2020年01月28日
●第25回
対する自分の反応を表そうとするような主観的ニュアンスがあり、一方不完了体には事実に密着して,それを客観的に描こうとする叙実的(事実に密着して,それを客観的に描こうとする)ニュアンスがあるとも言える。完了体動詞未来形で新しい事態や情報が出てくる場合ということで意志を示せる場合があるが、それなどは車を使うようなものだろう。車は道路がなければ走れないという制約はあるというものの、自宅から目的地まで基本的に自由に行けるという点が電車などとは大いに違うから、体の用法もこれに似ていると言える。
歴史的現在(2-1-8項参照)の場合は、ふと振り返ると目の前に線路の蜃気楼が現れると考えるのである。蜃気楼は遠くにある実体を反映したものであり、どこかにある一点(点過去の考え)を示している。目には見えるが実体が遠く離れて存在するというようなものだ。だから用法は一見不完了体現在ではあるが、中身は完了体動詞過去形の点過去の用法と同じだという事である。これが今の段階での私の「不完了体線路説」であり、今後これをもっと発展させることができるかもしれない。ともかく実践的な体の使い分けを考える上で一つのアプローチではないかと考える次第である。『存在と時間』という著書もある哲学者ハイデガーの研究家で自身も哲学者である木田元先生は、「存在とは何か」という問いが、西洋哲学の根本の問いであると述べている。それゆえ時制やアスペクト(動詞の体)を考えるということは、哲学すると同義であると言っても間違いではないように思われる。そうであれば、体の使い分けに関心のある人は、毎日哲学していることになる。
ロシア語の初学者で完了体・不完了体という名称に惑わされて、体の用法は完了とそうでないものと単純に割り切って考えている人たちに、そうではないと警鐘(信号)を鳴らし、本書がロシア語会話をする上で実戦的な体の用法における一つのアプローチであると伝えたい。ここで問題にしている完了体・不完了体という体のペアは、語彙的意味の同一性の観点から述べているものである。本書では3つの時制、不定法、命令法に分けて、体の説明をしているが、その本質は同じであるが、動詞のもつ語義によりその現れ方に強弱が出る場合もある。一つの時制で体の用法を学べば、それが他の時制や法に応用できるということを実感されると思う。体の本質についてのお題目だけ唱えても、会話の和文露訳で体の使い分けができるようになるわけではない。第2章以下の個々の用法と照らし合わせることを続ければ、必ず体の本質の奥義を極められる。
どんな動詞も完全な体のペアになるわけではない。完全な体のペアになるのは動作動詞である。それは動作動詞のсесть/садиться(座る)と状態動詞сидеть(座っている)を比べてみれば分かる。понять/понимать(理解する)という動作動詞でも、不完了体が「分かっている」という状態の意味の時は、露露辞典でも別項を立てるのが普通である。状態の意味が完了体の語義にはないからである。これは完了体が動作結果の存続を除けば現在の時制を示す事ができないことに起因する。7-3項の動詞も不完了体が状態動詞であるために、不完全なペアである完了体の方は動作の結果の存続ではなく、動作の記憶の存続しか示す事ができない。
会話での和文露訳のときには、実際に使える活用語彙と文法の知識がものを言う。語彙というのは単語、熟語、慣用句、諺にせよ基本は丸暗記だが、単語だけを並べても意味やニュアンスが伝わるとは言えない。そこで必要なのが、ロシア語文法の丸暗記ではなく、その理解に重点を置いた勉強法であり、それに役立つのが語用論である。語用論というのは動詞の体の用法、単数複数の使い分けなど、実際にロシア語を話す上で必須となる実用知識であり、手段かつ武器でもある。露文解釈では必要がないということで、ほとんど無視されてきたが、本書はその武器を和文露訳の実戦用として分かりやすく整備したものである。
体の用法を覚えるには参考書などを読んでなるほどと思うだけではだめで、やはり短文でよいから、自分で和文をロシア語の文に直す練習をしないと自分の血肉にならないし、会話での和文露訳をしようにも役に立たず、身にもつかない。直した文が正しいかどうか、具体的に教えてくれ