2020年01月28日
●第18回
特定かつ不動の一点の有無を問題にしない、つまりあってもなくても気にしないということであり、これはある期間の動作、ある期間内の任意の一点での動作、動作の反復を許容するということになり、動作自体が文脈によっては具体的であったり、抽象的、非現実的、曖昧であることを意味する。不完了体が具体的な動作を示す用法としては、過程(進行形)、遂行動詞、評価解釈型動詞、状態動詞などがある。そのため不完了体は主観的な要素が少ない動作に用いられることになり、つきつめて考えれば、不完了体は話し手にとって、動作や状態という素材そのものであるということになる。不完了体は無色の、付加的なニュアンスのない動作や状態そのものであるために、過去や未来の時制では、動作事実の有無の確認(動作の名指し)という形で現れやすいが、これは過去、現在、未来の時制で成り立つ。肯定文では動作が有であることを確認し、否定文では動作が無であることを確認し、疑問文では動作の有無を確認していることになる。完了体は動作の有か無かのどちらかを前提にして、過去と未来の時制でのある具体的な状況における具体的な1回の動作(a specific action on a specific occasion)を扱う。文脈によってはその動作が結果の存続(3-2-1項)のように現在の時制や発話の時点に関わることもできる。不完了体というのはその動詞の語義における本質的動作(本質性)を示し、完了体はこれを具体的な動作(現実性)を示しているとも言える。完了体は語義にある動作の始めから終わりという全一性を示す。それは動作が終われば何らかの結果(論理的帰結)があるということで、それは具体性を帯びやすい。翻って、不完了体は動作事実の有無の確認がその本質だから、始まった動作が終わるかには関知せず、それゆえ一般性を帯びると言える。こういう観点から体の使い分けを考えてもよいかもしれない。完了体は動作に焦点を置くわけで、それは動作にピントを合わせるゆえに、具体的な動作を示すのに完了体は使われるということになる。ここから完了体は動作のミクロ化(縮小化)を示し、不完了体は俯瞰的な、いわばマクロ的な動作を示すということも言える。
時の状況語と不完了体は相性が悪いと述べたが、不完了体が時の状況語が結びつく場合もある。これを詳しく説明すると、時の状況語を時間軸の特定かつ不動の一点(到達点)を数学的に大きさのないもの(無限小)と捉えれば、完了体的アプローチであるが、理論上はともかく、現実には大きさのない点は存在しないわけで、その点に大きさがあると感じられれば、「期間内に」ということになり、不完了体的アプローチということになる。完了体は点時制(点過去、点未来)を示し、不完了体は面時制(面過去、面現在、面未来)を示すと考えてもよい。
不完了体的アプローチでは、この時間的枠内であれば、動作は1回でもよく、またそれ以上でもよい。またある程度継続してもよいし、その時間内のいつということを明示しないということになる。明日завтраという時の状況語を動作が起こるという点だけに注目して、大きさのない点ととらえれば、完了体的アプローチであり、明日中(のいつかとか、何回とは意識しない)という期間内にと捉えれば、不完了体的アプローチとなる。体の用法は伝えようとする事柄への話し手の意識に関わってくるというのはそういう意味である。
無色である不完了体は与えられた状況に応じていろいろな色に染まりやすい。切迫感、焦燥感、意識的などの感情的なニュアンスや、継続や反復を示す副詞(句)と共に、志向、経過や反復といった役割を帯びることもあり、それらも不完了体の本質に関わる。また所与の状況や文脈に沿った動作や、習慣的に期待されている動作、みなし反復(2-1-6-1項)のように心理的な踏み台が設定されているという意識が、新規のものではない、既知のものとしての代動詞としての役割をも果たさせることになる。これは動詞の語義を伝えるというよりは、文の中で述語としての役割を果たしているだけであるということを意味する。命令法でも、その場の雰囲気(TPO)に合わせた動作(特にイメージしない動作)という事なら、無色である不完了体が使われることになる。それらを勘案すれば、