はぐれミーシャ純情派

タシケント激闘最終日目前編
8月1日
 運命の日である。これで俺の中でタシケントが終わる。いや、多分これからも続くのだろうが、タシケントを離れれば少しは気も楽になるだろう。長い長い旅の一区切り。
 5時前に目が覚めた。寝たのが2時近くだから、強烈に眠い。しかし、時間に遅れるわけにはいかない。眠気を振り払って身支度をする。ラリサ叔母さんとアントンが見送ってくれるのは知っていたが、アレーシアも空港に行くと言い出した。それはとても嬉しかった。いつものようにお茶を飲むのだが、今日はなんか雰囲気が違う。珍しく全員そろった。誰かが言った冗談がカラコロと空々しく響く。昨日の夜まで、ラリサ叔母さんは「行くのやめて、タシケントに残ったら」と言っていたが、当日の朝になるとさすがにあきらめがついたらしい。笑おうと努力している。にっこり笑って、お別れしたいけど・・・。
 日々の疲れと寝不足が重なって、おれは笑顔を見せることができなかった。もうタシケントを出ることで必死である。もう迷いはない。彼女の事に関しては、迷っていない。
2,3日前の夜、俺の心に致命的なダメージを与える出来事が起こった。夕食を食べ終わり、いつものように静かな夜。ラリサ叔母さんと座って話をしていると、アレーシアがテニスのバッグを抱えて何かやっている。彼女から頼まれて、おれがプレゼントしたバッグである。かなり気に入っていたようなので、いつも触れていたいのだろう。すると、アレーシアがバッグの脇のポケットから何かを取り出した。それはリップクリーム。アレーシアは唇にぬっている。最初は気づかなかった。でも、どこかで見たことがある。アレーシアがまたバッグの中にしまおうとするのを「ちょっと見せて」と言って、そのてを止めさせた。
 それはおれが彼女にあげたリップクリーム。おれより先に彼女がタシケントに帰るときに成田空港で渡したやつだ。空港で俺はいろんな物を渡した。それ以外に何をすればいいのかわからないかった。彼女との1ヶ月以上の別れ。またタシケントで会えることがわかっているのに、せつない。離れることがわかっていたからであろうか、その日までおれと彼女は二度と会えない二人のように逢瀬を繰り返していた、その「温度」は俺の人生の中でも最高のものであった。あまりにも情熱的に、燃え尽きることを忘れないほどに。別れの後の寂しさを創造しては、一人身悶えしたものである。彼女は、この別れのときになっても、俺がタシケントに行くことを信じていなかった。そして、おれは二人がタシケントで幸せになれることを信じて疑わなかった・・・。
 俺はポケットやバッグの中に入っていたものをみんなあげた。ガムやペン、消しゴムなど。少しでも彼女を近くに感じたいし、彼女にもそう感じて欲しいから。その中にはリップクリームも入っていた。普段、俺が使っていたやつである。彼女にそれを渡すと、彼女はまず自分の唇に塗り、そしておれの唇に塗った。家族のいる前ではキスも出来ない。その代わりのつもりなのだろう。それが日本での最後のキスである。
 そのリップクリームが俺の目の前に、しかもアレーシアの手の中にある。彼女からもらったらしい。まだ俺が東京にいたときのことである。彼女がそのリップを持っているのを見て、アレーシアが「それ、何?」と聞いたのだ。まあ、タシケントには存在しないもんだから珍しかったんだろう。アレーシアが珍しそうにそれを見ていると、彼女が「欲しいんなら、あげる」・・・。
 心は決まった。迷いもない。モスクワだ。このときの気持ちはなんとも表現しようがない。それまではまだ迷っていた。彼女のことを愛する気持ちは少しも弱まっていなかったのだ。でも、そのリップクリームを見た瞬間、全てが終わった。愛が消えたわけじゃあない。背中を押されたのだ。苦しさと愛しさのパラドックスから抜け出すこと。とどめの一撃は、あまりにも残酷に。

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