3月11日(木)
●タチアーナ先生に相談●
- タチアーナ先生宅を訪問して、今後のこと、特に留学のことなどについて相談する。
タチアーナ先生は留学は得策ではないと言う。
僕の再就職を考えると、ロシアでの留学は勧められない。
「私は日本で長く生活したことがあるから分かるが、日本の会社はロシアでの留学を評価しないどころか、何をやってきた人だろうと不審がるだろう」
という。
- タチアーナ先生一家は6月に日本の北海道に引っ越すという。
彼女の旦那さんは外交官で、以前日本大使館で勤務していた。先生は日本で7年間滞在された。僕はロシア語をはじめて間もないころから、夜間クラスでずっと彼女にロシア語を教わってきた。
その後、先生一家は、ロシアに戻られた。
僕はロシアで働くことになり、モスクワで先生と再会した。
そして夜、週2回ほど、彼女の家に通ってロシア語を教わってきた。
3年のモスクワ生活の後、タチアーナ先生は、今度は北海道に行ってしまうという。
しかし、ご主人の仕事柄とはいえ、故郷に帰ってきたと思ったらすぐにまた日本行きになる先生とご家族もたいへんだと思う(飼い猫のプーシャも含めて)
いままでお世話になり、また頼りにしていただけに、結構ショックである。これからのこと心細い。
●Hさんのこと●
- モスクワ教育大に留学している友人Hさんが、電話をくれた。
概して周りでは僕の留学には反対の大合唱なのだが、はじめて僕の留学に賛成する人が現れた。
彼女は僕に
「ロシアで何か「やった」という実感を持って、日本に帰っててほしい」
と言う。
「敗北感を感じているのであれば、いま帰るのはどうかと思う」
とも。
- 彼女は東京のロシア語専門学校(夜間)を卒業後、何年かのOL生活を得て、留学のためロシアに飛び込んだ。
OL時代、彼女は、昼間は会社にいきながら、留学資金を稼ぐために、夜は寿司屋でバイトしていた。当時僕はそのことを聞き、ものすごい女の子もいるなあと感動した。
(時効だから明かすが、影響を受けやすい僕は、平日は会社に行きながら、土日は地方のスーパーでパソコン販売のアルバイトをしていた時期があった。すごくしんどくて2ヶ月しかもたなかったが。)
彼女はロシアでは1年半ほどモスクワ大学の準備科で学び、ロシア語の先生を目指して教育大に入った。一般のロシア人が通う4年制の学部である。
そのころの彼女は相当揺れていた。
当時の彼女は、(1)学費がない、(2)家がない(同室者にセクハラされてアパートに住めなくなった) (3)進路が決まらない の三重苦を抱えていた。
彼女は、友達の家を転々としながら、準備科の卒業試験を受け、あちこちの大学を尋ね、進路を模索した。
教育大に行くことを決めた後、夏休みは日本に帰り、昼間はカメラのDPE店で、夜は居酒屋で、一日16時間ぐらい休みなしで2ヶ月働いて、当面の学費を稼いだという。
スゴイひとだ。
彼女は日本に「里帰り」ではなく、「出稼ぎ」に行ったのである。
三重苦を抱えながら、日本に帰ろうかと真剣に考えたという。
しかし、「ロシアに来た以上、何かを得て帰りたい」「後悔したくない」という思いから、
ロシアに残り、さらに4年間、一般の大学で学ぶ決心をしたという。
彼女の生き方から、僕はいつも「自分の道は自分で切り開くのだ」という一種の執念ともいえる迫力を感じる。
彼女のモットーは「明日は明日の風がふく」だという。
彼女くらい自らのモットーを勇気をもって実践している人も珍しいのではないか。
いつも明るい元気印の彼女だが、ロシアに来た当初は毎日泣いていた時期もあったそうである。世の中にはいろんな価値観を持ったいろんな人がいて、それぞれ生き方も様々であるが、彼女は、僕は知っている範囲で、最も「強い」部類に属する女の子である。
彼女は僕に「ロシア語をはじめたときの気持ちを思いだしてほしい」という。
混迷のなか、少しずつ気持ちが留学の方に傾いてきた。
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3月12日(金)
●春の兆し●
- 会社にいくために外に出て、あたたかくなったなぁ、と思う。それでも+0〜2度ぐらいだと思うが。見ると地面一面に貼り付いていた氷が溶けて、道路の大部分が顔をのぞかせているではないか。柔らかい日差しが、光の束となって、木々や地面に降り注ぎ、アスファルトの水溜まりがキラキラ輝いている。木々の枝には木の芽が大きくふくらんできている。これからは日がどんどん長くなっていく。もうすぐロシアの長い冬も終わりなのだ。そうすればもう恐る恐る足を進める必要もない。それを確かめたくて、思わず子供のように駆け出してしまう。
