2020年01月28日

●第17回

完了体過去形や被動形動詞過去短語尾の結果の存続の用法、また評価解釈型動詞では、動作は既に終わり、動作の結果だけが示されているに過ぎないので、上の定義と矛盾しない。体の本質は同じであるが、動詞群によってその現れ方に強弱が出る場合もある。そういう意味もあって、本書ではかなり細かく動詞群に分けて具体的に説明している。体の本質についてのお題目だけ唱えても、会話の和文露訳で体の使い分けができるようになるわけではない。第2章以下の個別の具体的な用法により動詞の体の用法を検証し続ければ、必ず体の本質の奥義を極められる。
動作の遂行は完了体でも不完了体でも表現できるが、完了体は動作の過程を示さず、動作の結果を重視する。過程というのは常に動作が一瞬一瞬動いているわけで、完了体の動作は過去か未来であり、その時点での動作の一瞬や過程(進行形)を示す事はない。過程を示せないことから、完了体は未来でも過去でも時間軸の一点の動作を示すと私は考えた。この一点で動作が完了するということは、動作自体に焦点があり、動作に焦点を結ぶというのはより具体的な動作を意味することになり、それは主観的な動作にもつながる。それゆえ主観的な事柄には完了体を用いるのだというのが私の考え方である。簡単にまとめれば、

完了体は時間軸の点で
語義の動作が完結することを示し、
不完了体は時間軸の広がりで
語義の動作や状態が起こることを示す

ということになる。もっと詳しく説明すると、完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定、かつ無限小の不動の一点をイメージするとも言えるわけで、この不動の一点と言うのは曲線や直線などの連続する点からなる点ではなく、前後から孤立した無限小の一点を意味する。同様に継続の結果を示す完了体(про-という接頭辞のついた動詞群)はあっても、継続中の動作を完了体は示せない。規則的反復も完了体は表現できない。完了体は話し手が動作完遂の結果として、時間軸の特定、かつ無限小の不動の一点をイメージするというのは、焦点を当てるということであり、それが動作に具体性を帯びさせるという事を意味する。それゆえ完了体には具体的、主観的(叙想的)ニュアンスが出て来る。これは、懸念、期待、動作の完了、新しい情報や事態の出現、新規の(追加的、より詳細な)動作の可能性や、否定文では不可能、否定の強調などという、話し手の考える主観的なものを指し、具体的な1回の行為などもそうである。現在の時制では、完了体は結果の存続(現在完了)や広い意味での今(一瞬後の未来)という形でしか現在と関係を持てない。回りの状況に左右されないために、感情的には超然とした感じを受けることもある。回りの雰囲気には頓着せず、具体的な新規の動作を行うということから、聞き手の事情を考慮しないという強制のニュアンスが出てくる場合もある。禅語で言えば、「即今当処自己」が完了体の本質を表していることになる。これは偶然にせよ完了体の持つ時間的限定性временное определённостьという考え方を発展させたものと言える。
一方、不完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ無限小の不動の一点をイメージせず、時間軸の広がりでの動作や状態をイメージする。つまり不完了体は動作遂行の結果ということを特に考慮しないということであり、そのような一点を示すような時の状況語と不完了体は相性が悪いと言っているわけである。しかし、動作遂行の結果をイメージしないのなら、4-1-2項の予定の用法(動作事実の有無の確認)や、5-1-2項の勧誘の用法(動作が任意である)のように時間軸の特定かつ不動の一点(到達点)を示す状況語と共に用いてもよいということになる。完了体の本質は具体性であるように、不完了体の本質は任意性であるとも言えるが、それは心中どう思うかではなく、あくまでも発話に関するものであるという事を頭に入れておいてほしい。不完了体は動作において

Posted by SATOH at 2020年01月28日 10:13
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