2020年01月28日

●第16回

第1章 動詞の体(アスペクト)の本質と規範

 ある人曰く、「過去はすでに過ぎ去って記憶の中に残っているだけであり、未来に至っては存在するどころかそれが起こるかどうか確定していない。現実と言えるのはたった今この瞬間に起こったことだけだ。」このような時間に対する考え方は考え方として、ロシア語の文法はロシア人の根底にある本質的な世界観を反映しており、動詞の体(アスペクト)の用法も動作の言語的表現においてそれと深く結びついている。体の本質とは何かを追求していくうちに、ロシア人が無意識とは言え、どのように体の使い分けをしているのかに興味をもつようになり、自分なりに会話での和文露訳をする上でのいくつかの作業仮説を立ててきた。それらを著者自らが収集したおよそ9万4千項目に及ぶ語彙集の例文に基づき、時制、法により体の本質について検証を続けてゆくうちに、話し手の動作というイメージに着目したのである。動作の一瞬をイメージするのであれば、イメージした瞬間、動作のイメージが固着する。動作がその一瞬に止まるのなら、その一瞬を時間軸の不動の一点でイメージすることになるが、過程のようにその一瞬にイメージが止まらないのであれば、時間軸の不動の一点にはなり得ないことになる。ここから話し手の動作のイメージにより完了体と不完了体との使い分けができるのではと考えた。
『ロシア語百科 Русский язык Энциклопедия』(Советская энциклопедия, 1979)には「完了体は動作の不可分の全一性の意義значение неделимой целостности действияを持つ〔マースロフ教授やボンダールコ教授の見解〕と動詞の完了体の定義について述べられている。これは完了体が明示的な機能を持つという有徴性からのものであり、不完了体については「不完了体は動作の完遂завершённость действияの意味を持たないかもしれないし、持つかもしれない」というあいまいな記述をせざるを得なかったことからもそれは理解できる。これについてボンダールコ教授は不完了体は動作の全一性に対し中立的な関係нейтральное отношение к целостности (компактности, комплексности)/нецелостностиを持つと述べておられる。ここでいう全一性とはその動詞の語義にある動作が初めから終わりまでという事を示していると考えられる。しかし、いずれにせよ、これだけでは会話で和文露訳をする際にどちらの体を使うかを決めるには、まったく役に立たないことは明らかである。
会話における和文露訳での体の使い分けを可及的速やかに、実用的に行うには、やはり完了体のもつ有徴性から考えて、完了体のもつ動作の不可分の全一性の意義という定義から出発するのがよさそうである。完了体が動作の不可分の全一性を意味するのであれば、中途の動作である過程を完了体は示せないことになる。しかし、動作の不可分の全一性だけでは、不完了体の遂行動詞、状態動詞、予定の用法も動作の不可分の全一性を示すわけで、これだけでは不十分である。そこでもう一つの説「完了体は自らの抽象的な、質的な限界(そこに達すると動作が尽きるか、止むはずの臨界点)に達した動作という意味を持つ〔ヴィノグラードフ教授の見解〕」を考慮に入れれば、完了体は中途の動作である過程を示せないのは明らかとなる。ラスードヴァ教授も自著『ロシア語動詞 体の用法』で「完了体動詞は発話時点に行われつつある動作を伝達することはできない」し、不完了体の過程と完了体の完成した動作は対立すると述べている。これは、

完了体は刻々と動く動作の
その瞬間を表現できない

ということを意味し、それは過去、現在、未来、不定法、命令法、その他の表現においてもそうである。これが体の使い分けを行う上での大本であり、全ての個別の体の使い分けはここから発していると言える。その瞬間の動作の表現を完了体が示す事ができない以上、他に代わるものがないために、やむをえず不完了体が担うことになる。

Posted by SATOH at 2020年01月28日 10:07
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