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  おちぶれ日記 (2) '99年2月


2月1日(月)

●ふたたび寝込む● 

  • どーん、と落ち込む。朝起きて会社にいく準備をしていると、急に気力が抜けてしまい、動けなくなった。 
    地に沈んでいく感じ。 
    今更会社にいってどうするんだという考えがよぎる。 

    結局会社にはいけなかった。 
    気力をふりしぼって会社に電話だけした。なにもしたくないし、動きたくもない。本も読みたくないし、音楽もききたくないし、テレビもみたくない。 
    ご飯をつくるのが面倒くさいから食べない。今日はなにもしないでおこうと居直った。 
    いや、実際なにもできないのだ。ずっとベットに横たわって何もしないでいると、 
    夢を見ているようなぼんやり考えているような曖昧な時間がただ過ぎていく。 
    このままの状態がいいとも思わないが、かといって時間がもったいないとも思わない。 
    生きる屍だなと思う。 
    ふっきれたと思ったのにもとにもどってしまった。 
    こんな状態では留学も次の仕事もできないと思う。情熱がない。疲れた。 
    何をするにも気力がないのが今の一番の問題だ。こういうときだからこそ積極的に次の人生のために動かなければならないだろうに、できない。 

    もうこのまま再起はできないかも、と思うと悲しくなった。 
      

  • 昼ごろ、大家さんから電話。大学に電話して、いろいろあたってくれているという。大家さんはいつも笑顔で、ひとの世話をするのが好き。いい人だ。僕が今の部屋をかりたのも、大家さんがいい人だったからという理由が大きい。 

    教育大に今から電話しろという。勇気を出して大学に電話すると、すぐ来いという。どこにも行きたくなかったが、気力をふりしぼって、大学の事務室にいき、女事務長にあって話をきく。 
      

  • 事務室では、昔式の打鍵式のタイプライターがあって、タイピストがパチンパチン打っている。その音がうるさくて事務長の話がよく聞こえない。 学士入学するには大学の卒業証書が必要だが、文学部卒はいいが、哲学部卒では認められないという。僕は文学部哲学科卒だが? ときくとダメだという。よく分からない。まさか10年前に出た哲学科の卒業証明がこんなところで帰路を分ける重要な意味を持ってくるとは思わなかった。
     
  • どっと疲れて、虚脱状態になり、うつろな精神状態で家になんとかたとどりつき、ご飯も食べずに寝込む。情報は入ったが、やっぱり無理するとよくない。

2月2日(火)

●うつがひどくなる● 

  • 今日も会社を休んでしまう。 うんうんうなりながら、ずっと寝ていた。 

    夜、最高責任者から電話がある。自分も昔うつ状態になって会社に行けなくなったことがあるという。会社に行く途中で電車を降りてしまったこともあるとのこと。そのときは抗うつ剤を飲んで、もうこれ以上眠れなくなるほど寝続けて、徐々に回復していったという。表からみたら分からないが誰でも、特に海外で勤める人は同様の状態になることは、よくあるという。 
    今は休むことが大事、と励ましてくれた。解雇を告げられたひとから、慰めてもらうのは少し複雑な心境だった。しかし、人柄と誠意は伝わってきた。

2月3日(水)

●地獄の3日間● 

  • 結局この3日間は、ほとんど寝てばかりいた。朝は、今日こそは会社にいこうとして、背広をきて、ネクタイもしめるのだが、いざ行こうとした寸前、へなへなと座り込んでしまう。 

    ものすごい鬱状態。熱は下がっても、気持ちが沈んで一時は動くことさえできなかった。ベットに横になって微動だにしないにもかかわらず、すごく疲れる。寝ても寝ても疲れがとれず、油汗ばかり出た。食欲もわかず、ほとんど部屋でなにも食べずに寝ていた。といっても将来が不安で不安でたまらない。大学に行って話をきいたりしたが、どっと疲れて、息も絶え絶えに帰ってきた。もう将来のことはなにも考えたくない気持ち。 

    昼頃、人事担当のロシア人女性、Sさんから電話がかかってくる。「大丈夫?」ときかれる。状況と症状をなんとか説明したが、思わず「ときどき自殺したい気持ちになる」ともらしてしまったら、びっくりされて、いろいろとお説教されてしまった。ほんとうに心配ばかりかけている。
     

  • 夜、気力をふりしぼって、こちらで長年留学して、その後ある日本企業で契約社員として働いている女性に会っていろいろ話をきく。授業内容とかロシアの留学・大学制度のしくみなどについて長い時間つきあってもらい、いろいろ教えてもらった。

2月4日(木)

●3日ぶりに出社する● 

  • 思い切って会社にいく。地獄から生還した感じ。いまさら、会社にいってどんな顔をして人にあえばいいのか。 
    よっぽど休もうかと思った。でも、これ以上休むと騒ぎが大きくなるし、みんなに心配をかけてしまう。 
      
  • 外に出ると、なんだこれは!と思った。寒い、むちゃくちゃ寒い。身体に染み入るような寒さである。あとからマイナス20数度を超えて小学校が休校になったと知ったが、あのときはもう引き返そうかと思った。「世間の風の冷たさ」を身にしみて感じた(意味が違うか。) 
     
  • 会社にたどりつき、席につくとすぐ人事のロシア人女性、Sさんがやってくる。気分はどうか?と聞かれる。先日電話をもらったときに「ときどき自殺したい気持ちになる」なんて、とんでもないことをくちばしってしまったので、心配かけてしまったのだろう。ばかな僕である、悪いことをした。「だいぶよくなった」と答える。「ちゃんと食べてるの?」ときくから、「食欲がないから食べてない」といった。 

    Sさんが帰った後、しばらくして、お手伝いさんが、お盆にのせて、お茶とクッキーを持ってきてくれる。なんで? こんなのはじめてである。聞くと、Sさんからの差し入れだというのでびっくりした。心遣いが嬉しかった。こういうことがさりげなく出来る彼女は素晴らしいひとだと思った。
      

  • 僕の机の上には、包みが置いてあった。中を見るとこう鬱剤と本(精神的病を克服した人の手記)が入っていた。最高責任者が僕のために持ってきてくれたのだった。行って挨拶して、お礼をいう。いろいろと僕の身を心配してくれていたようだ。開口一番、「(会社に)えらいねー。よくきたねー!」とかいわれてしまった。校長先生と登校拒否の小学生みたい。 

●「ご飯食べましょう」コール● 

  • 差し入れのクッキーを少し食べて、やっぱりなにもする気がおきないで、昼ご飯もめんどくさくてずっと社内でPCに向かっていた。昼過ぎに人事のSさんから電話がかかってくる。「昼ご飯は食べましたか?」と聞かれる。「食べてないです」と僕。
      
  • 「食べなくてはいけません」、「食べたくないのです」、「栄養をとらなくてはいけません」、「でも・・・」、「食堂はまだ開いてます。食べると約束してください」。。。
  • やっぱり、給食を嫌がっている小学生と先生との会話である。「努力します」と答えて、でも食堂にはいかずにそのまま席にいると、30分ほどして再び電話がかかってきて「食べましたか?」と問われる。思わず苦笑してしまった。
      
  • 「私のところまで来てください」というので、Sさんの席まで行くと、魚のオープンサンドを僕のために買ってきてくれていた。ほんとうにかたじけない。ちょっとかじりながら、いろいろ話をした。これからのことについて、こちらに残って留学するかもしれない、と伝えると、「どうして?」と驚かれる。ほとんどの日本人は日本に帰るし、それが一番シンプルな道である、なのにどうしてここに残りたいのか?と聞く。 

    僕の「心が分からない」、
    という。 

    「どうして?」と聞かれて、すぐ答えることができなかった。どうして僕はここに残りたいのだろう? 日本を出てきたときは、「石の上にも3年」のつもりで最低3年、もしかしたら5年、10年はロシアで修行するつもりだった。それに人材募集では「骨をうずめるつもりで来て欲しい」という人事部長のインタビューが載っていたのである。外国に一度くらしてみたいと思ってみたいし、興味を持ったロシアという国に住んで、ロシア語をある程度まで極めたいと思っていた。またロシアでの仕事での経験を積んで、その道のプロになろうという算段もあった。 

    会社を首になったとしても、留学を含めなんらかの方法でロシアに住み続けることは可能である。もしかしたらこれは天が僕にくれた休息期間かもしれず、その間に今後のことについて考えたり、勉強に専念できるかもしれない。 
      

  • でも僕の本心は本当にここに残りたいのだろうか? 2年間の暮らしでロシアの現実の一端を肌で感じた今でも、ロシアに住みたいのだろうか? でも、かといって今、日本に帰って、気持ちを切り替えて、別な道に専念出来るだろうか? たしかにもう疲れた。しかし、なにか心残りもあるのだ。「今帰るのは中途半端な気がするのです」となんとか答えた。 
      
  • 彼女は、社会がどんどん不安定になってきているので、こちらに残るのは危険だ、薦めないという。ネオナチ(過激集団)の活動も活発になっていると。確かに、会社を辞めたら、これから身にふりかかる問題は、すべて自分で解決しなければならない。会社の後ろ盾は期待できない。 
    でも、留学生の友人たち(多くは女性)はたくましくここで自分の興味を追求し、生き抜いている。
     
