2019年02月05日

●和文露訳要覧第443回

『和文露訳要覧』
10-13 –тоと-нибудьの使い分け

 「何か」の露訳については、что-то, что-нибудь, что-либо, кое-что, нечтоが考えられる。その違いは、что-то = неизвестно что(何か分からないもの)で、話し手には特定のもの(確かに存在するが、具体的に何かを明言しないか、イメージ的には具体的で、明確に分かっているが言葉で表現できないもの、詳細が不明のもの)である。だから過去時制と現在時制では使えるが、未来時制でこれを使うのは普通の会話ではあまりないと思われる。日本語の「なにやら」に似ている。

(空中に何かがきらめいた)Что-то промелькнуло в воздухе.
(それとも俺に対して奴は何か企んでいるのか?)Или он что-то готовит под меня? <何かよからぬことを>
(何か隠していらっしゃいますね)Темните вы что-то.
(もし彼の身に何かが起こったら、私死んじゃう)Я умру, если что-то случится с ним. <この何かは死、別離などであり、話し手にはイメージ的に特定なものであることが分かっている>

что-нибудь = безразлично что は「何でもいいから、ないしはイメージとして何もかたまっていない、これからはっきりする(させる)もの、明らかにする(なる)可能性があるもの、抽象的で漠然としたこと」という不定(有無を問わず)のニュアンスである。日本語では「なにかしら」という感じであろう。他にслучись что-нибудь(もし何か起こったら)と命令法でも表現できるが、これは日本語でも「もし何か起こってみろ、そうしたら」という表現もあるから理解しやすいと思う。что-либо はчто-нибудьと同義だが、もっと一般的な意味で、どんなものでもということを強調する。これなども10-3-1項の可算名詞の単数と複数の使い分けに似ている。кто-нибудьも特定の人が仮に話し手の頭にあったとしても、聞き手にとっては誰でもいいのであれば、-нибудьを使う。さらりと表現するというのは、不完了体の用法にも似ており、自己主張しない(相手の意識に負担をかけない)用法とも言える。

(何か起こったのですか?)Что-нибудь случилось? <不定(起こったかどうか不明)>
(きっと、うちのペーチャが学校でまた何かしでかしたのよ)Наверное, наш Петя опять что-нибудь в школе натворил.

(何か読むものを貸して下さい)Попросите что-нибудь почитать. <〔小数の知らない本のうちの1冊〕ということであり、что-либоに変えると、知らない本のどれでもいいから1冊という意味になる>

кто-нибудьは反復という文脈(異なる人々、異なる状況)においても任意の(不定の)「だれか」という意味で使われる。ところがкто-тоであれば名前を知っているかどうかは別にして特定の人ということになる。

(うちの課ではいつもだれかが長電話をしていた)У нас в отделе всегда кто-нибудь висел на телефоне. <кто-нибудь = тот или другой (иной)>
(だれかを人波の中に見つけようとしているかのように何度も振り向いた)Часто оглядывался, словно отыскивая кого-то в толпе.
(誰かグーニャを呼んでください)Позовите кто-нибудь Гуню!
 
кое-что(кой-чтоは口語)は聞き手には分からないが、話し手にはある程度分かっているものという意味と、いくつかのものという意味がある。нечтоは主格と対格のみで用いられ、ふつうは定語がつき、書き言葉的ニュアンスがあり、「~すべきものがない」という意味では用いられない。似た言葉のнештоは「まさか」という意味で、разве, неужелиと同義である。

(見せたいものがあるんだ)Я хочу тебе кое-что показать.
(都市の建物と田舎の農家の中間のもの)нечто среднее между городскими постройками и деревенскими избами

 когда-тоとкогда-нибудьの違いについても同様で、когда-тоは過去の「かつて」、ないしは未来の「いつか、つまり近接未来ではない未来」という意味である。一方когда-нибудь (когда-либо) は不定の時を示すわけで、普通は未来で、「いつか」という意味で多く使われるが、過去でも疑問文で動作が起こったかどうか不明のときに、「かつて」という意味で使われる場合がある。

(壁の右側にはかつて絵がかかっていた)На стене справа когда-то висела картина. <発話の時点では絵はかかっていない>
(それを〔かつて〕ご覧になったことがあるのですか?)Видели вы это когда-нибудь? <「かつて」が過去に起こったかどうかは不明>

この形容詞はкакой-нибудь (= тот или другой), какой-тоとなるが、使い分けは同じである。

(彼はある程度罪を認めた)Он признал в той или иной степени вину.

出題)「シャギニャーンの小説とその映画はあまり接点がなかった」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2019年02月05日 07:35
コメント

1.Романы Шагиняна с их экранизациями не очень поделились общими языками.
2.Романы Шагиняна и их экранизации не очень имели общие точки соприкосновения.
宜しく御願い致します。
-----------------------------
Шагинянというのはソ連時代にそこそこ有名な女流作家です。アルメニア系の女性の名字のため格変化はしません。экранизацияは映画化であって、映画化された作品という意味はありません。2.の共通の接点というのはおかしいと思います。私の答えは、С романом Шагинян у фильма мало точек соприкосновения.

Posted by さきちゃん at 2019年02月05日 08:56

Между романом Шагиняна и его
кинокартиной особо не наблюдалось сходство.
-------------------------------
男性ではないのですが、仮に男性として類似性と接点は違うと思います。

Posted by ブーチャン at 2019年02月05日 09:30

さとう先生、先回の詳細なフォローに感謝しております。引き続きよろしくお願いします。

Между романом Шагиняна и этим фильмом было мало соотношения.
-----------------------------
相関関係ではなく、接点です。

Posted by 農夫 at 2019年02月05日 21:29

Романы Шагиняна и их фильмы почти не имели общих.
性質なのでнвとしました。よろしくお願いします。
-------------------------------
意味は通るでしょう。

Posted by やま at 2019年02月07日 09:59
コメントしてください