- 会社で人事のSさんに呼ばれ、お茶をご馳走になる。
会社の庇護を離れて、ロシアに残るのは危険。とても勧められないとのこと。
「日本に帰らなければなりません」と真顔で諭される。
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3月13日(土)
●ロシアのアパートと公共運動●
- 朝、大家さんが来る。家賃を払い郵便箱の鍵を受け取る。
今までは会社宛てで郵便を受け取っていたが、これからはアパートで郵便を受けなければならない。
僕の住んでいるアパートの僕の列だけ、1階入り口のドアホンシステム(防犯用の暗証番号入力システム)が壊れたままになっており、部外者は誰でもエレベーターホールに出入りすることができる(他のアパートの列の入り口ドアホンは正常作動している)。
実際、夜に不審者が頻繁に出入りしていることは、壁にかかれた気違いじみたスプレー書き(「グルジア人は出て行け!」とか書かれている)や、エレベータの中に残った一面の黒い焦げ跡(焚き火の跡?おお怖わ・・)から明らかである。
郵便物が盗まれる可能性は大きい。
それで鍵をつけてもらえるようにお願いしていた。
どんなところに住んでいるんだ?と思われるかもしれないが、僕がいま住んでいるのは、ロシアの一般人が住むごく普通のアパートである。
実際ロシアの一般住宅のエレベーターホールやエレベーターの荒廃というか汚さは、日本人の目から見るとショックである。
僕が前に住んでいた会社借り上げのアパートは、守衛がいて、セキュリティーがしっかりした、わりかしちゃんとしたところであった(当時は家賃の半分を会社が負担してくれていたからそこに住むことができた)。
それでもロシアに来て最初にそこのエレベーターに乗ったときには、半分はがれそうな木の板を貼り付けてある内部空間や、昇降状況が一目で分かる大きく空いた隙間を見て、「うわー、これ大丈夫かなぁ? がたがた揺れてるし、落ちるんじゃないかなぁ?」とびびったものである。
しかし、今のアパートに移った今は、あれがロシアの一般水準からいってかなり高級なエレベーターであったことがわかる。
このアパートの住人たちも、不審者の出入りには生活の不安を感じているらしく、一時は主婦たちが婦人会のようなものを結成して、住居者から少しずつ資金をつのり、ドアホンを修復しようという運動が起きたことがある。
僕のところにも、太ったおばさんたちが押しかけてきて、「お金を払ってください」と迫られた。お金を払い、
「おお、ロシアにも公共住民運動の胎動か?」と久々に感心し、
「いつになったらドアホン直るのかなぁ?」と期待して待っていたら、何ヶ月もしても音沙汰がない。大家さんに聞いたら、「あれは残念ながらダメになった」と教えられた。
なんでも婦人会の各戸訪問の努力にもかかわらず、大半のひとがお金を払わず、資金不足から計画は企画倒れに終わったらしい。「なんで俺が払わなきゃいけないんだ?」とか言われたらしい。
公共のことを気を配る余裕がないほど、生活が逼迫している人もいるだろうが、今のロシアでは「公共心」というものがまだ存在しない、あるいは廃れてしまっている、と改めて考えさせられたエピソードであった。
あれから半年以上たった今もドアホンは壊れたままである。
●大家さんの人生相談●
- 大家さんに来月から家賃を大幅に負けてもらうことで快く了承してもらう。
大家さんとは、昨日も電話で長話した。僕の今後のことについて、いつも相談にのってもらっている。
大家さんが言うには、僕のことは決して悲劇ではない。大家さんの知り合いの女性は、交通事故がもとで、夫と全財産を失ったという。
現在のロシアでは補償など期待することはできない。50を超えた女性が、このロシアで、全てを失い、全くひとりで赤ん坊を抱えてどうやって生きていこうか、というのが、悲劇であって、僕の場合は決して悲劇ではない。
まだ若いし、日本に帰ることもできれば、ここに残ることもできるではないか? 身体が健康であれば、どこでも行って好きなことができるではないか? なにを悲しむことがある?
