2020年01月28日
●第22回
ある以上、当然美しいはずである。そうであれば、これをロシア語の体に当てはめて検証することが可能ではないかと考えた。マースロフМасло Ю. С. 先生が提唱されたように、完了体と不完了体が体のペアかどうかを決める際に、一つの文で完了体動詞過去形が歴史的現在の不完了体動詞現在形と置き換えられれば、体のペアであるという考え方が一般的である。体のペアであるということは、意味が完全に重なる(同義である)ということに他ならない。つまり不完了体現在形の歴史的現在と完了体過去形の点過去において、完了体と不完了体は時間軸に対して対称性があると言うことができる。
和文露訳から考えた体の本質は、「完了体は刻々と動く動作のその瞬間を表現できない」と私は考えるが、不完了体は不動の一点をイメージしない、つまり不動の一点を意識しないのだから、意識せずとも動作が時間軸の特定かつ不動の一点(到達点)を通過する(関係する)場合がある。例えば、「本を今日読みます」という文は、ニュアンスの差はあるとはいえ、次のように両方の体を使って露訳可能である。
Сегодня я прочитаю книгу. <その本を読了する>
Сегодня я буду читать книгу. <その本を全部読むかどうかは不明>
これを両体の同義的使用というが、このように二つの体が時間軸において交差する場合には時間軸の対称性が成立するということになる。この場合の同義性というのは、意味が完全に重なるということではない。もしそうであれば二つの体が存在する意味がない。この場合は不完了体の動詞が持つ語義自体(動作)の意味を完了体は包括しているが、完了体にはその他に文脈(状況)に依存しない、つまり新規の何か(プラスアルファ)というニュアンスが付加されているということに他ならない。図式で示せば、下記のようになる。
完了体 = 動作事実の有無の確認(不完了体) + α(文脈に依存しない)
上の公式から分かるように、完了体にも動作そのものを示す要素が含まれており、会話における和文露訳をする上で区別が難しいわけである。そこで完了体中心に体の使い分けを考えてみたわけである。
磯谷孝先生は『演習ロシア語動詞の体』(吾妻書房、1977年)で、「完了体は完成(全一性、一体性)をはっきり打ち出すのに対し、不完了体は、この完成という特徴があるともないともいわない、ということによって完了体、不完了体は対立する、というのが、現在、最も有力な体の理論となっている」と述べている。磯谷先生の説を私なりに噛み砕くと、「完了体は動作の曖昧さの排除、つまり今ここでの具体的な1回の動作を表現するものであり、なじみの動作を表現する不完了体と対立する」となる。これは完了体のもつ具象化(意識化)と不完了体のもつ抽象化(一般化、自動的処理、機械的処理、無意識化)の対立と言い換えてもよい。ここで言う意識化というのは時間軸の特定かつ不動の一点(到達点)をイメージすることに他ならず、そのような動作に完了体が用いられるのである。こうすれば私の提唱する考えと、磯谷先生の説につながりを見いだせることになる。
ラスードヴァ先生は著書『ロシア語動詞 体の用法』(磯谷孝訳編、吾妻書房)の結論において、「完了体の主要機能は情報伝達的機能であり、不完了体の主要機能は、信号報知的機能と呼ぶことができよう。不完了体命令法によって名指される動作は、シチュエーションによって示唆される場合が一番多い」と書かれている。そのあと「実質的な情報をもたらす完了体と異なり、(不完了体)は独特な信号の役割を果たしているということができる」と一種の不完了体信号説を唱えている。それゆえ、不完了体の根源的意味は過去の時制の動作の名指し(動作事実の有無の確認)にあると示唆されていることはよく理解できる。『演習ロシア語動詞の体』(磯谷孝編著、吾妻書房)にスパーギス Спагис А. А.