  • 僕は「世紀末の、苦しいときの、本当の姿のロシアをみたい」と言った。が、本当はカッコつけて言っただけだった。意地になっているのかもしれない。気が180度変わって、2ヶ月後には日本に帰っているかもしれない。 
    でも、この一週間苦しんでの、今この段階での気持ちはとりあえずここだ。 
      
  • 彼女は最後に、「これは男性と女性の違いだ。男性は常に冒険を求めます」と。ぼそっと言った。

●海外プーへの道● 

  • 以前仕事でお世話になった東京のある課長さんが心配しているとのこと。電話して話をする。ロシアが経済的にもとにもどるまでまだまだ時間がかかるので残るのは薦められない、という。「こだわる気持ちはわかる。でも、一度リセットして日本に帰ってきた方がいい。こちらには娯楽とか気を紛らわせるものがいっぱいあるから」と言われる。 

    「ひとつのことに、ガッと行くのは、君のいいところでもあるけど、悪いところでもあるよ」と言われた。「もういっかいゼロから考え直したら?」と。 

    「俺は、いつまでもずるずると抜けられずに、海外プータローとなった奴をたくさん知っているんだよお」 と言われる。
      

  • 「海外プータロー」ってなんだ? はじめてきいた。海外をさまよい、自由きままに暮らす。風のふくまま気の向くまま、か。かっこいい人たちなのか?それとも闇に隠れて生きる、人に言えない恥ずかしい境遇なのか? ああ、僕もその人たちの仲間入りをすることになるのか。 
      
  • 帰る時になって、上司のロシア人、R課長が、優しく声をかけてくれる。「今日は無理しないでください」。 
    おお、いつもクールなRさんが自分から声をかけてくれるのは、2年間ではじめてである。やっぱり心配かけているんだなぁとすまない気持ちになる。

2月5日(金)

●再び朝がくる● 

  • 目が覚めると胃が痛い。さては、昨晩ふたたび、「絶望カレー」(作りすげたので大量に残っている)を食べたのが原因かと思ったが、心臓もどきどきする。胸が重い。鉛を入れられているかのような重さだ。すぐに頭が暴走しはじめ、いろいろな考えが巡りに巡る。これからの人生がはてしなく長い続く道のりのように思え、とても歩きぬく自信がなかった。いっそこのままひとおもいにと思ってしまう。でも自ら死を決行する勇気はない。僕は臆病者だし、結局は死を考えることで最終的な逃げ口を用意しておきたいだけなのだろう。包丁で手首を切る人もいるが、僕は血を見るのが恐くて、できない。追いつめられかたがまだまだ足らないか。 
      
  • でも、眼前にぽっかりとした虚無が待ち受けているような気がして、これからのことを考えるとめまいがした。どの選択儀も間違っていて、やりとおせないような気がした。「心が萎える」というのは、こういう状態をいうのだろうなぁ。「なんで今朝も目覚めてしまったのだろう」と嘆息し、永遠の休息を切望してしまう。世の中には生きたくても生きられない人もいるというのに。
      
  • 会社にいきたくない。気持ちが右往左往しているうちに家を出るのが遅くなってしまった。外に出ると意外に暖かい。といっても、マイナス5度ぐらいだと思うが。 
      
  • なんとか会社にたどり着いて、上司に遅れたことを謝って席につく。と、すると昨日に続いて今日も人事のSさんから電話がかかってきて、「気分はどうだ」とか「何か食べたか」とかいろいろ声をかけてくれる。今日もお盆に乗せたお茶とクッキーが運ばれてきた。ひたすら恐縮。心遣いがとても嬉しい。が、心配かけていることを思うと胸が痛い。

●Sさんの"精神カウンセリング”● 

  • 昼ごろになると、今日も人事のSさんから、何度も「お昼ご飯食べましたか?」コールがある。心配してくれているのだ。「食べていない」というと、「すぐ来てください」という。彼女の部屋まで行くと、僕のためにピロシキを用意してくれていた。食欲はないが、「申し訳ない」という気持ちで口にする。食べながらSさんと言葉を交わしているうちに、なにか精神科のコンサルティングを受けているようなおもむきになってきた。1時間ぐらい自分の症状や心情をつたないロシア語で話し、彼女がそれに応え、ストレスの解消法を話す。彼女が熱心に僕の気持ちを引き出し、話を聞いてくれるのはありがたいことだが、自分の心の奥底の闇の部分まで含めた微妙な心情をロシア語で吐き出すのは疲れる。 
      
  • 彼女は、「部屋に閉じこもっていてはいけない。外を散歩しなさい」と熱心に勧める。外の空気に触れ、歩くことが、身体のオルガニズムのバランスのために良いという。僕はこの寒い中、外をむやみに歩き回るのは身体に悪いと思う。 
    ちなみに、ロシア人は身体と健康の話が好きである。ロシア人と会話していると、なにかの機会につけ、このオルガニズムがどうのとか、身体リズムがこうのとかの話が出てくる。 
      
  • 最後に彼女に「土日はどうしますか?」と聞かれる。 
    「たぶん家でごろごろしていると思います」と答えると、 
    「いけません! 外に出ると約束してください」と迫ってくる。 
    迫力におされて「努力します」と答えたが、やっぱりごろごろしているだろうなと頭のスミで思う。

●喫茶「ドトール」で寿司を食べる● 

  • 教育大に留学しているHさんから、会社に電話がある。留学歴の長い韓国人の友達を紹介するから、話をきいてみないかという。会社が終わった後、アルバート通りにあるドトールコーヒー(モクスワ店)で待ち合わせ。ちなみにロシア語では、「ドートール」という。 
      
  • 「ドートール」は、僕もたまに利用する。ここでブレンドコーヒーを飲んでいると、東京でのサラリーマン時代を思い出す。安いコーヒーで時間つぶしできるドトールは、まさに営業マンの憩いの場であった。 
    モスクワのドトールはオフィス街にではなく、アルバートという有名な遊歩道(外国人に人気のある歩行者天国)にあるので、サラリーマンはあまり利用しないかもしれない。 
    僕は一昨年ここがオープンした時に、連続して2回出はいりし、開店記念の「ドートール・コーヒーカップ」(無料進呈)を2つも、もらったことがある。これはプレミアものだー!、とはしゃいでしまい、大人げない行動をとってしまった。そのあと、会社の日本人に、「ロシア人でもしない行為」と笑われた。
     
  • 韓国人のSさんは、現在はロシアの航空大学の大学院に留学中。こちらでの留学暦はもう7年。飛行機の振動についての研究をしているという。大学の内容や、ビザのことなどについて、いろいろと教えてもらう。ロシアの航空技術について、「いまのところは」まだ世界のトップレベルだという。僕より2つ年下のSさんはロシアで歯を7本治療し、うち4本はここで抜歯したというツワモノである。今日も歯医者に行ってきた帰りでうまくしゃべれないという。 
      
  • さて、「ドートール」のメニューに「寿司」というのがあった。前はなかったので、新メニューかもしれない。今回、はじめてドトールで寿司を食べた。みかけは「寿司」に似ているが、少し違う。ご飯が四角というよりまるく握られている。その上にちょこんとちいさな生サーモンが乗っている。つけあわせは白菜の葉っぱがそのまま。食べてみて寿司とはまったく別種の食べ物だと思った。ご飯は銀飯ではなく、普通の白米。暖かい。寿司とみればまずいが、おにぎりとおもえばまあまあいけるかもしれない。気持ちの問題か。ブレンドコーヒーと一緒にどうぞ。 
      
  • 僕はもう、食べないかもしれない。けれど、少し間を置いて再チャレンジしてみるか。

●ジャッキー・チェーンの映画見る● 

  • 留学生たちと別れて、家に帰ろうかと思ったが、このまま帰ってもどうせまたひとり落ち込むだけだし、映画でも見て帰ろっかな、という気持ちになる。あてもなく、一番設備がきれいな映画館のひとつであるプーシキン映画館にいくと、ちょうどタイミングよくジャッキーチェーン主演の新作「ラッシュアワー」が始まるところだった。どうしようかなと思ったけど、いきおいで中に入る。 
    ロシア語完全吹き替え版。(僕とは違いロシア語堪能な人は)甲高い声のクリス・タッカー(フィシスエレメント=DJ役)とジャッキーチェーンとの絶妙なロシア語会話が楽しめます。 

    あまり期待していなかったが、面白かった。ジャッキーチェーンの動きが早い早い。あっという間に相手の拳銃をからめとり、あれよあれよというまに分解してしまう。特撮シーンも少ないし、ハリウッドの超娯楽大作ほどお金をかけているとも思えない。美女が出てくるわけでもない。しかし、人間の身体を張った生のアクションの面白さがあるし、スタッフの熱意や映画づくりを楽しんでいる様子が伝わってくる。

    「映画の原点ここにありだな」と、かっこだけは評論家のように腕を組む(俺はいったい何者だ?)。 

    映画も面白かったが、最後の失敗アドリブ集はもっと面白かった。いつもは映画のエンドクレジットが始まるやいなや席を立つロシアの観客が、今日は「おっ、待てよ」って感じで、最後までホールに残って、大笑いしていた。

●都会の真ん中で山羊を連れたおばさんを見る● 

  • トヴェーリ通り、地下鉄プーシキンスカヤ駅出たすぐのところで、首にひもをつけた山羊をつれたおばさんが立っていた。最初は「写真を一緒に撮りましょう」屋さんかなと思ったが、見ると足元にミルクを入れて厚紙でふたをしたびんがいくつか置いてあった。もしかしてしぼりたての山羊の乳を売っているのではないか。たのむとその場で搾ってくれるのかも。新鮮でおいしいかもしれないが、ちょっと気後れしてしまう。 
      
