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2021年10月10日

20世紀におけるロシアの作曲家イサーク・ドゥナエフスキー


一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。
テーマ:「20世紀におけるロシアの作曲家イサーク・ドゥナエフスキー」
講 師:スレイメノヴァ・アイーダ(教授)

さて、彼については2017年にも別のテーマで触れましたが、その時は彼の一生涯についてはお話しませんでした。彼はどのように音楽に携わるようになったのか、今日はお話します。
1900年、ドゥナエフスキーは現在のウクライナに生まれました。ユダヤ人の家系です。母親がピアノを弾く影響なのか、子どもの頃から卓越した音楽的才能がありました。即興で行進曲やワルツを弾くこともありました。
1910年には音楽学校に入学し、ヴァイオリンとより専門的な作曲方法を学び、1919年に彼はオーケストラのヴァイオリニスト、コンサートマスターとなります。そして1920年には劇場で作曲家及び指揮者として仕事をし、「フィガロの結婚」の音楽で演劇作曲家としてデビューしました。
彼が都市部のモスクワに引っ越したのは、1924年のことです。エルミタージュ劇場の音楽監督に就任しました。1927年には、自作のオペレッタ『花婿たち』がモスクワ・オペレッタ劇場で上演されました。
彼の音楽人生はここまでも順調のように見えます。しかし、大きく飛躍し、一躍有名になったのは、1934年のソ連製ジャズ・コメディー『陽気な連中』の劇中曲を担当してからです。奇想天外でハチャメチャな喜劇は、日本でも知っている人が多いかもしれません。ということは、ロシアでは知らない人はいないということです。
 その後も、とにかくたくさんの曲を作りました。14のオペレッタ、3つのバレエ、3つのカンタータ、80の合唱曲、80の歌曲、88の劇音楽、42の映画音楽、その他オーケストラのための作品、ジャズの作品、ピアノの作品などさらに160曲ちかくも作りました。音楽の方向性は多岐にわたります。
 以前もお話ししたように、行進曲はとても人気です。今でもプレゼンテーションなど発表の入場曲に使われるものもあります。  しかし、当時の彼の人気は良いことばかりではありませんでした。彼が活躍した時代はスターリン政権真っ只中で、制限が多くありました。彼の作る音楽の多くは、ユダヤ人がテーマとなっており、否定的な官僚たちにより公開されないこともありました。
 そのストレスなど心労がたたったのかもしれません。ドゥナエフスキーは、1955年7月25日に 心臓発作が原因で亡くなりました。  彼は、ソビエト音楽のジャンルの形成に多大な貢献をしたことに間違いはありません。色々な音楽をたくさん作った彼は、ソビエト音楽の創始者と言えるでしょう。  最後に彼の作曲した有名な映画音楽を聴きましょう。

「グラント船長の子供たち」(ジュール・ヴェルヌの冒険小説の映画化、1936)の序曲:https://www.youtube.com/watch?v=8FARnTNOhbM

「私の国は広い」という歌は大ヒットの行進曲となった。https://www.youtube.com/watch?v=FLE82tvWXV4

小さな黒人の赤ちゃんには素晴らしい子守唄:https://www.youtube.com/watch?v=FYUqQRkdMG8

戦争時代の歌、「我がモスクワ」1943、フヴォロストフスキー歌手の演奏https://www.youtube.com/watch?v=_WS60ekSDVQ 

『春』1947、オルローワ女優の演奏と踊り:https://www.youtube.com/watch?v=MnNO2f2wp3E

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2021年10月10日

ミリオン・ズビョースト 第109号


函館校の学報であり、函館日ロ親善協会の会報であるミリオン・ズビョースト/百万の星 第109号を函館校のページに掲載しました。

 今回の巻頭言は、スレイメノヴァ・アイーダ教授による「縄文文化とロシア人の私見」です。2021年7月27日「北海道・北東北の縄文遺跡群」がユネスコ世界文化遺産に登録されました。ロシアにもよく似た遺跡があるそうで、先生の学生時代の思い出と、現在のロシアでのそれらの遺跡の扱われ方、そのほか縄文文化の普及について先生自身が思うことが書かれています。
また、11月に開催される市内8高等教育機関の合同研究発表会「HAKODATEアカデミックリンク」では、スレイメノヴァ先生の指導のもと、縄文文化紹介の紙芝居を露訳、ナレーションをつけてYoutubeに掲載するというプロジェクトも進行中です。今後の活動も楽しみですね。
 学生からの投稿では、今年度から7月に実施することになった学習発表会АБВГ-Dayやアグリ八幡坂の活動に参加した感想が寄せられています。  ぜひ、ご一読ください。

