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ソ連の戦争犠牲者は世界中で最も多く、2000万人以上の人命が失われたと言われています。(日本の戦争犠牲者は概数300万人。ソ連犠牲者数は日本が失った人命のおよそ7倍に当たるのです。) 多大な犠牲を出したロシアの人々。だからこそ平和への願いは強く、戦勝記念日はなによりも大切な日なのです。 なかでも「レニングラード封鎖」は、忘れてはならない負の歴史として語り継がれています。戦下のレニングラード(現:サンクトペテルブルグ)。1941年9月〜1944年1月にかけての900日間、ナチスドイツ軍が街を包囲、食糧や燃料の補給路が遮断され、陸の孤島と化したレニングラードでは60万人以上の市民が飢餓の犠牲者となりました。 「レニングラード封鎖」の厳しい寒さと飢えの中、12歳の少女ターニャが短い「日記」を綴りました。今回はこの「日記」をもとに、サンクトペテルブルグの街角に残る少女の足跡を訪ね、「ロシアから平和へのメッセージ」としてご紹介いたします。(少女の日記は「ターニャの日記」として日本でも紹介されています。日本図書センター刊) |
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★「ターニャの日記」とは? レニングラードの小学生、ターニャ・サーヴィチェヴァ(1930年〜1944年)が書き留めた、家族の死の記録。 ターニャ自身は、当時レニングラードを離れていた兄、姉を除く家族を見取ったあと、疎開先の施設で短い生涯を閉じました。わずか9ページの「日記」には、次々と家族を奪われていく少女の哀しみが、あまりにも簡潔に表現されています。 |
次の短い文章が各頁に綴られています。 1941年12月28日午前12:30 ジェーニャが死んだ 1942年1月25日午後3:00 おばあちゃんが死んだ 1942年3月17日午後5:00 リョーカが死んだ 1942年4月13日深夜2:00 ワーシャおじさんが死んだ 1942年5月10日午後4:00 リョーシャおじさん 1942年5月13日朝7:30 ママが死んだ サーヴィチェフ一家は死んだ みんな死んだ ターニャひとり残された |
サンクトペテルブルグ歴史博物館 に残る「ターニャの日記」の原本 |
★ターニャの家、ターニャの通った35番学校 ターニャの暮らしたアパート跡(ワシリー島地区)に、今年記念碑が設置されたばかり。 すぐそばには、彼女が通った35番学校が現存しており、ターニャにまつわる資料も展示されています。 住所:2nd liniya Vasilievskogo ostrova 13(ターニャの家) Siezdovskaya liniya 3/5(35番学校/※訪問には事前予約が必要です) |
ターニャの家 |
35番学校 |
★ターニャの日記碑 サンクトペテルブルグ市街からラドガ湖へと続く道路は通称「命の道」とよばれています。1941年の冬、凍結した湖を渡って、食料が運ばれたことに由来します。 道沿いには1キロごとに記念碑が設置され、市内から3番目の石碑のすぐそば、小高い丘の上に、ターニャの日記を再現した石碑が建てられています(右写真→)。少女のか弱い筆跡に、胸が締め付けられるような気持ちがします。 |
★サンクトペテルブルグ歴史博物館(旧ルミヤンツェフ伯爵邸) 2000点を超える第2次大戦時の資料を所蔵する博物館。 「ターニャの日記」のオリジナルは、ここで公開されています。 60年前の小さな手帳に書かれた9行だけの日記ながら、戦争の悲惨さを力強く訴えかけてくるようです。 その他、ターニャ7歳のときの写真、封鎖下の食糧難時に125gまで減らされた配給パンの展示、食していたという漆喰やソリで死体を運んでいる写真など戦争の悲惨さを物語る展示が数多くあります。 住所:Angliyskaya Nab.44 TEL:812-571-7544 開館時間:11:00-17:00 (火曜は16:00まで/ 水、最終火曜休) |
ターニャの写真 |
★レニングラード封鎖記念館 ファシストに抵抗した人々の記録や、プロパガンダなど、レニングラード封鎖にまつわる貴重な資料を、わかりやすく展示しています。ターニャが使用した机も公開されています。 住所:Solyanoy Per 9 TEL:812-275-7208 開館時間:10:00-17:00 (水、最終木曜休) |