  • トヴェーリ通りは、高級ブランド店が集まるモスクワの銀座通りである。高級ブティックのネオンサインと、山羊をつれた乳しぼりのおばさん。このアンマッチさこそ、ロシアならではの風景かもしれない。

2月6日(土)

●豪雪の日● 

  • モスクワは横殴りの吹雪である。窓から外をちらっと見ただけで、もうどこにも行きたくなくなってしまう。もっとも、晴れていたとしても、外には行きたくない、誰とも会いたくない心境。 
    ずっと家にいて、テレビを見ながらホームページ立ち上げの準備など。Aくんに国際電話して、リンクのこと、HP作成ツールのことなど相談する。

●映画「ムーム」のこと● 

  • 夜テレビで「ムーム」をやっていた。「ムーム」は、ツルゲーネフの同名小説の映画化で、昨年公開されたばかりの映画である。ロシアではじめて、テレビや雑誌やインターネットを屈指したマルチメディア宣伝戦略と、スピルバーク映画ばりのじらし宣伝戦略(公開の一年前から少しずつ映画のほんの一部だけ見せていくが正体はなかなか分からない)が功を奏し、ロシアで大ヒットした作品である。もっともヒットしたといっても、ほとんどがビデオ販売での成功である。ロシア映画は、映画館では1日だけとか、ほんの短期間だけ公開して、すぐビデオ販売に切り替えてしまう。映画館で上映されているのは、ほとんどハリウッド映画ばかりである。 
      
  • 僕は「ムーム」は、去年、公開からずいぶんたってから、すごくさびれた映画館で見た。ひどい映画館だった。 
    ホールわきのロビーでディスコ大会をやっていて、ホールまで音がひびいてきて、うるさくて映画のせりふがよく聞こえないのである。ホールの扉はしまっているが、まさに素通りという感じで、がんがん聞こえてくる。軽妙なディスコソングが映画の内容にそぐわないことはなはだしい。 
    ちなみに映画の観客はまたもや僕ひとりだった。この惨状では、映画館もディスコとか多角経営しないともたないであろう。券売所で若い人たちがたくさんいて、券を買い求めているのをみて、若い人に人気の映画なのだな、と思ったが、あれはディスコの入場券だったのか。まったくの勘違い。 
    腹立たしい思いで劇場を出ようとすると、おばさんに「ディスコによっていかないか」と誘われた。当然行かずに早足で立ち去った。 
      
  • 映画「ムーム」は、昔のロシアの農村で、ひっそり暮らしていた口の不自由な男(むーむーとしか言えない)が、金持ちのわがままなマダムに気に入られたため、好きになった娘とは別れさせられ、最後にはたったひとつの心のささえであった愛犬まで自分で処分しなければならなくなるお話(理解が間違っていたらごめんなさい)。 
    表現することも、愛することもすべて奪われた男の、ただひたすら孤独に耐える姿が痛々しい。が、わがままなマダムもこのうえなく孤独で不幸な女に思える。 

    この映画に出てくる愛犬「むーむ」がほんとうに愛らしく、かわいい。見ているだけで笑みが浮かんでしまう。それだけに、最後に石と一緒に袋に入れられて川に沈められるシーンは胸が痛む。この映画がロシアでヒットしたのは、ロシア人が国民性として大の犬好きであることも大きな理由ではないか。 

    日本では上映しないのかなぁ、日本にもツルゲーネフや犬好きなひと多いし、見る価値はある映画だと思うが。

2月8日(月)

●迫りくる不安とずり落ちるステテコ● 

  • 朝起きるとすぐに、不安が頭をかけめぐり始める。4月からのこと。留学へと心が傾いているが、大学とか学部とか将来のビジョンとかまだぜんぜん決まっていない。精力的に大学をまわって調査しなければならないのだろうが、なにか、ひたすらめんどくさくて、気力が湧かない。これから短期間で決めなければならないと思うと、気が重くなった。
     
  • 結局この土日は、部屋に閉じこもって、ほとんどご飯も食べずに、ごろごろ寝たり、HP立ち上げの準備をしたり、本を読んだりしていた。 
     
  • 人事のSさんごめんなさい。約束守れませんでした。結局外に出なかったです。 
     
  • 髭も伸び放題である。シャワー浴びようと思って、鏡で自分の体を見る。「おっ、痩せたな」というかんじ。贅肉も筋肉もみごとに落ちてガリガリである。スペースバンパイアのミイラ型エイリアン(美女になる前のもの)を思い出す。 

    ヒゲ面に、骨と皮だけになった身体こそ、「おちぶれ日記」の主人公にふさわしい。子供の頃、「もやし」と呼ばれて、もやしを食べるのが嫌いになったことを思い出した。(今はラーメンに入れて食べるの好き) 
      
  • ヒゲをそる。シェーバーのやつ、キィキィ音を立てやがる。僕のヒゲは固く濃い。休み明けのヒゲはシェーバーにとって強敵である。「固いよう、濃いいよう」と悲鳴をあげているようである。 
     
  • 背広のズボンはいて、ベルトをしめたら、ゆるいゆるい。一番最後の穴に止めてもまだ余る。前はきつかったのに。穴もういっこ開けなくては。 
     
  • 外に出たら、ヒー、今日も寒い、マイナス10度はいっているだろう。骨身にしみるとはこのことか。凍り付いた道を歩いているうちに、ズボンの中で、ステテコがずり落ちてきた。このステテコは去年の冬、会社のガードマンのおじさんにもらったものである。僕がステテコあまり持ってない、と言うと、「それはいかん」とわざわざ持ってきてくれたのである。やさしくて、ほんとうにいい人だった。赤ん坊が生まれると言ってニコニコしていた。その後いなくなってしまったが、どうしているんだろうか? 
      
  • そのステテコはもともとサイズが大きかったが、なんとか腰にひっかける感じではいていた。しかし今の僕のからだにはぶかぶかである。洗濯したステテコがほかになかったので、今日はそれをはいて出てきたが、道中、完全にずりおちてしまって、お尻がむき出し状態になってしまった。 
     
  • もちろんズボンの中での話なので、外目にはなんら異常はない。しかし、−10度の厳寒の中、ずぼんの直下にあるむき出しのお尻はなんとも心もとない。それに寒い。そして恥ずかしい。会社についてすぐにトイレにいって、ステテコひっぱりあげる。歩くとまたずり落ちるだろうから、今日はずっと社内にいようと思う。

●ピンクフロイドきく、落ち込む●

  • 残務整理とか、メールを打ったりとか、うだうだしているうちに家に帰るのがずいぶん遅くなる。さすがに夜中の12時過ぎのメトロー(地下鉄)は、少し緊張する。ちなみにモスクワの地下鉄は毎日、夜中の1時まで運行していて遅くなったとき助かる。東京の営団地下鉄にはこの営業努力を見習ってほしい。ひとけのない連絡通路で、立ち売りのおばさんがひとり残って、新聞を雑誌を両手で掲げて、がんばっていた。 
      
  • カレーが残っていたか、と思い、ご飯を洗い炊飯器にセットして、待っている間ベットに横になる。 
    ピンクフロイドの「The Dark Side of The Moon」を聞く。ピンクフロイドは大学のとき、下宿の隣の部屋の先輩に教えてもらって、一時はのめりこんだが、就職してからはあまり聞かなくなった。でもこの「The Dark Side...」は、いまでも時々、むしょうに聞きたくなるときがある。 30歳こえて「いまでもピンクフロイド聞いてます」っていうとき、なにか気恥ずかしい感じが伴うのはなぜだろうか?(→ピンクフロイドファンの皆様ごめんなさい)。  
      
  • おおやけの席ではいいにくいような気がする。 
    お見合いの席で、「鶴子さん(→誰でもいい)、ご趣味は?」などと聞かれて、「音楽鑑賞など」と答え、次の「ほぉぅ。どんな曲を聞いていらっしゃるのですか?」との問いに、「ええ、ピンクフロイドの原子心母など少々」などと答えたら、相手がひいてしまうかもしれない(→でも、そういうひといたら僕は好きです)。 
    「太宰治、ずっと読んでいます」と告白するときの感覚とも似ている感じがする(→太宰治ファンの皆様、ごめんなさい。僕は両方好きです)。 
      
  • 「The Dark Side...」は1973年につくられたというのに、ものすごく音のいいアルバムである。 
    「Time」という曲の 
    「時は過ぎ、歌は終わり・・・」 
    というフレーズをききながら、絶望的な気分で眠りにつく 
    結局カレーは食べなかった。 

     Time                       - Pink Floyd - 

     Every year is getting shorter, never seem to find the time 
     Plans that either come to naught or half a page of scribbled lines 
     Hanging on in quiet desperation is the English way 
     The time is gone the song is over, though I'd something more to say... 

