2020年01月28日
●第44回
я вчера по улице, и вдруг кто-то как схватит меня за руку. <идуは経過を示す歴史的現在>
(風が遠くへ、その叫び声を運んでゆく。そして夜中静寂の中では知らずに奏でられた低音の弦のように、長い間悲しげに草原の上に響いてゆく)Ветром далеко пронесёт его крик, и долго и грустно будет звучать он над степью, как ночью в тишине нечаянно тронутая басовая струна. <過去の時制における例示的用法だが、継続を示すために不完了体動詞未来形будет звучатьが用いられている>
次に挙げる諺や格言は、一つの事例を取り上げて全体を代表させるという例示的用法(4-2-3項参照)の完了体動詞未来形と見るか、歴史的現在の古い用法の名残と見るかだが、この歴史的現在の用法が発展して、例示的意味を持つことにより、完了体動詞未来形に生き生きした表現という生産性を与えたと言えなくもない。
(播かぬ種は生えぬ)Что посеешь, то и пожнёшь. <тыを主語に見立てた「文中の述語が任意の人によって行われる行為を意味する」普遍人称文>
(その時はその時)Поживём – увидим.
(片方の肩に載せるなら仕事はきついが、両肩なら楽なもの〔みんなでやればなんでもできる〕)В полплеча работа тяжела, а оба подставишь – легче справишь.
(真実は常に勝つ)Правда всегда перетянет.
(尋ねよ、さらば見出さん)Кто ищет, тот всегда найдёт.
(虎穴に入らずんば虎子を得ず)Смелость города берёт <諺に反復・慣用という意味で不完了体を使う例>
2-1-8-4 演劇的現在
演劇的現在настоящее сценическоеは劇的な現在という意味ではなく、歴史的現在の用法の一つであり、アカデミー文法ではнастоящее комментирующее(注釈的現在とでも訳すのか)と、歴史的現在とは別の項目を立てている。劇(戯曲)や脚本のト書き(登場人物の動き、場面の状況、照明・音響効果などの指定をセリフの間に書き入れたもの)で、その劇の中の1回の行為、つまり点過去(2-2-1項参照)と考えればよい。これから起こる出来事を不完了体動詞現在形で記述するもので、物語をかいつまんで紹介したり、その絵画が何を表したりしているのかの説明であるとか、文学作品の中で出来事を時間の流れに沿って描写するときなどに使われる。この用法には歴史的現在と違い、過去の出来事をあたかも目前にあるかのようにするというような状況設定は必要ない。作者が全てを見通していて、ある種の筋書きという線路の上を走るようなものだから、不完了体動詞現在形が使われるのだろう。例えば「モスクワは涙を信じないМосква слезам не верит(原題は「泣き言は言わずにさっさとやれ」Москва слезам не верит, ей дело подавай.という諺から来ていると思われる)」という有名な映画の粗筋紹介では、次の文でも分かるように、別段目の前にシーンが浮かんでくるという感じではないが、立派な演劇的現在の用法である。
(映画の舞台は1950年~70年代。女友達3人が田舎からモスクワにやってくる)Действие фильма происходит в 50 – 70–е гг. ХХ в. Три подруги приезжают в Москву из провинции.
(舞台は1899年、『復活』が出版されてすぐだ)Действие происходит в 1899 году, вскоре после публикация романа «Воскресение».
2-1-8-5 動詞以外の歴史的現在