あき
人形になったイポンカ

−第3話−

「彼女の笑顔」

 

   いよいよ初仕事の日である。タチヤーナは相変わらずの満面の笑顔だった。無愛想と言われているロシア人でこれほどの愛想笑いができる人はなかなかいないだろう。彼女の私に対する扱いはまるで小さな子供に話しかけているようだった。そして猫なで声でこう言った。

 「さあ、アキ、お店に立ってみましょうね。着物はどれがいいかしら?ちょっと羽織ってみて。あら〜〜、いいじゃないの!やっぱり日本人が着るとちがうわ〜。」

彼女にとって私はまさしく“人形”だった。彼女の思うがままに着せられ、思うがままに化粧もされた。

 「お客様に見て頂くんだからこれくらい派手な方がいいわよねー。」

鏡で見てかなりビビった。歌舞伎の女形のような舞妓のような、とにかく、外国の映画に出てくる怪しげな日本人女がそこにいた。それ以来、私はタチヤーナにいじる隙を与えないくらい、家でバッチリメイクをしてくるようになった。

   面接の時にはあまり気に留めなかったが、ウェイトレスの女の子達は皆アジア系の外見をしていた。要するにオリエンタルな雰囲気を作るため、そういう女の子達が雇われているのだ。彼女たちの出身はさまざまで、モンゴルと隣接するブリヤート共和国から、コーカサス地方に位置するカスピ海に面したカルムイキヤ共和国から、かつてウズベキスタンなどに移住させられた朝鮮系ロシア人など…それでも皆ロシア人なのだ。改めてロシアの広さを感じた。『ついに本物の日本人が来たわよ!!』というタチヤーナの言葉の意味が分かった。

   『本物の日本人』というだけでかなりのVIP待遇であった。ウェイトレスたちの着ているぺらぺらの上っ張りだけの和服と違い、私の和服は明らかに布の質が違う。長襦袢も帯も帯留めも付いていた。その上他の従業員より早くあがり、店の金でタクシーに乗って帰る…。タチヤーナやアレクサンドル=イヴァーナヴィチが何かと特別扱いをするので私は他のウェイトレスたちから反感を買うんじゃないかとハラハラしていた。そんな、おどおどしていた私に真っ先に話しかけてくれたのはボリビア出身のベラルーシ人の血を引くナターシャだった。腰まである真っ黒の黒髪のエキゾチックな顔立ちをした、私より2つ年下の彼女はしれっとして言った。

 「何言ってんのアキ。あなたは日本人でお客様にご挨拶する事が仕事だからいい格好をしているのはあたりまえよ。単に私たちとは役割が違う、ただそれだけのことよ。そんな事より、私に日本について話して。アキにはどんな家族がいるの?

   このナターシャをきっかけとして、ちらちらと私の方を見ていた他のウェイトレスたちも話に参加していった。次々と友人ができて私はこれ以上も無いほどの幸福を感じていた。留学先のP大に外国人は山ほどいるが、ロシア人はほとんどいない。まさに『生きたロシア語』を学ぶことのできる恰好の場所であった。

   店に立つこと一時間。なかなか客はやって来ない。それもそのはず、メニューを見れば一目瞭然だが、値段が異様に高い。記憶によると、天ぷらは一人分約3000円、ラーメン一杯で約1500円、すき焼きは約6000円もする。日本人にとってアホらしくなるほどの値段だ、ロシア人にとってはなおさらだ。しかし、ロシア人にとって日本料理は超高級、女の子をデートに誘う時には日本食レストランに誘えば一発OKだとか。とにかく、有り難がられるのだ。

   ようやく客が来たようだ。私は何だか緊張してきた。とりあえず深々とおじぎをし、通じなくとも良いから日本語で挨拶するのだ。

 「い、いらっしゃいませ!」  

 「この子は日本から来たのかい?珍しいなぁ。おい、本物なのか?。」

そこでタチヤーナは待ってましたとばかりにしゃしゃり出る。

 「もちろんですわ。我がレストランは本物の日本人を雇ってますの。他ではなかなか見ないですわよね。ほほほ。」  

客が感嘆するたびにタチヤーナはしてやったり、とばかりの笑顔である。

   だんだん接客のコツが掴めてきた。元来、接客は私の得意とする分野である。ロシア人には通じない日本語でもてなすことに慣れ、どうしたら更に驚きと興味を客に感じさせるかわかってきた。まずは最初が肝心。外見では他のアジア系の女の子たちとさほど変らないのだ。まずは“いらっしゃいませ”という言葉にどれほど気合いを入れるかだ。ゆっくりと、しなやかな発音で、これでもか!というくらいに丁寧に深々とおじぎをする。そしてロシア人にはマネできないスペシャル営業スマイル!!大体の客はこれだけで喜んでくれる。

   客を席まで案内をしたら、

 「メニューをどうぞ。」

これも日本語で。“メニュー”はロシア語でも同音なので、意味は解ってくれる。

そして緑茶をすすめるのだが、さすがにこれは日本語では解ってくれない。ここでいきなり、流暢過ぎずにロシア語で緑茶の説明をしだすのだ。少しカタコトくらいがちょうどいい。すると、「この子はまったくロシア語が解らないのかしら、どうしましょ。」と思って緊張していた客はホッとして、いろいろ聞いてくるのだ。そこで話に花が咲く。ロシア語の実践にもなる。

 「なんていいバイトを見つけたんだろう!」

その日はルンルン気分で仕事を終え、二階の小さな部屋で着替えていた。そしてその部屋を出ようとドアノブをまわした時、

 「!!?開かない!?」

着替えるのに鍵をかけた覚えはなかった。誰かが外から鍵をかけたのだ。急に恐ろしくなった私はドアを叩きながらとりあえず叫んだ。

 「たすけてぇーー!開けてぇー!!」

 意外にもすぐに扉が開き、そこには満面の笑顔のタチヤーナが立っていた。

 「恐かった?開かなくなってしまったのね。かわいそうに。」

そう言うと、彼女はつかつかとヒールの音を立て去っていった。結局これはタチヤーナのしわざではないのだが、なんでこんな彼女がやったかのような書き方をしているかというと、その時の彼女の背中がこう語っているかのように見えたからなのだ。

 “絶対あなたを逃がさないわよ……”

                                     つづく

 

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