     年々時の流れが速くなり、いつも時間に追われている 
     試みはすべて無と帰し、残ったのは半頁のなぐり書きだけ 
     静かな絶望に身をゆだねるのは英国人ふうのやり方 
     時は過ぎ、歌は終わり、 
     なにかもっと言いたいことがあったはずなのに・・・

2月9日(火)

●氷上のアクロバット● 

  • 朝、不安と自己嫌悪のため、またもや悶々としているうちに、家を出るのが遅くなってしまう。今日も外は寒い。といっても昨日よりは少し暖かい。ラジオでは−6〜7度といっていた。 
      
  • 冬のロシアの道は歩くのが困難である。いつも下を向いて歩く。雪で覆われた道路のところどころに黒いてかてか光る部分が顔をのぞかせている地帯があったら要注意である。つるつるの氷が、新雪のカバーでカモフラージュされている可能性がある。うかつに足を踏み入れるとツルッといってしまう。今日も不覚にも危険地帯に足を踏み入れ、スッテーンとやってしまった。雪にまみれ、体も心もボロボロというかんじである。前を歩いていたロシア人もツルっといったので、「あっ、こける」と思ったが、ギリギリのところで、たくみに体勢を持ち直し、復活した。まるでアクロバットみたいだった。「(北国生活の)キャリアがちがうのだよ、キャリアが」と彼がいっているような気がした。ロシアのサーカスが世界中で有名なのは、ものごころついたころから培ったこのロシア人の運動神経が大きく貢献しているのではないだろうか? 考えすぎか・・・

●子供の自殺● 

  • 朝のラジオで小学生の自殺のニュースが報じられていた。仲のいい3人の小中学生(ロシアでは一貫教育)が、アパートの8階から飛び降り自殺したそうである。14歳と12歳の女の子は即死。11歳の女の子は病院で息を引き取ったそうである。遺書には「みんな一緒に葬ってください」と書かれていたという。自殺の原因は不明だが、失恋、麻薬、宗教的な理由などが考えられるという。 

    小中学校で麻薬が蔓延しているという。マフィアが出入りしていて子供が簡単に麻薬を買うことができると聞いた。ロシア人の友人の話によると、「子供の世界」(モスクワ中心部にある有名なおもちゃ屋)のまわりを蜜売人のおばさんがうろうろしていて、麻薬を子供たちに売っているという。おもちゃ屋で麻薬が買えるのである。

2月10日(水)

●クッキーとお茶とカウンセリングの日々● 

  • このところ毎日、会社にいって席につくやいなや人事のSさんから電話がかかってきて、調子をきかれ、そのあと、クッキーとお茶が運ばれてくる。社長になったようなイイ気持ち!、ということは決してなく、いまはとにかく気を遣ってくれることが申し訳ない気持ち。お昼になると1日2〜3回は「こちらに来て、お茶しませんか」の電話がかかってくる。 
      
  • 今日も昼ご飯は頂いたクッキーで済ませてしまう。 
    夕方ごろ、Sさんのところに書類を持っていったときに、再びお茶とクッキーをごちそうになる。そこから再び“カウンセリング”開始。聞かれるままに、自分の故郷や両親のことを話すうちに話はAC(アダルトチルドレン)のことまで及んでしまう。ACについて知っていますか? と聞いたらちゃんと良く知っていた。ACはロシアでもよく知られているのだろうか? 自分の子供の頃からのルーツと現在の性格について話す。ロシアの人にここまでつっこんだ自分の生い立ちを話すのは始めてである。30分ぐらい話す。 
      
  • 長身で美人のSさんは英語が堪能な才女である(結婚してます)。社員の誰かが誕生日のときは社内にいる人を呼び集め、バーボン持ってその人の机に行き、お祝いを述べた上でほっぺにキスをする(そういう会社の習慣なのだ)。僕も2回してもらった。人気があり、会社のシンボル的存在である。ヘアースタイルが少し個性的(少し"ボンバー”している)で、日本人の間ではあれを毎朝どうやってセットするのか、仮説がいくつか立てられている。 
  • 僕は彼女のことを合理的で積極的な(いわゆるアメリカ人的な)性格の人だと思っていたが、自分では内向的であり、人に声をかけるのが苦手。初恋のときもずっと陰から見ていたという。 

    米国へ半年ほど留学していたことがある。留学中両親が心配しなかったかというと、かえって喜んでいたとのこと。両親との関係が良く、お互い信頼しあっているのだろうなと思った。ロシア人の価値観として、両親や家族、親戚や近所の人、友人とのつながりというのは、かなり上位のうちにはいる(と思う)。寒いところだからお互い助け合わないと生きていけない、とは良くロシア人からきいた。とにかく家族や友達とのつきあいを大切にする人が多いと思う。海外で働くチャンスがあったら行くか?という問いに、Sさんは、可能性がないから、考えない、といっていた。

●日本に行くことを決める●

迷った末、急遽、あさっての金曜日に日本に立つことにした。2週間ほど滞在する予定で許可をもらった。目的は留学のための大学(母校)の卒業証明をとること、(ロシア関係の)転職の可能性を探ること、両親や妹に説明すること、医者に行くこと、ビザ関係・・・等々である。もちろん友達にも会いたい。 
でもいちばんの目的は・・・おいしいものが食べたいなぁ。いまは食欲がないけれど。スキヤキ定食とかいいなぁ。

●犬の寝台列車●

今日も整理とか、出張の準備とか、メールとか打っていたりしてえらく遅くなる。今日も深夜の地下鉄で帰る。ドアが開いて電車のなかに入ったら、目の前に犬が寝ていてびっくりした。車両のちょうどまんなかにちっこくまるまって目を閉じている。僕のほかに乗客はだれもいない。モスクワでは地下鉄の構内でも、ときたま車内でも犬がうろうろしている。犬好きで知られるロシア人は、改札のおばさんも乗務員も何にもいわない。 
この犬、電車で旅をするのが好きのかな。しかも寝台列車だ。薄暗い車内で、窓からの光が床に反射してチカチカしている。僕の犬だけの専用電車。ここは日本から7000キロ離れたモスクワの夜である。

駅から家まで歩いて10分ぐらい。夜道を歩いていると突然、男が僕の目の前に出てきて道をふさいだのでびっくりした。なにか言っていたがよく分からない。下を向いたまま駆け出す。後ろを振り向いたが、よかった、追ってこない。殺されるかと思った。死にたいとかいっている人間が、殺されなくて良かったと安堵するとは。身勝手なものである。

家に帰ると、教育大の留学生Hさんと、先日「ドートール」で会った韓国人のSさんからの留守番電話が入っている。Sさん「決まりましたか? なんでも相談してください」とロシア語で吹き込んであった。ほんとうに親切な人だなぁ。こちらに知り合った韓国人はみんな親切でいい人ばかりだ。キリスト教の宣教師になるため勉強している韓国人留学生Kもほんとうにいい人だ。なんどか手料理をごちそうになった。僕の誕生日を祝ってもらったこともある。日本にいるときは隣国である韓国の人と知り合う機会がなかったが、こちらにきてうんと親密度が増した。ご飯とか食べるものの味覚も似ているようだし、日本人と韓国人は心情的に一番分かり合えるパートナーではないか。

2月11日(木)

●否定的な気持ち● 

  • 朝の5時とか、早い時間に目が覚める。深く冷たい絶望感が胸の奥からどくどくと全身にこみあげてくるのを感じる。ものすごい虚脱感。胃のあたりの焼けるように痛い。胸がどきどきする。会社や具体的な人物を思い浮かべると、どうしても、納得いかない思いと憤りがこみあげてくる。 
      
  • すでに会社のなかで自分のことが「処理済の問題」として事務的に処理されているような気がして、やりきれなくなる。被害妄想かもしれないが「今さえ乗り切ればあとはなんとか」という感じで、腫れ物に触るような感じで全員がしめしあわして作業をすすめているように思えてしまう。僕がいま悩み苦しんでも、泣き叫んで狂いそうになったとしても、割り切れない思いを懸命に訴えたとしても、あの人たちは何事もなかったのように淡々と自分たちの仕事をし、1年ぐらいたったら、「あのときはたいへんでしたね」「いろんなことがありましたね」とかいいながら杯を交わすのだろう。 

      

  • 僕が解雇されることが日本人の間で知れわたった後、ある人は、僕が作った市場レポートが次期のプラン策定に役立ったとお礼を言ってくれた。そのひとは明るい笑顔で、暖かい言葉をいくつもかけてくれた。やさしい心を持ったいい人だなぁと思う。僕のロシアにたいする思いに感銘してロシア語をいま習いはじめたのだと言う。落胆している僕を励まそうとしてくれたのだと思う。それを思うと感謝の気持ちでいっぱいになる。そのあと「その次期プランを持ってきますのでぜひ読んで、意見をきかせてください」と言われた。でも、今の僕はこの会社での次期のプランのことは考えたくない。意見を言うこともつらくてできない。 

      

  • 「身体の調子どうですか」と声をかけてくれる人もいる。心配かけて申し訳ない、と思うが、「少し良くなりました」と答えると、その人はすぐに、このリストラを乗り越える自分の仕事のたいへんさを話し始めた。いや、すごくたいへんなんだという表情を見せて話しはじめるそぶりをみせた。僕には彼が何を言いたいのかわかった。去るのもつらいだろうが、残るのもつらいと言いたかったのかもしれない。その人の苦労も分かるし、たいへんなんだろうと思う。聞いてあげたいが今の僕には余裕がない。というより、その人の気持ちは理解できないだろう。僕はその人の「話したい」という気持ちはわかっていながら下を向いて「心配かけてすみません」とだけ言った。去っていく僕と残るあの人たちの間には理解できない大きな壁がある、と感じた。 
      
