2019年10月08日
●和文露訳要覧第512回
出題)「忙しさにかまけて集会に出席できなかった」をロシア語にせよ。
Я не мог принять участие в собрании, потому что я был совсем перегружён делами.
宜しく御願い致します。
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構文的には英語で言うtoo ... to を使った方がすっきりします。『和文露訳要覧』9-8-3項参照のこと。私の答えは、Я был слишком занят, чтобы посещать собрания.
Я до того вертелся, что не мог присутствовать на собрании.
宜しくご指導お願いします。
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слишком... чтобы という構文を使った方が自然です。
よろしくお願いいたします。
Я был слишком занят, чтобы присутствовать на собрании.
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正解です。
Из-за занятости я не мог присутствовать на собрании.
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意味は分からないでもないですが、こうは言わないでしょう。
Я не мог участвовать в собрании из-за того, что я обращал внимание только на работу.
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目を向けているというよりは没頭しているとしたほうが良いかと思います。
Был занят и не смог присутствовать в собрании.
具体的な場面ということでсмогとしました。よろしくお願いします。
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忙しくて出席できなかったでは弱いと思います。それとна собранииでしょう。
Я был(была) так занятым(занятой), что не мог(могла) присутствовать в собрании.
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忙しいというときは、形容詞短語尾由来のзанят(а, ы)を使います。それとна собранииです。
コメントありがとうございます。
「слишком ..., чтобы という構文を使った方が自然です」とおっしゃるのは、設問の趣旨を「出席できなかった」に置かず、「それほど忙しかった」という風に解釈して良い、という意味でしょうか。
と言いますのは、研究社露和辞典の чтобы の項目では、程度を示す従属文を作る用法はあります(слишкомを使った例文もあります)が、これは設問にあるような「程度-その結果」を示すための用法では無いように思いました。目的を示す従属文として不定形を用いる場合には、結果の意味への転用がありますが、それは「多く否定」(結果を示す従属文が否定文)とされています。
чтобы を使って結果を示す場合、1案としては、
Я был слишком занят, так что у меня не было времени, чтобы присутствовать на собрании.
のような使い方があると思います。
辞書にあるчтобы の用法と「слишком ..., чтобы という構文を使った方が自然です」ということとの関連をもう少しご説明下さい。
宜しくご指導お願いします。
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чтобыというのはбыがついているためにчтоの仮定法的な用法に使うというのはお判りでしょう。否定文でчтоがчтобыになるのも、文の内容が否定されているからです。お書きの例文は、一言で言えば「くどい」ということになります。忙しすぎるというのは論理的に考えて、時間がないということです。たんに忙しいのであれば、時間はあるとっも考えられます。слишком....чтобыというのは、「あまりに~すぎて、できない」という意味です。Сложное предложение, Формановская, 2014にある例文を紹介します。二重否定なのでわかりにくいとはおもいますが、構文は理解できると思います。
Он был слишком честен, чтобы не видеть народных страданий. *= Он был настолько честен, чтобы не мог не видеть народных страданий.(彼はとても誠実だったので、民の苦しみを見ないではおられなかった)
コメントありがとうございます。
前回の1案(чтобыを使って結果を示す)は、私も「くどい」と思います。ただ、слишком...,чтобы を「あまりに~すぎて、できない」という意味だと言い切っていいのかどうか、もう少し質問させて下さい。
まず、紹介いただいた例文で、言い換え後の чтобы は что でしょうか。
また、言い換えを示す等号記号「=」の前にはアスタリスク「*」が付いているようです。これ「*=」は「ほぼ等しい」という意味で、「=」の「等しい」とは異なるのではないでしょうか。
このчтобыはчтоだとして、例文を参考にしますと、
1.Я был слишком занят, чтобы присутствовать на собрании.
*=
2.Я был настолько занят, что не мог присутствовать на собрании.
となります。
第1文は「程度」の表現(чтобы節)に留まりますが、第2文はその程度による「結果」の表現(что節)になっていると思います。ですから第2文は当初の投稿文
Я до того вертелся, что не мог присутствовать на собрании.
と変わらないように思います。
設問では「出席できなかった」と結果が明示されていますが、この場合に、接続詞としてчтоを使う上の第2文や当初の投稿文より、чтобы を使う第1文の方が「自然だ」というのはどういうことなのでしょうか。
宜しくご指導お願いします。
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*はタイプミスです。無視してください。『和文露訳要覧』9-8-3項を引用します。
「~しすぎて~できない」слишком (чересчур) + 形容詞(動詞、副詞), чтобы + быть、ないしは不完了体動詞不定形という構文
パードゥチェヴァ先生はこの構文には否定に含まれるとしている。つまり本来чтобыの後は完了体が一般的だが、動作の無の確認(動作自体の否定)ということで不完了体不定形が来ていると思われるが、動作に具体的ニュアンスが強まれば完了体不定形の来る可能性もある。このчтобыは結果の意味への転用だと考えることもできる。настолькоやстоль (так)もчтоとの組み合わせで、не могやнельзяなどと共に使えるし。ещё так..., чтобыも使える。
つまりслишкомには否定的ニュアンスがあるので、чтобыを使うが、настолько)(あるいはдовольно)にはそういうニュアンスがないので、чтоを使うということです。
お書きの例文、Я до того вертелся, что не мог присутствовать на собрании.
については、до того = настолько ですから、до того の位置をвертелся の後にすれば、可能だとは思います。
コメントありがとうございます。ご説明はよく了解いたしました。
これは設問の日本語からどのようなニュアンスを受け取るか、という習慣も関係していると思いました。
私は単純に「原因と、その結果」という事実の表現として理解し、「かまけて」の部分を вертеться に託しました。ですが、設問を「忙しくてとても出席できる状態ではなかった(出席どころではなかった)」というニュアンス(残念などを表現したい)で受け取りますと、なるほど чтобы を使う方が自然です。
なお、вертеться と до того との語順については、研究社露和辞典の до の項にある例文
Он был до того слаб, что не мог двигаться.
Я устал до того, что ноги подкашиваются.
を参照しまして、вертеться を強調するのにどちらの語順がいいかを考えたつもりでした。
宜しくご指導お願いします。
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形容詞の前にдо тогоがつくのは、上記の例文やтакのように自然だと思いますが、動詞の前というのはどうでしょう?動詞の後がより自然だと思います。
コメントありがとうございます。
確かに、до того は так のような副詞句になっていますが、その場合、動詞より前か後かということではなくて、その副詞句で修飾したい(強調したい)語の直前に置くのが一番自然だ、ということではないのでしょうか。今回の場合は動詞 вертеться を強調する意味で動詞の前に置いた次第です。もし後置しますと、その使い方は前回の устать を使った例文と同じですが、что 節の直前に置くことになって、それは что 節の表す結果の方を強調することになる(接続詞的な使い方)と思いました。
宜しくご指導お願いします。
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до тогоはчто以下を受けているわけですから、やはり動詞の後に置くのが自然だと思います。что 以下がないのならおっしゃるように動詞の前でしょう。ただ私なら до тогоは使いませんが。
コメントありがとうございます。了解いたしました。