と大きな身体をゆすって笑う。
僕は大家さんのこの豪放で楽天的な明るさが好きで、このアパートに入ることに決めたのである。
まったくまったくそのとおり、と、深く納得せざるを得ない。
新聞をみても、テレビを見ても、人に話しを聞いても、あるいは、ちょっと街を歩いてみれば、世界では、特にこの国では、すぐにさまざまな不幸が視界に入ってくる。
問題はすべて僕のこころの中にある。ただ道がみえなくなっているだけ。
迫ってくるタイムリミットのなかで悶々と何も決められない自分にあせりといらだちを感じているだけ。
全て僕の中で完結している問題に悩み、疲れて精神が病んでいるんだと思う。
ちょっとした躓きはあったとしても、僕はきっと幸せな存在だと思う。
僕の問題は、現実的な生と死の縁に立って懸命に日々闘っている人たちからみるとずいぶんと贅沢な悩みであり、僕はたくさんの不幸を見聞きしておきながら、ひとり殻の中に閉じこもり、頭を壁にぶつけては自己憐憫にひたっているだけの、おめでたい悲劇野郎だ。
ここまでは僕は頭で分かろうとしている事実である。
しかし、落ち込んだときにはどこまでも落ち込んでいく。
一旦そうなると頭の理解ではコントロールできないのだ。
僕は悲劇ごっこを楽しんでいる訳ではない。
早く元気になりたい、
人生を楽しむとまではいかなくても生々と歩んでいきたい。でも今はそれができない。ただただ自分の存在が耐えきれない。
●バジーンに会う●
- 午後、友人バジーンと会う。久しぶりの固い握手。
プーシキンスカヤの映画館に行き、ニキータミハルコフの話題作「シベリアの散髪屋」を見る。その後、ビストロ(ピロシキのファーストフード店)でお茶する。
- 僕より先に会社を首になったガードマン出身のバジーン。
3ヶ月間仕事を探しているが、見つからないという。
友達が機器製造工場を始める予定で一緒に働くつもりだったのだが、資金面から挫折してしまって、ダメだったという。
今のロシアは、新しい会社を始めたい若者がいても、大部分の銀行が正常に機能していないのだから、いかんともしようがないのだ。
- バジーンと僕はいまや失業者仲間(僕は今月末までは猶予があるが)。
ピロシキとペリメニ(ロシア風餃子)を食べながら、自分のことで大変なはずのバジーンが、僕のことでいろいろと親身に相談にのってくれる。
- 「どうも気分が落ち込んで困っている」と僕が言うと、
バジーンは、この世には「悲しい気持ち」はあっても「悲劇」はないという。
彼にも大きな挫折があった。
彼は子供の時からずっと、かなり真剣に空手をやってきたという。
来る日も来る日も練習に明け暮れる毎日。
将来は空手の選手になることを夢見て、厳しい練習に耐えてきたという。
そんな努力が実を結び。外国での「ヨーロッパ選手権」への出場が決まる。
大会まで一週間にせまり、心躍る毎日。
彼は練習の途中、腰を痛めてしまう。
それから半年以上にわたる入院生活。
空手の道をあきらめざるを得なくなり、彼はそうとう思い悩んだという。
その後彼は徴兵されて中国国境にいき過酷な生活をする。モスクワに帰ってきたあと、奥さんと知り合い、大学を中退し結婚。ガードマンとして働きはじめる。
いま彼には幼稚園に行く子供がいる。
その後は日本企業に営業マンとして抜擢されたが、経営悪化で半年でリストラの対象になってしまったことは前にも書いた。
彼は空手をやっていたときの自分といまの自分は、別の気持ち(性格)が生まれたという。
空手を再開しようとしたことはあったが、あのときの気持ちのようにはできないという。
でも、楽しみながら自分の子供に空手を教えていきたいという。
彼は「時間は流れていく」という。
「悲しいことがあっても時間はすぎる。そして気持ちも自分も変わっていく。だから悲劇はないのだ」という。
会社にクビを告げられたときにも「仕方がないさ」と笑っていた彼。
現実をありのままに受け止める彼のさわやかな諦観の裏には、彼の人生経験の重みがあったのだなぁと思った。
- 僕の進路については、自分は僕がモスクワにいてくれた方が嬉しいしいが、僕の将来のことを本当に考えるとロシアにいるメリットはあまりないという。
これからこの国の経済や政治が良くなるとは思えないという。
これからこの国の将来を背負って立つであろう若いバジーンの悲観的な観測は、僕の気持ちを暗くする。
●映画「シベリアの理髪師」
- さて、久々のロシア大作映画「シベリアの散髪屋」(The Barbar of Siberia)であるが・・・、
驚いた。
あの広いプーシキンスカヤの映画館が、一番後ろの席まで人で埋まっていた。
ロシア映画でこんなたくさんの客がはいっているのを見るのは初めてである。
チケットだって一枚100ルーブル(700円程度)と一般ロシア人からすれば安くはないのに。
これはロシアでは「タイタニック」と並ぶ大ヒットかもしれない。
ロシア(仏合作)にしては破格の3000万ドルの制作費をかけたとのいうこの映画、
皇帝時代のクレムリンの街並みを再現するためにコンピューターグラフィックスとかも使われているらしい(ますますロシア版「タイタニック」か?)