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2021年10月09日

日本のなかの露国式丸太小屋とペチカ


一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。
テーマ:「日本のなかの露国式丸太小屋とペチカ」
講 師:倉田 有佳(教授)

 北海道では、明治初年、「露国式丸太小屋」と「ペチカ」が積極的に築造されました。「コサック式」、「校倉式〔現在のログハウス〕」の名でも呼ばれていた露国式丸太小屋には、ペチカが備え付けられました。ロシアのペチカとは、煉瓦積みの暖炉であると同時に、パンを焼き、煮炊きを行うオーブン機能を持つ窯のことです。
 露国式丸太小屋の防寒性とペチカを高く評価したのは、開拓使長官を務めていた黒田清隆でした。榎本武揚の助言を受け、明治11(1878)年8月、黒田長官はウラジオストクを訪問し、同地方の住居その他の生活様式を調査しました。ちなみに、この時、函館の商人たちは、北海道物産販売調査のため、汽船「函館丸」で道産品をウラジオストクに持参しました。続いて同年の11月、黒田長官は、「夏秋ノ候温和ノ時」の視察では実態をつかめないとして、厳寒期のロシア建築の室内環境を知るため、敢えて厳寒期を選びサハリンのコルサコフに視察に向かいました。港湾氷結のため、短日時で調査打ち切りますが、この時、ロシア大工の雇い入れ交渉を行います。
 こうしてサハリンから北海道に招聘されたのが、ハモトフ、ノヴォパーシン、イワトフ(ママ)の3名です。このうちファデイ・ノヴォパーシン(Фадей Новопашин)は、家庭の事情により契約満期前にコルサコフへ戻っていきますが、開拓使との契約期間中(明治11年12月7日から2年6カ月)、日本人伝習生に技術を伝え、主に札幌本庁に露国式丸太小屋の官舎、学校、そして篠津(現江別市)に入植する屯田兵のための兵屋などを露国式(風)丸太組で建てていきます。内地から北海道にやってきた移住者を定着させ、経済・産業を発展させていくためには、防寒のために家屋改良が最も急務だったからです。であり、官設の家屋は市民に推奨する際の手本となるべきものと考えからでした。

 ストーブ暖房は家屋の改良と一体をなすものとの考えに基づき、開拓使はステパン・ムールジンを「煉瓦師」としてウラジオストクから招へいし、明治13(1880)年12月28日から翌年11月18日までの1年間、月給銀貨80円で雇用契約を結びました。お雇い外国人ムールジンは、露国式丸太小屋に、「露国型仕様」の「学校暖炉」、「両口暖炉」、「暖炉竃(かまど)」を設置し、ペチカや料理竈(かまど)の築造法を日本人に伝授しました。また、明治天皇の来道(明治14(1881)年)の際の宿泊所となるアメリカ様式の建物「豊平(ほうへい)館」に「料理竃」(「暖炉竈」とも)を築造しました。

ところで、開拓使が、ペチカや料理竈を「無比ノ良法」と考え、アメリカ風のストーブよりも高く評価したのは、使用する薪の量が少なく、長い時間火気を保てる点にありました。しかし、普及を阻む難点が多々ありました。具体的には、ペチカと不可分の露国式丸太小屋には、まっすぐな丸太の確保が難しく、角を削って加工しました。建築費は琴似式兵屋(日本風家屋の屯田兵屋)の約四倍と高く、また構造が難しいため量産できませんでした。丸太の隙間に詰めた苔がうまく固まらず、乾いてボロボロと落ちて隙間ができてしまったため、効率よい暖房の効果が見られませんでした。
黒田開拓使長官が相当入れ込んだ露国式丸太小屋とペチカでしたが、開拓使の廃止(明治15(1882)年)、三県時代、さらに北海道庁時代へと北海道が新時代を迎える中で廃れていきます。
他方で、大正時代の末、道庁や札幌病院のペチカの設置のために北樺太の亜港(アレクサンドロフスク)からロシア人のペチカ職人(ウルワンツイフ爺さん)が札幌に招聘されたことを当時の新聞が報じています(1924年9月19日付『小樽新聞』)。北海道庁の「蒸気式暖房」、札幌病院(現札幌市立病院)の煉瓦造の「蒸気暖房給水装置」(=暖房)の設置に関わったと思われます。「ペチカ」ではなかったようですが、煉瓦を巧みに扱うペチカ職人の腕前を発揮したに違いありません。 昭和の時代に入ってからも北海道には「丸形ペチカ」や「壁ペチカ」がありましたが、燃料が石炭から灯油に替わる中、ペチカは下火となっていきます。

日本領樺太時代時代(1905~1945年)の露国式丸太小屋については、豊原周辺に残されていたものの写真や小屋内部の見取り図(間取り)を示しながら解説しました。

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2021年10月08日

2021年オリジナルカレンダー 10月は??