  • 「どうして?」という疑問が頭の中でめぐる。僕が悪いのだろうか? 僕が無能なのだろうか? そして自己嫌悪感。ほんとうにこの2年間いろんなことがあった。明日は今日よりも少しはましになるだろうと信じて、ゼロから少しずつなんとかやってきた。日本で友人や会社の人に会って、どんな顔で接すればいいのだろう。世界のたくさんのひとの苦しみに比べると、耳掻きほどもない小さな小さな自分の苦しみや境遇を、慰めてほしいが、哀れんでほしくもない適度な落胆で演出して、その上で「でもこれをバネに前向きに考えます」と笑顔なども交えて、したり顔で訴える自分の姿が浮かんでくる。ああ、嫌だ。そんなのみんな演技なのだ。人の関心と注目を得たいだけなのだ。そんな努力にいったいなんの意味があるというのか。でも、自分の将来がみえない。不安だから誰かに頼りたい。 
      
  • 慰めてほしいが、哀れんでほしくない。日本に行ってどうなるというのだ? 将来の展望が開けるのか? この2年間結局なにも実現しなかった。やっぱり日本に行きたくない。このまま誰にも会わずに消えてしまいたい。
     
  • これだけ否定的な文言と悪態の羅列を読んで、嫌悪感をもった方、申し訳ありません。前向きじゃないといわれようと、自分勝手だといわれようと、暗いといわれようと、この日記のなかでだけは、僕は自分の気持ちに正直でありたい。
      

 ●Telephone Call 

  • 日本に行く前に職務経歴書を書かなければ、と思っていると、ここ数ヶ月ほとんどオフィスに顔を見せなかった社長から突然電話がある。 

    いきなり、「こちらで、ひとりで独立して商売したらどうだろうか?」といわれた。 

    僕はこの人の「3年は保証する」という言葉を信じてこちらにきたのである。仕事もほどんどずっとこの人の直下で、自分なりに全力でやってきた。解雇の件では、ここにいたっても、本人の口からなんの説明も受けていない。どういう意図で言っているのだろう・・・と、答えに窮して、最後はちょっと黙ってしまった。社長は「じゃあ、また」といってすぐ電話を切った。それも信じられなかった。この間わずか30秒ほど。ここ1ヶ月ではじめての会話である。 

    その前にかかってきた電話は「課の女の子にプチプチ(包装材)の説明をしたいがうまく通じない。代わりに説明してください」というものだった。そのときにはすでに僕の解雇は決定していたと思う。 

    確かにもうすぐ帰任することに決まっており、僕と同様、精神的にもたいへんなのかもしれない。この人の苦しいときでも笑顔を忘れないところを尊敬している。でも2年間の過程で僕は人が分からなくなった。 

    頭痛とともに、疲労感が襲ってきた。うつの症状で、何もかも嫌になった。そんな気持ちの中でも、もっと寛容に愛想よくすべきだったのか? いやもっとはっきり自分の気持ちを言うべきだったのか? どっちつかずだった自分の態度を検証している。自己嫌悪で泣きたくなった。 

    こんな気持ちで日本に帰りたくない。やっぱりキャンセルしようかと思う。

2月12日(金)

●今日、日本に行く●

  • 今日、日本に向けて立つ。直前まで悩んでいた。いまこの心理状態で日本に行き、刺激と多忙に体をさらすのは、なにか逆効果だという気がする。「日本でゆっくり骨休めするといいよ」と言われたが、自分の性格だと、日本だからこそ、のんびりしているのは不安で、また忙しく動き回ったり、あるいは、積極的に行動できない自分を嫌悪するのだろう。それでも会いたい人たちがいるから行くのだが。

    いまはとにかく何もしたくない。日本に行くまでにやらなければならないこと、日本に行ってからやらなければならないこと、そのあとは?・・・のことを考えると目眩がする。あんまりたくさんの人に会いたくない。なんともいえない恐怖感がこみあげてきて、逃げてしまいたくなる。

    どうしても気楽に考えることができない。結局、職務経歴書も書けなかった。ホテルさえ予約していない。大家さんにも連絡しないと。3月分の家賃の支払いはどうしようか。荷造りもまったくしてない。仕事のレポートもまだ書いてないし、パソコンのバックアップもとってない・・・

    ああ、行く前から疲れた。いつもいつも休めない。全てを捨てて、心から楽になりたい、と思う。

  • そういう訳で、しばらく更新できなくなるかもしれません。日本にはパソコン(Thinkpad535)を持っていくつもりなので、できるだけ日本からアクセスしようと思うのだが。ハードディスクを増強することを考えているので、しばらく、使えない。ロシアには3月初旬に帰ってくるつもりである。

2月13日(土)

●アエロフロートのなかで● 

  • 金曜夜のシェレメチボ2国際空港。ぐだぐだうだうだしているうちに、空港につくのが出発直前、ぎりぎりの時間になってしまう。荷物持って税関に走る。今までは500ドル以下の国外持ち出しは税関証明書が必要なかったのに、制度が変わって、書かなければならないという。税関で紙を渡されあせって書く。 
      
    税関のおじさんが陽気な人でよかった。「(搭乗手続き終了まで)10分あるからあせるな」という。10分あれば「中国の奥地にでも行ける」(意味不明)という。ここのところあんまり意地悪な税関職員には出会っていない。以前はポケットの中までネチネチ調べられたのに。ロシアは変わりつつあるのか? 
      
  • Duty Fleeで土産用のウォッカを何本か買いこんで、乗り込む。CDプレーヤーの単三電池がどこにも売っていない。機内で音楽きこうと思ってたのに残念。 

    案内され、席に行くと、何かの勘違いか手違いか、なんとビジネスクラスである。はじめてのビジネスクラス。おまけに隣がいない。ラッキー!と思ったが、同時に、こんなとこで運を使うのもなーという気もする。小さな幸運があっても、素直に喜べない。いつもなにか運を使い果たしたように感じることが多い。もっと大事なときのために、運をとっておきたいと思う。

    でも「大事なとき」っていったいいつだ? 人生の重要な勝負時? 入試とか就職とか結婚とか?  いい大学に入ってもその後挫折する人もいるだろうし、良い仕事がみつかっても後で失業するとショック大きい。幸せな結婚しても、離婚によって心に深い傷痕を残す人もいる・・・大きな幸せの陰にはいつも大きな不安や不幸がつきまとっているのではないか。運に大きい、小さいがあるのか? 小さな幸せを喜べない人は、人生楽しめないような気がする。 
      

  • 「どーぞ、ごぉゆっくりー、おつぎください・・」。 
    「らんきりゅーにとつにゅーします。もーしわけありませんが、ゆれます。」 
    ロシア人スチュワーデスの懸命な日本語アナウンスが面白い(ごめんなさい。スチュワーデスさん)   

●灰色の東京● 

  • 成田空港から都心に向かうリムジンバスからの風景。覆いかぶさってくるかのような灰色とコンクリートの連続。野原がない!(当たり前か)。鉄塔や電柱や照明塔など、尖ったものや、電線がやたら多い。詰まってるなーという感じ。パソコンのCPUの拡大写真を思い出した。モスクワとはまったく異質の世界である。 

    ずっと前に僕がはじめてロシア語を学んだ先生は、僕と同じ年の男性だが、日本に2年ほど暮らした後、ロシアに帰ることにした。帰る直前に先生は、遠くを見ながら、「ここにいると、いつもどこでも“狭さ”を感じる。ストレスがたまります」と日本語で言った。

    空間にたいする、ロシア人と日本人の距離感の違いだと思う。

    最後に先生と話したのは、ロシア語学校主催で河原でシャシリク(バーベキュー)大会をやった時だが、シャシリクを焼き始めるやいなや、遠くから区役所の人がスクーターでタタタッとやってきて、「役所の許可はありますか?消防署の許可がありますか?」といって、解散を命じた。先生はそのとき、「ロシアでは河原に勝手に家を建ててもだれも何もいわないのに・・」(←おいおい)と驚いていた。 

    バスは高速道路から一般道に入った。ラーメン屋やパチンコ屋、美容室に、風呂屋の煙突が見える。人間の生活の気配を感じ、少しほっとする。

2月14日(日)

●日本の印象は?● 

  • 日本は暖かいと思っていたが、とんでもない。寒い寒い。ブルブル震えて歩く。 
      
  • 確かに気温の点では−10度があたりまえのモスクワに比べるまでもない。でも風が冷たい。モスクワはほとんど風がないのが救いなのである。なんでこんなに寒く感じるのだろうか? まずひとつは、家の中が寒い。家に帰ってきてストーブつけて部屋があたたまるまで時間かかるし、ビルの中でも玄関ロビーなどはあまり暖房がきいてないことがある。基本的にはロシアでは、どんな建物でも24時間がんがん暖房をきかせている(もっとも最近シベリアの都市では電力不足から暖房もよく止まるらしいが・・)。家や建物立てるときから全館(温水)暖房が基本だ。

    次に山の手線とか外のホームが寒い。モスクワの場合、基本的に地下鉄であり、中はあったかい。 
    最後に、帽子の役割が大きい。むこうでは外を歩いているときは、いつもごつい防寒ジャケットのフードをかぶっていた。やってみて分かったのだが、帽子をかぶるとかぶらないでは、体感温度がまったく異なる。「帽子をかぶらないと頭が風邪を引く」という。道で知らないおばさんに「帽子をかぶりなさい」と怒られたことがある。当然街行く人々はほとんど全員帽子を−多くは毛皮の帽子を−かぶっている。日本では(毛皮はもちろんのことだが、フードでも)帽子をかぶって歩いている人はほとんどいない。じぶんだけフードで顔を隠しているのはなにか恥ずかしい気がする。 
      