19世紀末のロシア皇帝時代。
青年将校とアメリカ人女性との愛の物語。
ユンケル(陸軍士官学校)の最後の生徒となった青年たちの輝ける青春の日々が、軽やかに、エネルギッシュに、ときに思い入れを持って描かれる。
バジーンによるとこの頃のロシアはかつてないほどに諸外国との交流が盛んだったという。
登場人物は、貴族や将校から、兵士、守衛にいたるまで見事に外国語を操る。(もちろん主演女優(ジュリア・オーモンド)が英国人であり、またミハルコフは海外市場をにらんで英語主体の映画に仕立てたのだろうが)
主人公(オレグ・メーシコフ)との面会を求めて、ヒロインは賄賂を申し出ると、守衛はただちに受け取りを拒否する。
「これは誇りについての映画であり、誇りこそが私の祖国に最も欠けているものだ」と語るニキータミハルコフ。
この映画を通じて、ロシア人の心にかつての誇りや自信を呼び覚まそうとしているのかもしれない。
- この映画の中にも、ちょっとだけであるが、ニキータミハルコフの娘が出てくる。前作「太陽に灼かれて」にも出てきたかわいい女の子であるが、かなり成長している。
ミハルコフ自身はいつ出てくるのかな、待っていたら、ユンケル最後の卒業式のシーンで、ニコライ二世(最後の皇帝)役で、さっそうと馬に乗って出てきた。
やはり、俺がやらねば誰がやると思っているのか。次期ロシア大統領選への意欲をうかがってしまう。監督は英紙でのインタビューで「人々が本当に私に大統領になってほしいと願うなら、真剣にそれを考えなければならない」とはっきり言っている。(映画の宣伝のためにスキャンダラスなことをわざと言っているとの説もある)
- ちなみに「シベリアの理髪師」とは、ヒロインのお父っさん、リチャード・ハリスがロシアに売り込みをはかる巨大な伐採マシーンのことである。実物大のモデルをつくったというこの「ロボット」の迫力ある(奇妙な?)動きもこの映画のみどころ(かなぁ?)
しかし「太陽に灼かれて」の火の玉という、今回のロボットといい、ミハルコフは文芸映画にSF的要素を少し折り込ませるのが好きのようだ。が、それが映画自体に効果的な含みを持たせているかどうかについては、批判的意見が多い。(僕もあまりうまく調和しているとは思えない)
- ニキータ・ミハルコフの「シベリアの理髪師」。日本では2000年に公開予定とのことである。
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3月16日(火)
●何でも直すロシア人●
- どうしても会社にいけない。またさぼってしまう。どうせいってももうやることもあまりないし、働く意志があるかどうかも分からないのに、したり顔で転職活動をしている自分も嫌になった。
またウツウツになり、頭を抱えて寝ていたら、がさごそと音がする。「えっ?」と思って恐る恐る部屋のドアを開けると、目の前に大きな体のロシア人ふたりがおもむろに立っている。
びっくりした。なんだ、大家さんとその旦那さんじゃないか。
「鍵が開いたままになっていた」というが本当だろうか?(大家さんは合い鍵を持っている)
見ると、旦那さん、片手にパイプ、片手にスパナを持っている。
前にシャワーの水漏れと壊れた洗面所の修理を頼んでいたので、直々に来てくれたのだ。
大家さんが「修理に頼む」と言っていたので、てっきり配管屋さんに頼むものと思っていたら、旦那さんに頼んだのね。
大丈夫かなぁ。と思っていたら、旦那さん、慣れた調子で10分もしないうちにものの見事に直してしまう。これがロシア人お父さんの実力なのだと思った。旦那さんが器用だとか、配管工事の趣味を持っているというよりも、ロシア人のお父さんはなんでも直さなければならない機会が多い故に鍛えられるのだろうし、実際ロシア人は自分で金をかけずに何とかしようという気骨ある人が多いように思われる。
- 前に韓国人の友人から聞いた、ロシアの人のDo It Yourself精神を表す話。
その友人が、アパートの窓から何気なく隣の空き地を見ていたら、こに誰か若いロシア人が古タイヤを引っ張ってきた。
次の日も窓から空き地をみたらそのタイヤに、シャーシがついている。
次の日見ると、エンジンがついており、その次の日にはボディーの一部が、
ボンネットが、排気口が、ドアが、バンパーが、窓が、ライトが、バックミラーが・・・
と言う具合に、毎日アレヨアレヨという間にできていって、一ヶ月ぐらいたった頃にはほとんど完成。