★ピスカリョフ墓地 レニングラード封鎖による犠牲者、50万人が眠る広大な墓地。 緑の大地に限りなく続く無名墳墓の数は、あまりにも多く、胸が締め付けられます。 「どうぞ安らかに眠ってください」と、平和の尊さを感じる光景です。 併設の資料館には、ターニャの日記のコピーが展示されています。 「母なる祖国像」に記された詩の一節「誰ひとり忘れまい 何ひとつ忘れまい」というメッセージが、平和への思いをより一層強くさせます。 住所:Nepokorenykh Pr. 74 TEL:812-247-5716 開園時間:10:00-18:00 |
延々と続く無名墳墓 |
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平和を祈る「母なる祖国像」 |
泣いている姿をしているため 悲しみの象徴とされる しだれ柳が植えられています。 |
★パン博物館 “パン”がテーマのユニークな博物館。レニングラード封鎖時に配給されていた、わずか125gの小さな黒パンの展示があり、当時の過酷な食糧事情を伺い知ることができます。 住所:Ligovsky Pr.73 TEL: 812-164-1110 10:00-17:00(日、月、最終火曜休 ※2005年9月15日まで改装のため閉館中) |
★ターニャの足跡を追う地図 |
(筆:ツムラーレさん) |
★書籍紹介「ターニャの日記」 平和を語りつぐ名作絵本。忘れてはいけない歴史のひとコマを、 やさしい文章で伝えます。 日本図書センター刊(http://www.nihontosho.co.jp) 早乙女 勝元著/矢崎 芳則 絵 定価(本体価格)1800円 お問合せ:日本図書センター/ 03-3947-9387 |
必ず晴れるロシアの祝日。恐るべき!ロシアの天気操作技術 |
もしかしたら、曇りの日もあったかもしれません。でも私が知っている限りは、少なくとも雨が降ったことはありません。一体どうしてそんなことが起こりうるのでしょうか? 実は、ロシアではこの日、国家レベルで大規模な「雨雲払い」が行われているのです! 晴れを人工的に作り出す技術は、ロシアでは1960年代から実用化され、大都市での大式典の際に実施されるようになりました。 なんとモスクワでは1981年より現在まで、大きな祭日には一度も雨が降ったことはないそうです! 天気を良くする理論が本格的に運用されているのは世界でもロシアだけ。この分野の研究は戦前より行われ、実用技術では文句なしに世界のトップを走っているといいます。国外でもウズベキスタンのイスラム教の祭典のために良い天気を作り出したり、ベニスで濃霧対策をおこなったり、逆にキューバやイラン、クウェートでは雨を降らせるなど、ロシアの技術者が活躍しています。 ロシアで一番盛り上がる祝日である今年の戦勝記念日(5月9日)でも、約100万ドル(約1億1千万円)の予算を投じて、「雨雲払い作戦」が遂行されました。「この日のために用意されているひとつの催しも、雨のために中止になってはいけない」とはモスクワ市住宅経済整備局長の弁。祝日を晴れにするためにロシア緊急事態省、市内務省、空軍、気象観測所、気象台などから何百人もの専門家が参加するといいますから、ちょっと気合い入りすぎじゃないでしょうか。 |
さて、国家の威信をかけて(?)おこなわれるこの「雨雲払い作戦」。実際にはどんな手順で行われるのでしょうか? 1.雲行きが怪しくなり次第、特別装備の12機のイリューシン空軍機がスクランブル発進。 2.気象衛星や地上気象観測装置、気象観測飛行機の分析結果が、空軍機のコクピットに無線で伝えられ、雨の可能性がある場所がレーダー画面に赤色で表示される。 3.「晴れ薬」を散布。あるいは雲にたいし、飛行機の機体にとりつけれた銃火発生装置からヨード銀入り「弾薬」の「一斉射撃」をくわえる。 4.その結果、雲は霧散し、目的地(つまり街)に達する以前に雨となって落ちる。 |
どどど〜と 「晴れ薬(?)」撒きまくりの様子 |
つまり、街に近づく前に雨を降らせ、水分をなくした雲は街に入ったときにはすでに雨雲ではなくなっているというわけです(都市近郊の住民は困るのでは・・・?)。 2003年のポールマッカトニーの赤の広場コンサートでもこの技術が使われたそうです。 気になる環境への影響ですが、専門家によると、晴れ薬としてドライアイスや液体窒素など「環境に優しい物質」が使われており無害とのこと。 とはいえ、モスクワの住人は(ほんとかどうか分かりませんが)「人工的に良い天気を作り出した後は、1週間雨が続く」と苦情を言っているそうです。 |
音楽と踊りでロシアを体感する「ナショナルロシアンショー」を見てきました! |
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