2020年01月29日

●第56回

僕は彼女を避けた)Лидия Михайловна вдруг засмеялась и попыталась меня обнять, но я отстанился от неё. <попробовать, попытатьсяもпонадеятьсяと同様な結果存続無効のニュアンスがある>

 点過去(アオリスト的表現)を過去の継続でも示せるという例を挙げる。

(ソフィア・フョードロヴナは1816年にある大佐と最初の結婚を挙げた)
В первом браке с 1816 года Софья Фёдоровна была замужем за полковником.

2-2-1-3 創作者としての資格 → 完了体動詞過去形

 「作品を書いた(書き上げた)、描いた、創った」という場合は唯一性の強調、つまり述語に文の焦点であるということで、完了体動詞過去形を用いる。過去の一点において動作がなされたということで、点過去的用法の一つであるが、作品が現在まで残れば、そういう文脈では結果の存続と理解してもよいが、何百年か前に書いた本が今に伝わっていないとしても、その本を書いたというのには完了体動詞過去形を使う。結果の存続にこだわると、体の用法の本質を見失うことにもなる。

(「アンナ・カレーニナ」を書いたのはトルストイだ)«Анну Каренину» написал Л.Н. Толстой.
(この劇を演出したのは誰ですか?)Кто поставил эту пьесу?

 上記の文で疑問詞が来ているのにもかかわらず、完了体動詞過去形が来ているのは、поставилが結果の存続(作品が現在まで残っている)というニュアンスがあるためと、文の焦点が動詞に来ているからである。
 動作の完成よりも過程や、動作の有無だけに話し手の関心があれば不完了体動詞過去形が来る。自分が書いた論文などにも完了体動詞過去形を使うのが普通だが、文脈によっては、下記のように反復の意味で不完了体が来る可能性がある。

(その頃は月に4編の論文を書いていた)Тогда я писал 4 статьи в месяц.

下記はすべて正しい露文だが、ニュアンスが異なる。完了体動詞過去形の方は、点過去で、過去の明確なある時点で動作がなされたという事を示し、作品が現在に残れば結果の存続という解釈も可能である。これは文の焦点が動詞にあるということを意味する。一方不完了体は疑問詞に文の焦点があり、動作事実の有無の確認ということで不完了体動詞過去形が来ている。『カラマーゾフの兄弟』にしろ、『戦争と平和』にしろ、有名な文学作品と知っている人は、何らかの思い入れがあり、主観的ニュアンスを帯びて完了体動詞過去形を用いるが、これらの書名を聞いたこともなく、これらが書名であるかどうかすら怪しい人にとっては、これらは名作ではなく、単なる「もの(ないしは、記号)」に過ぎない。そうであれば、主観的ニュアンスがない不完了体動詞過去形の動作事実の有無の確認を選ぶことになる。つまりこのように話し手の文の見方によって体の用法が決まる場合も多い。

(長編小説『カラマーゾフの兄弟』を書いたのはだれですか?)Кто написал роман «Братья Карамазовы»? <話し手が名作と理解している場合>
(『戦争と平和』を書いたのは誰ですか?)Кто писал «Войну и мир»? <話し手が名作かどうか知らないか、関心がない場合>
(『戦争と平和』を書いたのはトルストイです)Толстой писал «Войну и мир». <同上>
(この映画の監督は誰ですか?)Кто снимал этот фильм? <同上>

Posted by SATOH at 2020年01月29日 04:24
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