 <10月>モスクワの街並み

 この写真はロシアで最も有名な美術館の一つである、モスクワのトレチャコフ美術館へ行った帰りに撮影したものです。正午に入館したのに気が付けば18時の閉館時間が迫っていました。
名残惜しくも外に出ると、暗くなりかけている通りでは街灯が点きはじめ、帰宅する人々(モスクワ人は驚くほど歩く速度が速い。競争心が強いせいだとどこかのロシア人が言っていた)でごった返していました。
最寄りの地下鉄駅トレチャコフスカヤの入り口につくと、恐らくホームレスであるお婆さんが『モスクワ郊外の夕べ』を千切れそうな声で叫ぶように歌っていたのがとても印象に残っています。

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2021年09月22日

アグリ八幡坂・秋野菜を植えました


 後期授業も始まり、アグリ八幡坂の活動も再開、秋の野菜を植えました。今度は収穫後に漬物を漬けるのが目標です。

 白菜、キャベツ、ブロッコリーは、まずポットに入った苗をハサミで切って株分けします。

 畑の海側には耕運機で準備した畝に、十分に間隔をとって苗を植えました。

 山手側の畝には大根、小松菜、チンゲン菜の種を蒔いて、水をたっぷりと。
春に植えて大きくなったローズマリーは鉢に移し替えて学校に持ち帰り、学生食堂で使ってもらいます。

 畑のすぐ横の函館ハリストス正教会の耐震化工事は、いよいよ聖堂に足場が掛けられ、大きなクレーンが作業中でした。早く元の美しい姿が見えるようになるといいな。


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2021年09月16日

アグリ八幡坂 秋野菜の養生

暑かった夏も終わり、アグリ八幡坂は秋の活動が始まります。

 今年は秋の到来が早く、秋野菜の植え付け時期は夏休み中に過ぎてしまったようですが、幸いわずかですが苗を確保しました。

ただいま、図書室の花台でたっぷりお日さまを浴びて、養生しています。

手前右が白菜、左がキャベツ、奥がブロッコリーです。このほか、大根、小松菜、チンゲン菜や春菊などの種も蒔く予定です。秋の活動もお楽しみに!

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2021年09月15日

2021年オリジナルカレンダー 9月は??

<9月>コローメンスコエのヴォズネセニエ教会(モスクワ)

コローメンスコエはモスクワ中心部から南に位置し、モスクワ川沿いに広がる史跡公園です。世界文化遺産にも登録されています。
もっとも古くて有名なのは、ヴォズネセニエ教会で、白い石造りの美しい聖堂が印象的です。写真は3年前に撮影したものですが、当時は観光客が多く訪れていました。

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2021年08月10日

2021年オリジナルカレンダー 8月は??

 ВДНХとはВыставка Достижений Народного Хозяйстваの頭文字をとった略称で、日本語では国民経済達成博覧会となります。この名称は、1959年から1992年まで用いられたもので、この展示会場の75周年の2014年から再び用いられることとなりました。 ВДНХは1939年のВСХВ(Всесоюзная Сельско-Хозяйственная Выставка)、全ソ連農業博覧会に合わせて作られました。そこではソ連の各共和国の農業政策の成功がアピールされました。その後は農業以外の分野もの展示も行われ、様々なパビリオンが建設されました。 現在はモスクワ政府が所有し、噴水やパビリオンが復元され、常設展示も存在し、観光地となっていたり、モスクワ市民の憩いの場となっている他、屋外ライブなど様々なイベントが行われる会場ともなっています。

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2021年07月30日

法学入門で「模擬裁判」

 ロシア地域学科の1・2年生が受講する法学入門の授業では、2年に1度模擬裁判を行っています。
 弁護士の荒木知恵先生の指導の下、裁判官、検察官、弁護士、被告人、証人といった役割分担を行い、先生の書いたシナリオにそって裁判は進みます。荒木先生が要所要所で解説を加えます。
 