ある日窓の外を見ると、車はなかった(たぶん自走した?)そうである。
すごいなぁ、この国のひとは。
車も自分でつくっちゃうんだもんなぁ。
これだけ「ものづくり」(修理?)にエネルギッシュな情熱を示し、実際器用な人の多い国が現在生産面で停滞し、壊滅状態になっているのもなんとも皮肉な悲しい話である。
宇宙ステーションとか飛行機の設計・開発(→けっこう得意分野)と、耐久消費財の生産(→あまり得意ではない分野)では求められる人の資質も違うかもしれないが、なんとか優秀なひとの資質や意欲を生かす場ができないかと思う。
●映画「8mm」 ●
- 夜、コダックキノシアターで、ニコラス・ケイジ主演の新作「8mm」を見る。
家に帰りたくなくて、つい虚構の世界に逃げたくなる。
監督は「バットマン・ロビン」がこけたジョエル・シューマッハー、脚本は「セブン」のケビン・ウォーター。内容についての情報がまったくない中、「どうしようかなぁ?」とずいぶんとためらいつつも、なんとなく入ってしまったのだが、結果としてはこの映画、アタリだったように思う。
金持ちの老婦人がニコラス・ケイジ扮する私立探偵に、自宅金庫のなかで発見された8mmフィルムの調査を依頼する。
そのフィルムには少女の惨殺シーンが記録されていた。
それは本物なのか偽物なのか?
失踪した少女の手がかりを追い、私立探偵は協力者−ビデオ屋の入れ墨店員(オカマ?)−とともに、闇のポルノマーケットに潜入する・・・。
一見、あまりさえない低予算の犯罪映画といったところで、映画でカーチェイスも派手なアクションシーンもないのだが、
題の通り、8mmとか16mmとかの自主映画(って今でも言うのかな?)の雰囲気を備えていて、
彩度を押さえた、しめった情感をともなった映像が、今の僕の気分に合っていて、
ノスタルジーとともに、すんなりと世界に入っていけた。
レコード・プレーヤーとかの小道具の使い方がうまく、恐怖感を盛り立てる。
この映画はデジタル全盛期のなかのアナログ映画なのだと思った。
全体的に押さえた演出で登場人物たちがあまり突飛な行動にでないのがハリウッドスペクタクル映画に慣れた目には逆にリアルで新鮮。
「フェイス・オフ」や「スネークアイズ」とは全く違った、ニコラス・ケイジの徹底的に押さえた演技に好感が持てました。ちょっと無理があったけど。
日本では5月公開予定とのことです。(恥ずかしいことに、最後の「マシーン」(殺人者)の正体が分かりませんでした。あれはいったい誰ですか?>映画評論家のSさん)
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3月17日(水)
●プーシキン大学訪問(2回目)●
- タチアーナ先生がつきそってくださるというので、たいへん申し訳なかったが、お言葉に甘えて、母子同伴という風体で、一緒にプーシキン大学までいく。
- 僕のアパートからプーシキン大学までは遠い。地下鉄で50分、駅から大学までバスで15分。ドアツードアで1時間15分ぐらいかかる。おまけにバスの便が悪く、なかなか来ない。
- 前に行ったのは2月のはじめ。
4月からの入学なら、いまはまだ時期が早いので、「3月に来てください」と言われていた。
- そのときもらったパンフレットで、プーシキン大学には「ビジネス・ロシア語コース」があると知り、少し興味を持っていた。
- ビジネスコースについて事務局にいったりして聞いたら、「大丈夫だ」「受講できる」という。
しかし、誰もくわしいことをしらない。
紹介されたいろんな担当者(先生?)を回ったが、結局ビジネスコースの担当者(A学部長?)には会えず、今日は引き上げる。
- 食堂での昼食時に、タチアーナ先生に、いまの僕の精神状態では、ロシアで仕事するのも、留学するのもキツイと思うから、「日本に帰って医者に診てもらった方が良い」と強く勧められた。
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3月19日(金)
●面接●
- ある日本政府関係の法人の面接を受けにいく。友人から紹介してもらった会社で、先週、電話をかけて、履歴書を送ったら「面接に来てください」と言われていたところである。
相変わらず精神状態は最悪。恐怖感の虜となり、外に出たくない、人に会いたくない気持ちをだましだまししながら、なんとか出かける。