  • 日本で驚いたこと。街がどこでもものすごく明るい。モスクワの10倍ぐらい明るい気がする。山の手線の中の広告の量がすごい。車両の空間という空間に間断なく広告が敷き詰められている。中吊り広告が連続して垂れ下がっているのも不思議な気がする。携帯電話が小さくなった。電器屋の前にならんでいるそれを見たときはPHSかと思った。前は携帯といえばもっとごついビジネスマン用というイメージがあった。ロシアでもヨーロッパでもあんな「かわいい」カラフルで軽快なデザインの携帯電話は見たことない。聞けばPHSはもうだめだという。テレビ番組のコメンテーターの多さ。みんなにやにやしながら「とんでもないことになりましたね〜。同じ日本人だからわかるよねぇ〜」と同意を押し付けられてているような気分になる。ヤクルトの野村監督がほんとうにタイガースのユニホーム着て監督やってる。浦島太郎になったような気分。 
      
  • ラーメンうまい。すごくうまい。ネギゴマチャーシューと餃子に感動。 
      
  • 今日がバレンタインデーということを日本にくるまで忘れてた。いやだったが、書店でみかけた「ビーイング」を買ってしまう。ホテルに帰っても見る気がしなくて一頁も開けてない。 
      

●うれしかったこと● 

  • niftyのメールになんとか接続することに成功。 
      
  • 今日、たいへんうれしいことがあった。 

    僕が一番好きなホームページの作者からメールがきていた。彼女は家を出られない、ひとと話せないといった苦しみをかかえながら日記を書き続けている。文章のセンスがすばらしくて僕はファンになり、ファンレターを出したら返事をくださった。ちなみに僕がファンレターなんて書いたのは生まれてはじめてである。雪と氷につつまれた孤独な世界で、苦しいときに彼女のホームページにめぐりあい、心を癒され、そして自分も日記を書こうという気になったである。彼女には大きな影響をうけた。

    僕のホームページを読んでくださったようで、感想をおくってくれた。励ましのメッセージとともに。なにかとてもとてもうれしい。きっと苦しい中だろうに、全部読んで感想を書いてくださった彼女の気持ちがほんとうにありがたくうれしい。

2月15日(月) (1)

●ホテルの朝● 

  • 気分がど〜んと沈む。どこにも行きたくないし、誰にも会いたくないのは、モスクワでも東京でも同じ。 
    ホテルから一歩も出たくない。人事の人に会うのに職務経歴書があったほうがいいのは分かっているのだが、書けない。自分のキャリアをさかのぼり、希望職種を見定めるのが気の遠くなるような苦行におもえる。「のんびりしよう」と自分にいいきかせても、日本でやらなければならないことが無限にあるような気がして心臓がドキドキする。パニック寸前だ。とくに転職活動は、それが単なる情報集めであったとしても、やはり今の自分の状態では無理だ。
      
  • ホテルは東京本社の真向かいにある。人事の人がホテルをとってくれるというのでお願いしてしまったのだが、後悔した。部屋は快適で立地条件もよくまったく申し分ないホテルなのだが、落ち着けない。実際にはまったくそんなことないのだろうが、何か監視されているような気がして、また解雇を告げられた会社をいやでも意識せざるを得ないので、緊張してしまう。 
      
  • ホテルの部屋で悶々としているうちに半日が過ぎる。なにか食べなければ、と思って朝食を頼みたかったが、ルームサービスに電話をするのも気兼ねしてしまう。あーだこーだと迷っているうちにモーニングタイムが終わってしまう。

2月15日(月) (2)

●人事との面談● 

  • 午後、気力をふりしぼって、本社人事の人と会う。 
      
  • 僕のために求人誌とか人材紹介会社とかいろいろと当たってくれていたようだ。 
    「こんなのありました」とかいって見せてくれたのが、北海道のタラバガニの会社の切り抜き。ほかにも日本海へのUターン就職のパンフとかを見せてくれる。 

    「さっそく人材斡旋会社に登録してみてはどうですか?」と、書類一式をくれる。 

    「将来またロシアが注目されるときがくる。今は別のキャリア(コンピューターとか国際的な仕事とか)を磨いて、チャンスを待ったほうがいいのでは」 
    とのアドバイスをもらった。 
    留学については、最終的には自分で判断すべき、でも、 
    「ロシア語は(就職に)マイナスにならないが、プラスにもならない」 
    といわれた。 

    「これ読んでみてください」といって、付箋のついたビーイングを渡される。 
    昨日僕が買ったビーイングと同じ号だ。
     

  • いまホテルの机の上に積み重ねられた未読のビーイング2冊。
    無言の圧力が、息苦しい。 

2月16日(火)

●人材会社めぐり● 

  • 人事の人に紹介された人材斡旋会社2社を訪ねる。 
      
  • 午前中、早く起きて、うんうんうなりながら、職務経歴書と登録シートを書く。自分の過去を振り返り、整理して書くのは、かなり骨の折れる、しんどい作業である。 
      
  • 午後、まずはC社に行く。 
    かなり年配の相談員。 

    「ロシア関係の求人はゼロ」、といわれる。 

    ロシアに関わらず海外営業の求人は極端に少なくなっているという。 

    逆に、外資系企業の日本進出が目立ってきており、海外勤務経験のある人はそういう会社に入って国内で営業する例が増えている・・・ただし、 

    「ロシア企業は進出なし」。「ロシア語使える仕事なし」といわれた。 
      

  • 33歳という年齢は「分水嶺」だという。転職活動は在職中に行うのが「鉄則」であり、休職期間をおくと極端に条件は悪くなるという。この相談員は、会話のなかに、体言止めと、刺激的な単語をちりばめるのが好きなようだ。

    1年の留学は「致命傷」と言われた。 
      

  • 遅い時間に、R社に行く。 
    僕より3つ年下の若い相談員。 

    ずっとこの会社で人材斡旋の仕事をしているが、「自分も転職を考えたことがある」と言う。 

    はっきり、ていねいな言葉で話す。相手の話をよく聞き、それについての自分の意見を言う。相手の立場に立って考えようという姿勢が感じられ、好感を持った。 

    「サーチしました」が、やはり、「ロシア関係は一件もありませんでした」と言われる。 

    また一から、ここに至るまでの経緯と現在の心境を話す。長年転職相談に応じてきたが、僕のような「劇的なケース」(?)はめずらしい、と感心される。 

    僕がロシアに就職するきっかけとなったのは、この会社が出している就職情報誌の2年半前の募集広告である。相談員もその広告を知っていたようで「あの募集記事、あらためて読み返してみました」と言う。 

    一定の求職期間を決めて活動したほうが良い、と言う。その期間内で希望の職を探して、もしだめなら行けるところにいく。そうしないと「ずるずるいってしまう」とのこと。 

    かといって、僕の場合、現段階の中途半端の気持ちで妥協して、どこかの会社に決め勤めても、働くパワーが出ないのではないか、それに「先方さんにも失礼な話」と言う。第一、面接でそういう気持ちはどうしても出てしまう、と指摘された。

    留学については、転職の一般論から言うと「反対」だが、(僕の話をきいて)「自分は賛成したい気持ちである」と言う。というのは、「○○さん(私)の場合、前の会社(大手電機メーカー)を辞めた段階で、すでにポーンと飛んでしまっている」。だから「今更、留学に切り替えても不自然はない」という。もしいま僕が日本で前の会社勤め続けていて、いま突然、「会社を辞め、ロシアに行き留学する」と言い出したら、「自分は絶対反対する」。しかし、 

    僕の場合は「もうすでに飛んでしまっている」

    そして、すでに

    「自分の力で食っていく」

    と決めた人 なのだからいまさら元の路線に戻る必要もなく、

    「ドンドンいけばいいのではないか」、 と言う。
      

  • 僕のほうは、それを聞いて、 
    「おいおいちょっと待って」 
    と、どんどん不安な気持ちになり、 

    「あのぉ、自分はそのようなブルドーザーのような人間ではないのです」。 
    「臆病な性格ですし、いつも、迷って悩んで手探り状態なのです」 
    とすがりつくような声で言うと、
    若い相談員は 
    「そうですか?」と、笑っていた。

2月17日(水)

●カウンセリング● 

  • 健康センターにいって精神カウンセリングを受ける。 

    優しそうな目をした初老の先生と、若くて健康そうな女医さん(看護婦さん?)。 

    先生とは一度モスクワでの健康診断でお会いしたことがある。映画がきっかけでロシアに来た僕のことをよく覚えていてくれて、
    今回寝込んでしまったときにも、モスクワの自宅まで 「お身体大丈夫ですか?」とわざわざ電話をくださっていた。 

  • 話すのはとても苦しかったが、今までの会社での経緯と現在の症状を、 
    詰まりながら、一部始終打ち明ける。 
    僕の話を聞いた先生は「なんと申し上げたら良いのか・・・」と沈黙してしまう。 
      
  • 「そんな状態におかれたら、誰でも、別に○○さん(私)でなくても、そういう症状になります」 と、慰めてくださった。「私どもの方で会社に対してなにか言えれば良いのですが・・・」とも。
      