 教室を法廷に見立てて机椅子を配置します。そして裁判官役の学生は、“法服”を身に着けます。ニュースやドラマなどで法服を着た裁判官を目にする機会があると思いますが、この模擬裁判で着用するのは卒業式用の黒いマントです。それらしく見えますね。
 


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2021年07月15日

オボジンスキー・ワレリー

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。
テーマ:「オボジンスキー・ワレリーについて」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(准教授)

 今日、お話しするのはソ連時代から今でも人気のある歌手、オボジンスキー・ワレリーについてです。彼の歌はとても人気でラジオでは常にリクエストが入っていました。私は子どもの頃、田舎に住んでいたのでテレビにもラジオにもあまり触れずに生活していました。夏休みのある日、親戚の家でレコードを聞かせてもらいました。それがオボジンスキー・ワレリーの歌でした。素晴らしい歌声で、とても感動したのを今でも覚えています。

 オボジンスキーは、1942年の戦時中、現在のウクライナで生まれました。両親は戦争に駆り出され、彼は祖母に育てられました。幼少期一緒に過ごした3歳年上の叔父がドイツ人からソーセージを盗み、オボジンスキーたちは銃を突きつけられる経験をしますが、祖母が仲裁に入り、救われました。
 学校に通うようになって、音楽を習い始めました。歌ではなく、楽器でした。しかし貧しい生活に変わりはなく、色々なアルバイトをしていました。帰り道の海岸で彼は歌を歌うようになりました。才能があるのは明らかでした。
 彼は音楽学校に入学したいと思っていましたが、結果は不合格でした。彼は音楽を諦めず、コストロマ・フィルハーモニー管弦楽団で最初は働き、色々な楽団を経験する中で、20才で歌手デビューすることとなりました。
 彼の歌のレパートリーのほとんどは愛がテーマの歌詞でした。それはとてもロマンティックでムードがあって、とても人気でしたが、国家が許しませんでした。愛国の歌や軍歌を歌うことを求めましたが、彼は歌わなかったのです。1971年、彼のコンサートは禁止されました。テレビも禁止されました。彼はこの頃からたくさんのお酒を飲むようになりました。
 歌がまた少しずつ歌えるようになってきた1975年にはアルコール依存症になっていました。1977年、長年一緒に仕事をしてきた人たちがオボジンスキーとの仕事を拒否しました。そうして気付くと誰も彼の行方が分からなくなっていました。
 1987年、彼はなんと工場の監視員の仕事をしていました。音楽の仕事は全くしていなかったのです。しかし、彼の熱心なファンが見つけ出し、歌をもう一度歌うように説得をしました。ファンのその女性のおかげで彼はもう一度ステージに立つことにします。1994年、音楽活動を再開しました。彼の姿は太ったおじさんでしたが、歌声は全く変わっていなかったので、みんな驚きました。
 ツアー活動では、ウラジオストクにも来ました。私も息子と観に行きました。素晴らしい歌声でしたが、このツアーが最後でした。
 1997年、オボジンスキーは55才で心不全で亡くなりました。
 最後に彼の素晴らしい歌声を聞いて、今日は終わります。
 Эти глаза напротив(向かい側の瞳)
☆曲名をクリックするとリンク先のyoutubeで視聴できます。


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2021年07月13日

アグリ八幡坂 キュウリ収穫

 畑の緑の勢いがよくなってきました。
 
 
 この日はキュウリの収穫です。
 
 種から植えた人参も葉がモウモウですが、実はまだ小さく、食べられるにはあと2週間ほどかかりそうです。

 
 ピーマンも一つだけとれました。なかなかのビックサイズ。ツヤツヤしておいしそうです。


 
 そしてきゅうり!「ラリーノ」という品種で、ミニキュウリのはずですが、直径7センチ、長さ20センチほどになりました。とても新鮮で、おいしくいただきました。

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2021年07月12日

アグリ八幡坂 草刈り奉仕

 アグリ八幡坂が、畑をお借りしている函館ハリストス正教会の草刈り奉仕作業を行いました。
 
 

 学校から草刈り機や鍬を担いで向かいます。
 
 

 ガソリンを注入し、エンジンスタート。
 
 

 ほとんどの学生は、草刈り機を使うのも初めてですが、すぐにコツをつかんで慣れたようです。

 


 後ろには保存修理工事中の復活聖堂が見えます。少しトラ狩りですが、きれいになって、神父さんも喜んでくれました。

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2021年07月09日

2021年オリジナルカレンダー 7月は??