- ものすごく緊張した。
面接の席で、所長さんにいきなり「今回は事務の女性の募集です」といわれ、全身がっくりする。
「でも、履歴書もいただいたので、一応お話を聞くことにしました」とその人は一言一言なめらかに話す。
『いちおう』って何だ?と思った。
顔には出さないけど。
こっちは緊張して連絡して、何時間もかけて履歴書と経歴書書いて、精神に鞭打って、祈る想いで来ているのに・・・。
- 後で、日本のKちゃんに電話で、「そんなの当たり前よ」とあっさり言われた。彼女は1年前に転職活動したが、同様の苦労があったらしい。確かにいまの買い手市場の就職難の時期、そのぐらいの屈辱や無力感は乗り越えていかなければならないのだろう。
でも精神が弱っているときに、これは結構きつい。
- にもかかわらず、型どおりだが、仕事内容や志望動機をいろいろ聞かれる。
もう戦意喪失しているのに、懸命に答えている自分がくるくる空回りしているようでむなしかった。
もう終わりかと思ったら、「いまからロシア語能力のテストをします」といわれビクッとする。
「いまからこちらのロシア人が話すことを、すぐに日本語に逐次通訳してください」という。
「えっ〜」、聞いてないよぉ〜(→ふるい)という気持ちになる(もっとも事前に聞いていたとしても、どうなるものでもないが)。
「今から私が例を示します」と言って、その人、メモを取りながら難しい経済関係の内容をテレビの通訳のようにすらすらと訳してみせる。
その段階でもう頭が真っ白に。逃げ出したい気持ちになる。
「さあ、どうぞ」といわれて、もうどうなとなれだ、はったりかまして、なんとかなんとか訳した。
が、なんともたどたどしい日本語になってしまった。
後で講評(?)として、ここの訳し方がよくないとか、通訳の心得とかいろいろ指導してくださった。
有り難いが、自分がなにしに来たのか分からなくなった。
- 帰り道、拳銃で自分の頭を撃ち抜きたい、という、とにかく破壊的な気持ちになり、コンクリートの壁を拳でたたいてしまう。ばかみたいだ。なんといったらいいか。自分が嫌だった。
●マクドナルドとストリートチルドレン●
- 家に帰ってもなにも食べないで寝てしまうのは明白だった。食欲はまったくないけれど、「ダメだダメだ、なにか食べなければ」と思って、帰り道にあったおなじみのマクドナルドに入る。チーズバーガーかじりながら、ふと見ると、店内のテーブルをひとつひとつ回って食べ物を乞うているおばあさんがいる。小声でぶつぶつ何かをつぶやきながらうろうろしている。
買ったばかりのアップルパイをまるごと渡している高校生ぐらいの若者がいた。見かけはちょっと不良風。心優しい若者だなぁ、と、ちょっと感動した。
- 店を出るところで、男の子がひとり追いすがってきて「1ルーブル!」とぶっきらぼうに言い、手のひらを出した。「お願いの仕方知ってる?」と聞いたら、彼は「パジャールスタ(Please)」と小声で言った。コインをあげると、ニコッと笑って「ありがとう!」と言ったやいなや、すぐに店内の方に走っていった。
モスクワのマクドナルドは、ストリートチルドレンたちの溜まり場となっている。前に住んでいたアパートのすぐ前にもマクドナルドがあったのだが、夜の12時ぐらいになっても、小さな子供たちがうろうろしていた。道路にうずくまって、煙草やビニールのシンナーを吸っている子もいた。
- 前のアパートの管理人のおじいさんは、元空軍パイロットでカムチャッカでも飛んでいた人なのだが、年金だけでは食べていけず毎日働いている。いつも「ソ連時代の方が良かった」と言っていた。「でも自由がなかったんでしょう? モノも少なかったのでは?」と聞くと、「確かにモノは少なく、いつも並んだが、少なくとも昔は秩序があった」と言う。「今はモノはあってもなにもない。犯罪者ばかりが儲けている」と嘆く。マクドナルドの方を見て、「ほら、あの子供たちを見ろ!あの子たちはギャングになるしか道はないんだ」。「ロシアはもう終わりだ」と、吐き捨てるように言った。
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3月22日(月)
●プーシキン大学訪問(3回目)●
- 先週の金曜日に「ビジネスロシア語コース」について、担当の女のA先生(学部長?)と連絡がとれたので、会う約束をして来たのだが、約束の時間・場所には誰もいない。すっぽかされた。30分ぐらい待ったが、隣の部屋の人にきいて、今日は彼女は来ないと分かる。
