうかは文脈次第であり、いずれにせよ結果については示せないから、近接未来には用いられない。
近接未来(一瞬後の未来)というのは、今この瞬間が常に未来に向かって動いているため、一瞬後には厳密な意味での現在になり、すぐに過去になってしまう。不完了体動詞未来形には、未来における規則的反復、継続という用法もあるが、すぐ過ぎ去るような不安定な未来ではなく、ある程度の時間の余裕があるような未来を扱い、意識的には現在の動作と切れている動作を示す。一方、一瞬後やそれを含む未来、ないしは動作の結果を暗示するような現在の動作とは切れているような近接未来の動作は、完了体動詞未来形が扱う。同じ近接未来でも不完了体現在形は、現在から潜在的意識の上ではつながっているような予定の用法で用いられる。
完了体未来形および不完了体未来形の用法に推測という意味はない。露文解釈においてロシア語の専門家でさえ、未来の時制のロシア語文の和訳に「~だろう、~でしょう」を用い、Завтра я буду читать эту книгу.を「明日私はこの本を読む」ではなく、「読むだろう」と「~だろう」を未来の時制を示す印として用いているのをよく見かける。国語辞典を見る限り、「~だろう、~でしょう」は「推測」を示す。例えば、「明日咲きますか?」「咲きます」は確実な未来を示し、「花が咲きましょう」(現代語では「咲くでしょう」)は推測という意味になると「日本語とはどういう言語か」(三浦つとむ、講談社学術文庫、1976年)にもある。確かに未来は不確か(未定であり決定ではない)なのだから「推測」を使いたい、また学習者のために何か未来の時制の目印をという気持ちは分からない

Posted by SATOH at 2020年02月02日 17:00
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