<7月>グム百貨店(モスクワ)

 グム百貨店はモスクワの赤の広場、クレムリンの向かい側にあります。この建物はロシア 様式で商店街を置き換える形で建設され、帝政ロシア時代の1893年に完成しました。1930 年に閉鎖されるなどしましたが、1953年に再開し、ソ連で最も大きな店となりました。
 現在のグムには世界的に有名なブランドが多数出店していたり、レストランやカフェ、ギャラリーや文化イベントの会場になるなど名所となっています。
 写真はその中心にある噴水です。季節によってその姿を変え、私が訪れた8月はスイカが噴水の中にありました。ま た、噴水の横ではスイカが切られて売られていました。

※祝日法の改正により、祝日・休日が一部変更になっています。

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ミリオン・ズビョースト 第108号

 函館校の学報であり、函館日ロ親善協会の会報であるミリオン・ズビョースト/百万の星 第108号を函館校のページに掲載しました。
 今回の巻頭言は、函館錦識寺で僧侶をされている上田 隆弘さんの「いつか聖地で『カラマーゾフ』を~私とロシア語の出会い~」です。現在、函館校で開講中のロシア語市民講座上級コースを受講されている上田さん。どうして、ロシア語を学ぼうと思ったのでしょうか。そのきっかけや今後の夢について書いていただきました。
 また、4月から函館校に仲間入りした1年生による投稿「本校に入学して」もあります。全国各地から集まった新入生の多くは一人暮らしです。生活の大変さはあるものの、それぞれが新しい環境に戸惑いながらも、目標を持ってロシア語を習得しようとする姿が伺えます。是非ご一読ください。

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2021年07月02日

ソ連 名作曲家ゲオルギー・スヴィリードフ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。
テーマ:「ソ連 名作曲家ゲオルギー・スヴィリードフ」
講 師:デルカーチ・フョードル(副校長)

 ゲオルギー・スヴィリードフは、20世紀後半のロシアを代表する作曲家です。彼の作品はロシアの民族的主題に基づいており、現代でも人気があります。今日は、彼の作った音楽の背景を知るべく、スヴィリードフの一生についてお話しします。
 
 ゲオルギー・スヴィリードフは、1915年にクルスク地方で生まれました。幼いころに父親を亡くし、母親と暮らしていました。母親の仕事は教師でした。彼女はよく働いている褒美として、町から牛かピアノかをプレゼントされる機会が与えられました。選んだのはピアノです。これでスヴィリードフの傍に音楽の存在ができたのです。
 しかし、すぐにスヴィリードフはピアノよりもバラライカに興味を奪われました。民俗楽器の地元のアンサンブルにも受け入れられるほどの才能でした。
 そして、その当時の小学校の先生から、レニングラードの音楽校に行くことを勧められます。現在のサンクトペテルブルク音楽学校です。在学中に初の声楽曲「プーシキンの詩による六つのロマンス」を作曲します。これが認められ、レニングラード音楽院に入学し、ショスタコーヴィチを師として音楽の才能をさらに磨いていきます。ショスタコーヴィチの音楽は、交響曲や弦楽四重奏曲が有名で、いわゆる伝統的な、昔ながらの重厚な音楽が特徴でした。スヴィリードフは、ショスタコーヴィチの弟子でありながら、新しい作曲家でした。伝統と改革を兼ね備えたバランスの取れた人でした。
 卒業後は、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団に所属し、1940年代彼は戦争の歌を作りました。その中で最も有名なものは「勇者の歌」です。
 1956年にモスクワに引っ越したあとは、交響曲、カンタータ、ロマンス、非常に多くの曲を作りました。あまりにも多くの曲があり、またそれらは今でもBGMとして何気なく使われているものが多く、知らず知らずの内に耳にしており、調べてみて初めて「この曲もスヴィリードフなのか!?」となります。
 1965年公開の映画「時よ、前進!」の主題歌は、今でもニュース番組のオープニング曲で使われています。とても力強い音楽です。
 最後に余談ですが、彼には息子がいました。息子はレニングラード大学の東洋学部日本学科を卒業しています。ロシア人で初めて日本中世のおとぎ話を紹介した日本学者です。息子は、京都で教鞭をとっていたのですが、残念なことに病気で1997年12月に亡くなります。そしてその後を追うように、1998年1月にゲオルギー・スヴィリードフも死去しました。

☆下記は講話の中で紹介した曲です。
  曲名をクリックするとリンク先のyoutubeで視聴できます。
・「吹雪」(ライブ)

・「トロイカ

・「マリターナの歌

・「時よ、前進!


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