  • 今の僕には「とにかく休みが必要」という。
    「会社からいちど離れて、休められればいいのだけど・・・」と。 
     
  • 僕が「どこにいても落ち着けないのです」というと、 
    女医さんに
    「こういう時には肉親が頼り」。
    「両親のもとに帰られて、羽を休まれてはどうですか?」
    と、言われた。 
  • 今回、人事の人にも言われたことだが、ずっと子供のときから、こういう風に言われる機会はあった。言う側は自然な感情で僕のことを心配してこう言ってくれるのだろう。しかし、僕は、その度ごとにいつも、なんともいえない寂しい気持ちになる。 
  • 僕にとって、両親のもとに帰ることは、「羽を休める」どころか、ものすごいエネルギーと緊張を要する大仕事なのである。そのときには事前に肉体的、精神的コンディションを整え、話すべき手順を万事整えてから取り掛からなければならない。

    ものすごい緊張を覚悟しなければならないし、実際今まで家にいて安らぎを感じたことはない。これはきっと悲しいことだろうし、信じられない人もいるだろうが、そのような人間も確かにこの世の中にはいるのである。
     

  • 抗不安剤と睡眠薬をもらう。最後に先生が、背中を「ポン」と押してくださった。  

●再び人材会社● 

  • 別の人材斡旋会社、I社に行く。 
  • ホテルにいったん戻って「登録シート」をまた、うんうんいいながら書く。どうして斡旋会社によってみんなフォーマットが違うんだろう? 一枚書くのにすごいエネルギーを要する。 

    今日も、どうして解雇になるのかを含めて、また同じことを一から話さなければならない、と思うと、うんざりして、つくづく行くのが嫌になった。 

  • 体格のいい日焼け顔の相談員。さばさばした話し方。 
  • 「うちは業界でもトップのデータ量を誇ります。成約数もナンバー1です」と自信たっぷりに話す。 僕は「はい」「はい」「よろしくお願いします」ばかり。
     
  • それでもロシア関係は相当限られるという。原子力関係でロシア語が話せる人を募集しているところがあったので、今電話してみたが、「既に充足している」とのことであった。
    「充足」なんていうから、すぐに意味をとれず、聞き返してしまった。 

●ドトールで休息● 

  • I社での面談が終わって、歯医者の約束時間まで、日本の「ドトール」で時間つぶし。中は狭く人でいっぱい。奥のトイレのすぐ横の席だけ空いている。横に座っていたアベックが次から次へと煙草を吸う。空調の具合により煙がどんどんこちらに漂ってくる。加えて柑橘系のトイレの芳香剤のにおいのダブル攻撃。そこに鬱の感情が蘇ってきて地獄のような状況に。逃げ出しかったが、まだ約束の時間まで1時間ぐらいある。「こんな場所こそ、今の自分にふさわしいのだ」という気がしてきた。無気力でとにかく休みがほしい。また再び働けるのか? 働く気があるのか分からないのに、人材会社を次から次へと回っている自分が嫌になった。 

    さっき駅の書店でたまたま見つけて思わず買ってしまった「人間うつでも生きられる」(谷沢永一著)
    をわらをもすがるつもりで眺める。
    大学時代、谷沢永一教授の授業を取っていたことがある。白紙でも単位がもらえるというので、学生の間で大変人気の講座だった。僕も2回しか出席しないで単位をもらった口だが、この人がうつ症で悩んでいたとは知らなかった。「いったんうつになってしまった後では、とてもではないがうつの本など読む気になれない」と書いてある。ということは逆説的に今の僕はうつではないのか?しかし、どんどん気分は沈んでいく。

●歯医者● 

  • 歯医者にいく。
    奥歯の詰め物が取れてしまったが、向こうで歯医者にいくのが面倒くさくて、1年間ほったらかしにしておいた。今回の日本滞在中になんとかしておきたい。受付で「自分には保険がありません」と告げる。自由診療は高いんだろうなぁと心配する。ここの歯医者にかかるのは2年ぶり。看護婦さんのひとりが僕のことを覚えていてくださって、「(僕が当時診てもらっていた)先生は辞められましたが、○○さん(私)のこと心配していました」と教えてくださった。この歯医者は、建物とか医療機器とか、外見はちょっと古いが、庶民的で良い歯医者さんだと思う。

    今日は型を取り、歯石を取ってもらう。 

    今度は若い女の先生。「いま特大の歯石が取れました!」と嬉しそうに言う。取れた歯石を見せて、「ほら! 固いですよ。触わってください!」と笑う。触わるが「そうですね」としかいいようがない。「ほら、黒くなっているでしょう? 相当年季が入ってますね!」とやっぱり嬉しそう。

    女の助手さんに「向こうの状況はどうですか?」「エリツィンさんはもうダメですか?」とかいろいろ聞かれる。「もうダメでしょう」とだけ答える。「お仕事のほうは?」と聞かれ、ドキッとする。 

  • お会計。レントゲンと歯石で
    「1万510円になります」といわれる。イ、イタイ・・・ 

●右翼の演説● 

  • 夕方、新橋の機関車広場で、友人と待ち合わせ。おなじみの右翼の街頭演説。宣伝カーの壇上から、小学校の社会科の先生のような風貌のおじさんが叫ぶ。僕は歩道に腰掛けてほおずえをついて、ぼんやり考え事。 
  • おじさん(マイクの声) 「男は戦わなければならない! 戦うのが男である!」
    僕(心の中の声) 「もう戦えないよー。疲れたよー。」

    おじさん 「男は強いから、とりあえずメシ、食っていける」
    僕  「弱い俺は、これから、どうやってメシ食っていこうか・・・。」

    おじさん 「いま、交通事故で死ぬ人が1万人、自ら命を絶つ人2万人。働き盛りのひとの自殺が多いんです!」
    僕  「誰かが“心の内戦時代”っていってたなぁ・・。僕もときどきふらっとくるよ。」

    おじさん 「みなさんには誇りを持っていただきたい。」
    僕   「自分に自信ないからなぁ」

    おじさん 「この世で地獄を見て、あの世に命を絶つことはありません!」
    僕  「・・・?」

    おじさん 「どうか元気を出してください。どうか、自信を持って、元気に生きてもらいたいのであります!」
    僕  「うんうん。右翼もたまにはいいこと言うなぁ」 

  • 演説が終わったとき、「いいぞぉー」と言って、ひとりだけ拍手している人がいる。見ると油で濡れた白髪をふりみだし、黒い染みのついたズボンをはいたおじさんだった。大声でのべつくまなく回りの人々に話し掛けているが、誰も相手にしない。そのうち「ヤーレン、ソーレン」と歌い出した。どっぷり日が暮れてきた世紀末の新橋駅前でその人はヤーレン節をいつまでも歌い続けていた。 

2月19日(金)

●歓迎会●

  • 前の会社の友人たちが、居酒屋で僕のために歓迎の宴を開いてくれる。僕のHPを読んだ友人たちに思ったより元気そうで安心したと言われる。心配かけて申し訳ない。たくさんのごちそうが並べられ、僕は「おでんなんてあなた(あっちではなかなか食べられない)!」「やきとりなんてあなた!」「まぐろさしみなんてあなた!」「なべなんてあなた!」・・・・(永遠に続く)・・・・とこればっかり。優しくて美人のMちゃんは「いいから食べな」「いいから食べな」とおばあちゃんみたいにどんどん薦めてくれる。すごくいい奴だけど、ストレートな性格の友人Tに「4月からどうするんや?」とストレートに聞かれ、ドキっとする。

  • 2次会にカラオケにいくが、はやりの歌がぜんぜん分からない。

    ELTってなんだ? → ELP(エマーソンレイク&パーマー)と言ってしまう。
    サムエルってなんだ? → サムソン(韓国のメーカー)と言ってしまう。

    しょうがないから、大瀧詠一の「さらばシベリア鉄道」を歌ったら、みんな知らないでやんの。神妙な顔つきで聞いていた。 

2月24日(水)

●健康診断●

  • 留学のための準備として、健康診断を受けに行く。普通ロシアの大学に留学するにはHIVの検査結果を提出しなければならない。そうしないと滞在ビザが発行されないのだ。「外国人からロシア国民を守るため」、3ヶ月以上のビザの取得にはエイズ検査の結果が必要であるとの大統領令が発行されている国である。外国でのエイズ検査は無効、ロシア国内での検査が必要と主張して譲らない大学もある。友人の女子留学生は検査によって逆にエイズに感染する可能性を恐れていた。モスクワの病院で検査を受けた後、注射した腕がはれあがり、「あのときは本当に日本に帰ろうと思った」と述懐している。
     
  • 東京タワーの近くにある中央病院の人の多さにびっくりした。待合室の長椅子は診察を求める人々で埋まり、座るところがない。待っている人は圧倒的に中高年や年配の方が多い。人々や車椅子が右へ左へと行き交い、看護婦さんがドタドタと走っていく。ラッシュアワーの駅を思い出す。
    「リハビリセンター」と書かれた部屋のなかで、車椅子のおじいさん、おばあさんが横一列にずらりとならんでリハビリの順番を待っているのが見えた。先頭で看護婦さんがマットに横になったおじいさんの足をあげたりさげたりしている。あらためて、たくさんの人が、病気で苦しんでいるんだなぁと驚いた。

  • レントゲン検査を受けるために待っていると、ほおも体もものすごく痩せこけた車椅子の男の人が押されてきて僕の横に止まった。看護婦さんが話し掛けてもあまり応答がない。「(入院してから)長いのだろうか」と思う。体は健康なのに死の影が頭にちらつく僕みたいなどうしようもない人間もいれば、命のために懸命に戦っている人たちもいる。

