2020年01月28日

●第54回

また、点過去を否定文で用いれば、2-2-1-6項の否定の強調となる。2-1-2-2項や2-1-3項も参照のこと。

2-2-1-2 点過去と結果の存続の用法の違い

 完了体過去形を用いる結果の存続(3-2-1項)は点過去の派生だが、それは完了体過去形をтолько что(たった今)と結びつけて考えると、動作の不動の一点が示されており、点過去であることは一目瞭然である。動作の完遂した瞬間と発話の時点があまりに近いので、その動作の結果は発話の時点にも残っていると想定され、それが結果の存続につながって行ったと考えられる。ちなみに不完了体過去形なら動作事実の有無の確認となる。この違いは「たった今」を現在のこの一瞬と全く関わりのない過去の時制と捉えるか、点過去から派生した結果の存続と捉えるかによる。

(私はたった今戻った〔戻ってきたばかりだ〕)Я только что вернулся.
(たった今僕にアンドレイが電話してきた)Мне только что звонил Андрей.

そのため完了体動詞過去形を使う結果の存続の用法と、この点過去を区別するのは文脈だけである。完了体過去形という一つの形式に過去完了の完了と現在完了の完了という二つの用法があって、それを文脈により使い分けているということになる。それは人の実際の動きにも関係するからである。例えば、(彼は来た)Он приехал.という文は、動作が一度起こったということを意味する。もしこの発話が、たった今なら、彼はほぼ100%、そこにいる可能性が高い、つまり(彼は来ている)ということで結果の存続という用法である。昨日でもいる可能性は高いだろうが、3日前、1週間前となると、人はそれこそホモモーベンス(移動民)だから、そういう人間の習性から見て同じ場所にずっといるかどうかというと、いない可能性が高いだろう。1年前となるとまずいないと考えるのが普通である。いない場合は点過去である。このように文脈によって、結果の存続になる可能性があるが、本質的に変わらないのは、動作が一度起こったという事を示すアオリスト的な意味だけである。
 一方、不完了体動詞過去形を用いた(彼は来ていた)Он приезжал.では、動作が1度、ないしそれ以上起こったということだけ示している。一度かどうかはっきりしないために、動作の反復の可能性が出てくる。不完了体は動作事実の有無の確認だけを行うために、動詞には動作以外のよけいなニュアンスがない。ここに特定の過去を示す状況語(なくても意識の中で1度だけ起こったということだけでもよいが)があれば、これは具体化(特定化)といって、完了体の領域である。приезжалのように反対語(対義語)がある動詞は、完了体動詞過去形のприехалとの対比で、100%ではないにせよ、приезжал = приехал и уехал〔来て、去った〕と理解される場合が多い。100%と言えないのは、語学が人間という、その行動が予測不可能な存在を相手にしているからである。
同様に、(彼は生まれた)Он родился.は、その人が生きていれば結果の存続であり、文脈で生死を特に問題にしないか、生死が不明か、死んだ場合は点過去となる。しかし、

(彼は1985年9月25日に生まれた)Он родился 25 сентября 1985 года.

と生年月日が入ると、今現在の時点から見て、彼の生年月日では生きている可能性が高いから結果の存続という解釈も成り立つが、過去のある一点を示す以上、点過去と考えた方が無難である。結果の存続では「~の時点から」という時の状況語は許容されるが、過去のある一点を示す句が入れば、それは過去の時制であるから、当然点過去である。いずれにせよ「彼が生まれた」は、動詞の語義上、何回も繰り返して生まれたという意味にはなりえない以上、反復という意味はあり得ない。つまり不完了体と

Posted by SATOH at 2020年01月28日 19:23
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