2020年01月29日
●第66回
第3章 現在の時制
イェスペルセンは『文法の原理』(安藤貞雄訳、岩波文庫、2006年)において、「現在というのは厳密に言えば現在の一瞬であり、点としてとらえることができる。ただ現在の一点が言及された期間内に入っていれば現在の時制であり、反復についても慣用ということで、現在の一点が含まれているから現在の時制になるのだ」と指摘している。過去から過去、現在及び未来に至る(3-1-3-1項)や真理(3-1-10項)の用法は言うに及ばず、状態(3-1-6項)や過程(3-1-1項)の用法において不完了体現在形が用いられるのも、刻々と動く時間軸のこの一点(この一瞬)が動作に言及されているからだし、遂行動詞は過程の要素が、評価解釈型動詞は状態の要素に現在のこの一瞬が含まれるために不完了体現在形という形式を用いるのだと言える。
毎朝通勤するというような反復の動作は、ある行為が現在から未来へと一定の時間間隔で、あるいは間隔を無視できるぐらい頻繁に繰り返されることを意味する。現在のこの一瞬というのは常に動いており、その動作が一定の時間後に現在のこの一瞬となって繰り返されると言及されていることになる。反復の用法では現在のこの一瞬が動作に組み込まれているので、不完了体現在形という形式を用いるということになる。同じように、予定の用法では、過程の用法の延長として、未来に起こるこの一瞬の動作が言及されていると見なすことで、不完了体現在形という形式が使われるのだと考える。
歴史的現在では臨場感を出すために、現在の時制から過去を覗くように、過去の動作をあたかも現在のこの一瞬を介して追体験させるために、不完了体現在形という形式が用いられているが、動作自体は過去ですでに完了しているため、表しているのは点過去の過去の時制となる。
完了体が現在の時制で用いられないのは、現在の時制におけるこの一点が常に未来へと動いているため、ビデオや映画のフィルムの一コマ、一コマの静止画面のように、結果の存続という形式か、ないしは一瞬後の未来のような広い意味での今しか完了体が表せないからである。つまり、私の指摘した「完了体は刻々と動く動作のその瞬間を表現できない」というのは、今という一瞬(一点)は静止していないのだから、完了体はこれを表現できないということを意味する。しかし、一瞬後という広い意味での現在の時制では完了体も使える。3-2-2項、3-2-3項、3-2-4項を第3章に含めたのもそのためであり、例示的用法の4-2-3項は第4章の未来の時制に含まれているが、現在の時制と深いかかわりがあるし、過去の時制でも使われるから、時制の制約を受けないとも言えるが、一応関連が深いと思われる第4章に記載した。
一方不完了体は反復以外の用法においても、時間軸の特定かつ不動の一点(到達点)での動作をイメージしないのだから、現在のこの一瞬においても、その前後においても終了していない(継続している)動作を表現するということになる。そのため動いている現在のこの一瞬を含む動作の場合、それを示す事ができない完了体の代わりに、過程(進行形)、状態動詞、遂行動詞、評価解釈型動詞において、不完了体動詞現在形が具体的な動作を示すことになる。しかし、この動作は発話の時点で終始を問題にしない動作であることに注意する必要がある。
3-1 現在の時制における不完了体の用法
完了体は刻々と動く動作のその瞬間を表現できないため、過程、反復や継続を示すことができない。そのため不完了体がその役割を担わざるを得なくなったと考えられることは前に述べた。過程の意味の「歩いているところである」というのは、右足と左足を交互に間断なく反復するわけで、これに「駅へ」という状況語がつけば、一つの動作の途中を示すことになる。それゆえ過程というのは、動作の反復から発展したものだとも言える。状態動詞と同様、そのまま同じ動作が続くという意味では、無意識な動作