- そんなこんなで、誰に聞いても要領を得ず、益なくすごすごと引き返す。
精神状態が良くない時期に、往復3時間かけて、すっぽかされたら、結構ショックは大である。
- 前から薄々感じていたことだが、この大学、なんというか、建物はわりと大きくて、教授室や教室らしき部屋は無数と言って良いほどたくさんあるのだが、なんとなく寂しげな雰囲気で、活気に乏しい気がする。
先生の部屋はやたら多いのだが、それに比べて、学内を歩いている生徒が少ないような気がするのだが。
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3月23日(火)
●プーシキン大学に電話●
- 前日会えなかった先生(学部長)に電話すると、「いけなくなった」の一言で片づけられる。
すっぽかしても決して「すみません」の一言もない。
もうこれだけでも、こんな教師には教わりたくないという気持ちにさせるに十分だったが、そのうち私は担当じゃないといって、別のB先生、C先生の名前を出して、聞けという。
- 「だったら、金曜日に(電話したとき)言っとけよー!」と怒りが爆発しそうになったが、「ロシアでは怒っても仕方ない」精神が骨の髄まで浸透してしまっている日本人の僕は、つい「ありがとうございました。おじゃましました」と言って電話を切り、後から行き場のない怒りと自己嫌悪に悩まされることになる。
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3月25日(木)
●間が悪く●
- 今日はプーシキン大学に行く日。
昨日、B先生とC先生にそれぞれ電話してアポイントメントをとった。
出がけにシャワーを浴びていると、ちょうど頭を洗っているときに突然お湯と水が止まる。
「うわーまたか、チクショー」。なのだが、今回はなんとも間が悪い。頭がシャンプーで泡だらけ。すすぐ直前で水が止まったのである。
しかし、出発時間はせまっている。なにしろ大学まで1時間以上かかるのだ。このままでは遅刻してしまう。それで先生に先に帰られたらなんのために遠くまでいくのか分からない。
それで、しょうがないから、飲料用に買ってあった冷蔵庫のペットボトルの水(1リットル)をちょびちょびふりかけながら頭をすすぐ。でも石けんを全部洗い落とすまでにいたらない。頭がべとべとして、白い粉が噴いている。
- わー、気持ちわるぅー、でもしょうがない。もうぎりぎりの時間だ。
タオルで拭いて、着替えて、急いで出かける。
●プーシキン大学訪問(4回目)
- 間に合わないかと思って途中タクシーをとってなんとか間に合わせる。
B先生を約束の時間に尋ねるが、ドアに鍵がかかっている。
そのまま30分ほど待つが、誰も来ない。
たまたま通りかかった2つ隣の部屋の先生にきくが、彼女はもうとっくの昔に帰ったという。
- またすっぽかされたかと思って、C先生の部屋に行くが誰もいない。約束の時間まで待ち、その後もしばらく待つが、やっぱり誰もいない。
- ああ、ダブルですっぽかされたかよ〜。と落胆。
怒りがこみ上げてきたが、大学はあまりにもひっそりとひとけがなく、誰に訴えることもできない。
- がっくり肩を落として帰ることに。
廊下を出口の方に向かって、とぼとぼ歩いていたら、「日本人?」と中年のロシア人女性に声をかけらえる。
良く聞いてみたらこの女性がB先生と分かった。僕を探していた様子。
よくわからないが、先生は約束の時間に大幅に遅れたようだ(しかし詫びの言葉は全くない)。
- クラスについて、いろいろ聞く。
「ビジネスロシア語」については、いまはやってるが、来月早々に英国から来ている学生たちが帰ったら、講座は中止になるという。おいおい。常設コースではなく、そんな特注的な一時的なものかい。パンフレットには2月〜6月までの常設となっているのに。
- このときまででもうすでに明らかになっていたのだが、パンフレットには多種多様のたくさんのコースが用意されていると書いてあるのに対して、実際に開催されている授業はほんのわずかだということ。
やっぱり生徒が少ないのではないかという僕の感覚は正しかったのか。
ロシア経済危機も手伝って、ロシアから外国人が減っていることに呼応してか、学生が以前より大幅に減ってしまっているのではないか?