2月26日(金)

●神戸、リンダ、ニキータ・ミハルコフ●  

  • 実家のある神戸にいく。新幹線の中で「リンダ」のCDを聞く。今回の日本滞在中には、ロシア語を聞いていなかったし、ロシア語の本も持ってきていたが、一度も開いていなかった。
    日本にいればロシア語に触れる機会も必要性もまずないし、積極的に取り組む意欲も無くしていた。それが、久しぶりにロシア語の響きに触れたとき、震えるほど美しいと思った。  
  • 「リンダ」はロシアンポップスの中で僕が一押しの女性アーティストである。 個性的なボーカルと、効果音や民族楽器を屈指した緻密な音作りが素晴らしい。雰囲気はロシア版ケイトブッシュという気がする。それにエニグマとピーターガブリエルの音素を足してキッチェにしたような(→ん?なんのこっちゃ)。しかし十分オリジナリティはある。「3D Sound」を採用したというCDの音は驚くほど広がりがある。曲の中には、琴が使われ、少し日本語が聞こえる。ロシアのポップスとしては極めて異例なことに、日本から彼女のファーストアルバム(「水の中の踊り」)が発売されている。  
  • ようやく大阪駅につく。ちょっと疲れてしまい、駅の待合所で腰掛けて休んでしまう。なにかいろいろな想いが不安とともに頭のなかをめぐって、ぼんやりと考え事をしていた。ふと、正面に設置されたハイビジョンテレビでやっていた映画が、ニキータミハルコフの「太陽に灼かれて」であることに気づいた。偶然かなあと思う。ボーとしながらも、結局最後まで見てしまった。ロシアに付きまとわれているような気もするし、やはり自分からあえてロシアを求めているような気もする。もう疲れているのだが。久しぶりの日本だというのに、ロシアのCDをヘッドホンできき、駅でもロシアの映画を見ている自分はいったい何だろう?  
  • 「太陽に灼かれて」は1994年製作のニキータミハルコフ監督、主演の露仏合作映画である。ニキータミハルコフの実の娘が出ていて、白い洋服を着て軽やかに走り回り、ニコッと笑う。  

    ソ連時代のモスクワ郊外の別荘。水浴と音楽とダンス、夏の光あふれるサロン、にぎやかな近親者の食卓とサッカー遊び。一見、穏やか楽しげな夏の田舎の生活に、戦車、毒ガス襲撃訓練、そびえたつ「レーニン万歳」のやぐら、飛び交う謎のファイアーボール・・・不安と恐怖の影が見え隠れする。物語作家を名乗る秘密警察の青年が現れ、これからの運命を暗喩するかのように、ニキータミハルコフの娘に「ヤティムとヤスラムの物語」を語る。「明るくて賑やかで容易な家だった。まるでこの家みたいだ。それが突然終わった。戦争が起こったのだ」。最後には名誉軍人・ニキータミハルコフはスパイ嫌疑で当局に連れ去られてしまう。映画の最後に気球があがる。気球とともにあがっていく旗に描かれた巨大なスターリンの顔が、風になびいて静かに揺らめいている。  

  • ニキータ・ミハルコフ監督は、昨年末のテレビ対談番組で突然、次期大統領選への出馬の意欲を表明した。ロシア国民の多くは自信を失い、ロシアの政治家にまったく失望している。その中で監督・俳優として人気のあり、最近も新作「皇帝の床屋」がアカデミー賞にノミネートされたニキータミハルコフへの期待が高まっている。
    前にテレビで彼は、「(今、ロシア人に必要なのは)どうやって生きるかではなく、なんのために生きるかである」と観客に熱く語っていた。 ケネディ大統領の演説を思い出した。 

2月27日(土)

●里帰り● 

  • 2年ぶりに両親の家に帰る。最悪の事態も想定し、たいへんな恐怖と緊張を持ってピリピリしながら、門をたたく。が、事態は意外と穏やかにすすむ。こんなにスムーズにいったのは生まれてはじめてである。暖かい雰囲気で迎えられ、トラブルもなかった。聞けば父は昨日たくさん酒を飲んで騒いだので、今日は元気がないという。それが幸いしたか?
    とにかく長年の経験から、自分の話をできるだけ押さえ、父母の話を関心を持って、じっくり聞き、ひとつひとつ言葉を選びながら質問に答えることに努めた。 安易な感情を抑え、それらを意識しながら行った。 
  • 案の定、結婚について問われ、はやく身を固めてほしいという話になる。
    これは自分でも信じられないことだが、その場の雰囲気もあり、「申し訳ないけど」と前置きした上で、正直な気持ちを打ち明けてしまう。幼いときから今までのことや、父と母の影をどうしても意識してしまい「家庭や子供をつくることに恐れと抵抗を感じてしまうのだ」と言った。頭ではなんとかしなければと分かっているのだけど、いまだに夢に見るし、どうしても心の奥にこびりついて離れない、と。父に「おまえは精神的かたわだ」といわれた。僕は正直に「そのとおりだ。僕は病気だ」と答えた。
    父母はちょっととまどったようだった。が、「わからないでもないが、チャレンジ精神をもって困難を克服しなければならない」とさんざん説得され、また励まされる。なにかヒジョーに複雑な気分。 
  • 夜中の12時にベルが鳴った。酔っ払ったおじさんが突然やってきて、トイレを貸してくれという。近所の父親の飲み友達とのこと。食卓に入ってきて、おみやげのウォッカを一緒に飲むことに。2年ぶりの家族の団欒に珍入者が現われ、母親はちょっと迷惑顔。僕も最初とまどったが、途中からどーなとなれという気持ちになり、父親と一緒にアルコール度数40%のウォッカを、この人にどんどん勧めてしまう。なにか変な展開。この赤ら顔のおじさん、途中から明らかにロレツが回らなくなってくるのが面白かった。
    ウォッカを5、6杯飲んだ後で、深夜にふらつく足取りで「だすべだーにゃ」(僕が教えたロシア語)といって帰ったが、無事帰り着けただろうか? 父の話では目的地(その人の家)とは全然違う方向に歩いていったという・・・。
    ウォッカは危険な酒であり、モスクワでは年間多くの人が酔っ払って死んでいる。路上に寝てしまったのではないかとちょっと心配だが、日本の冬はたかが知れており、まあ大丈夫だろう。 

2月28日(日)

●震災の記憶●  

  • 三ノ宮の街をぶらつく。街全体がガラリと新しくなっているのに驚いた。2年前に来たときは商店街のところどころに歯抜けの空白地帯があり、震災の爪痕を感じたのに、  
    今回は街や商店の外観からは、ほとんどかつての様相を見出すことはできない。三ノ宮そごうの外観もすっかり奇麗になり、前回はテントの露天営業をやっていた街一番の電気屋・星電社の立派な新築ビルができている。大きな本屋はあるし、映画館も。パソコンショップ「T−Zone」は出来ているし、商店街には多くの買い物客で賑わい、4階建てのマクドナルドでは若い人がたくさんいて、楽しそうにしゃべっている。  
  • あのとき、震災後3日目、僕は肩に食い込む救援物資を背負い、徒歩と迂回鉄道経路でなんとか神戸に入った。大友克洋の漫画「AKIRA」の世界が、まさに目の前に広がっているのに驚き、無言でただただ見ていた。街は完全に死んでいた。倒壊した巨大なビル。奇妙な形に変形した家々、傾いた橋げた。折れた電柱。ぐにゃぐにゃにうねる線路。どこまでも続くがれきの山など。 

    これはSFスペクタクルではなく、現実の出来事であり、実際に両親や親戚の家が壊れ、多くの人が生き埋めになり、6000人の方が実際に亡くなっているのだ。漫画や映画の中の世界と、目の前ある風景を頭の中で擦りあわせて、現実として受け入れることが困難だった。これはテレビとは違う。たぶんあの時の光景は一生忘れないだろう。  

  • あれから4年、今の三ノ宮の街からは当時を追体験することは不可能である。 よくここまで復旧したなぁ、という感慨。街はあれだけ壊滅的打撃を受けてもこれだけ見事に復活できる。人もまた、致命的な傷を負っても、時間が経てば復活できるのだろうか。  
  • 中央商店街入り口に立派な震災記念館ができていたので、ふらりと入ってしまった。当時の写真がいくつかパネルで展示されていた。それを見ていると、あのときのことが蘇ってきた。映像だけでなく、背中の荷物の重さとか、埃っぽい空気、肌寒さや手の冷たさ、喉の渇き、目のかゆみといった感覚が蘇ってきた。僕にとって震災の記憶は、テレビや映画や漫画とは違う、映像音声だけではなく、そのような「皮膚感覚」をともなうものである。  
  • 被災者の方々がつくられた工芸品を展示してある「支援コーナー」で、たぶん誰か被災者の方が書かれたのだろう、色紙に次のように書かれた手書き文字を目にした。  それがちょっと、僕の心に触れた。  

      めぐり逢い  
      縁があれば続きます。  
      縁が無ければ  
      記憶から  
      消えていきます  

      無理しない  
      無理しない。  

    被災者の方が、厳しい現実を受け入れ、不安を乗り越えるために綴られた言葉だろうか。
      

  • 今晩は妹の家に泊まる。明日は再び東京に戻る予定。 

 

 

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