2020年01月29日

●第70回


(彼は意識が戻り始めた)Он начал приходить в себя.

これは語義の体の用法に対する影響の問題であって、体そのものとは関係ないとも書いてあるから、この場合とは違うとも考えられる。ただ似たような文例で、3-1-5-3項にも書いたように、Я начинаю думать ...は意向の過程(~と考え始めつつある)というよりは、「もうそういう考えになった」というニュアンスであるから、これを過程と考えるのはどうかなという気もする。
意識が戻るというのは、一直線で戻るのだろうか?つまり過程として捉えられるのだろうか?気がつくというのは、意識が戻ったり、戻らなかったり、そういう意味で意識と無意識の境を往復しながらという風に理解して、ロシア語ではприходитьが用いられているのではなかろうか。

(北の短い夏の様々な喜びは終わりに近づき、終わりのないような秋がおぞましき姿で前に迫ってきたのであった)Радости короткого северного лета приходили к концу, впереди грозно надвигалась бесконечная осень. <радостиと複数なので、いろいろな喜びがそれぞれ終わりに近づくということで、多くの場合(例えばчасто)に起こる事柄には反復の用法として不完了体が用いられる>
(彼の人生の三度目の冬が終わりに近づいた)Третья зима его жизни приходила к концу. <季節は巡ってくるものであり、既に冬は2回巡ってきている>
(深く考えれば考えるほど、ある結論にたどり着く)Чем больще я обдумываю, тем больше я прихожу к выводу. <何度も深く考えれば考えるほど、何度もある一つの結論にたどりつく>

原先生が挙げられている、これらの例文にしても、一見過程のようだが、意識は反復しているように見える。それゆえ私見だが、приходитьは完全な意味での過程は示さないという従来の考え方を支持する。

(しかし、その後徐々にまともになり、愛らしい、無力なフージーになるのだった)Но потом мало-помальски приходил в норму и вновь становился милым и беспомощным Фудзием. <すぐ前の文脈で週に2、3度フージーに立ち寄ったという記述があり、過程のニュアンスはあるものの反復であろう>

ただОн приходит в себя.と見かけは現在形でも、実はアネクドートでの用法のように歴史的現在ということもあり得るので、その点を注意することと、運動の動詞以外でпри-という接頭辞のつく動詞群、例えばприближатьсяは過程で使えるということを覚えておく必要がある。

3-1-1-3 過程の意味における日本語との表記の違い

 日本語では完了で示す文が、ロシア語では過程の意味の不完了体動詞現在形で示されることがある。

(日が短く〔長く〕なってきています〔なってきました〕)Сейчас дни становятся короче (длиннее).

上の文を「日が短く(長く)なりつつあります」とするのは説明的な、ある意味人工的な日本語であり、ロシア語では過程をしめす不完了体動詞現在形で示す。同じような例を挙げる。

(夜が明けてきている、きた)Сверкает.
(日が暮れてきている、きた)Смеркается.

Posted by SATOH at 2020年01月29日 20:44
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