先生たちが約束をすっぽかしたり、あまり部屋にいないのも、もしかすると大学の授業ではなくアルバイトに走り回っているからかもしれないと勘ぐっていまう。
- どうやら、中級クラスでは唯一「共通コミュニケーションコース」というものが開催されているのみと分かってきた。しょうがないから、勧めにしたがって、4月1日に体験的に授業に出て様子を見てみることになった。B先生は当日朝9時に来なさいという。
- 結局C先生にはすっぽかされたようだが、B先生には会えたのは今日の収穫だった。
しかし、廊下で知り合った別のD先生からの情報によると、「ビジネスロシア語」はやり続けるかもしれないとのこと。
結局この大学では、事務局の人や先生ごとにみんな言うことが違っていて、情報が錯綜している。
- なによりも、事務局が、パンフに載っている授業が実際に開催されているかどうか全く知らないというのも、入学希望者にとって大変困ることである。
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3月26日(金)
●残務整理●
- 会社に行き、パソコンの中身を掃除したり、机の中をものを整理したり。まあ、出てくるわ出てくるわ、いらない書類や雑誌、ガラクタばかり。紙の山の下に、マニュアルや古いCDやフロッピーやハードディスクやLanカード、周辺機器が地層のように。
カップラーメンやら古くなったチョコレートまで出てきた。ボンボン捨てていくが、最後になってみるとほとんどいらないものばかりだと分かる。これが2年間の成果。いかに中身のない机と仕事だったか・・・悲しい。遅くまで残ってもとても終わりそうにないので、後は来週にして帰る。
- 会社においてあった辞書や書籍類を鞄にぎゅうぎゅうに押し込み、肩にしょって、えっちらほっちら歩く。 ああ肩にくいこむ。重いてよろけそう。無理するんじゃなかった。タクシーをとろうと考えたが、夜のモスクワをこのままふらふら歩いていくのがいいか、と思った。
モスクワの雪は、道路わきに固まった黒い泥氷の固まりをのぞいて、ほとんど溶けてしまったようだ。あちこちに大きな水たまりができ、黒い口を開けている。
車が、僕が歩いているすぐ脇を、速度をあげて通り過ぎ、思いっきり水をはねていった。
「あっ」と思ったが遅かった。全身水だらけになる。
「またか」と思う。ねらっているようにしか思えない。なんでこっちの車は通行人にわざといやがらせするような走り方をするのだろう。
そっちはストレス解消できていいかもしれないが、頭から泥水を浴びる生身のこちらはたまったものではない。僕はもう何度も被害にあっているので、もうたいして驚かない。が、全身びしょぬれになって、重い荷物を背負って、とぼとぼ引き上げている失業者(直前)の自分がミジメである。
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3月31日(水)
●会社最後の日●
- 今日は僕は2年間勤めた会社の最後の出勤日であった。気がすすまなかったが、何とか出かけて最後の片づけ、挨拶回り、全員にお別れメール。書類にサイン。残った荷物の整理。実にあっさりしたものである。
ますます社員が減ったようだ。社内はひっそりとしていた。
- ところで辞めるときのしきたりなのだが、この会社だけなのか、またロシアの一般慣習なのだか知らないが、ある社員が辞めるとなったとき、(それが本人都合だろうが会社都合だろうが関わらず)ある日「今日でこの会社で働くのも最後の日になりました」といったような挨拶メールが突然来て、それを見たときには、本人はもう会社を去った後。こちらからひとことのお別れの挨拶を言う機会が与えられないのが普通であった。
つまり何年も一緒に仕事してきた同僚でも「お別れの言葉もなしに」去ってしまうのが通例であり、その点ドライというか、水くさいというか、飛ぶ鳥後を濁さずというか(意味が違うか)、あっさりしているのだ。だから日本みたいにいちいち個人個人のために送別会をやるということも少なかった。
たまに台所で簡単なお別れパーティをすることはあったが。
もっともリストラも含めて、社員の出入りが激しい会社だったから、自然とそうなってしまったのかもしれないが。
- 今日、人事のSさんに呼ばれ、ちょっとめずらしいものをもらった。
「労働手帳」(トゥルダバヤ・クニーシュカ)というシロモノで、ロシアの労働者がみんな持っている勤務記録帳らしい。
僕の手帳にはロシア語で僕の名前と、大学の出身学科(僕の場合は哲学科。大学名はなぜか書いていない)、この労働履歴の一覧表に会社に入った日と、会社名とか登録機関とか、辞めた日が書いてある。
- とにかく持ってなさいと言われて、時間がなかったのであまり聞かなかったが、これはいったい何の役に立つものなのでしょうか?
これもって関係省庁(ロシアの職安?)にいったら、日本人の僕でも失業手当がもらえるのでしょうか?
現役の公務員や教師の給与が支払われない国だから、かなり期待薄だとは思うが。
- これは日本で言う「離職票」のようなモノなのかもしれない。
とにかくこの手帳をもった僕は、名実共にロシアの失業者。
自分の名前入りのロシアの「労働手帳」。かなりのレア・アイテムかもしれない。
- 今日は荷物も多かったことだし、ちょっとぜいたくしてタクシーで帰った。
ボロボロの白タクの窓から、まだ冬色の残るモスクワの街を見ながら、「結局この2年間はなんだったんだろう」とちょっと感慨にふけってしまった。
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