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2021年10月25日

ロシアの妖怪


一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の講話内容です。
テーマ:「ロシアの妖怪」
講 師:イリイン・ロマン(准教授)

 ロシア語で「妖怪」を説明するのは、とても難しいです。日本語では、妖怪のほかに、おばけ、幽霊、妖精、それから怪物など同じではないけれど似たような表現がいくつかあります。ロシア語で「妖怪」に近しいものを表現しようとすると「精霊」になるかもしれません。
 しかし、美しいものばかりが精霊ではありません。背景となる自然に対する姿勢や歴史が伝承で残っています。ロシアでいう妖怪は、神話的登場人物です。
 それでは、いくつかロシアの妖怪を紹介します。

 一つ目は、キキーモラです。
 マースレニッツアに来たことがある人は、モレーナをご存知でしょうか。モレーナとキキーモラ、似ている音節があります。「モレ」と「モラ」です。これは悪いものをもたらすという意味です。では「キキ」とは何かというと、鳥の鳴き声を表しています。顔が鳥のようですね。この妖怪は、機織り機が好きで、家庭に現れては、機織り機にいたずらをすると言われていました。
 もし、夜にキキーモラが現れたらどう戦うかというと、十字架を見せるとよいとされています。そうするとキキーモラは、固まるか逃げてしまうそうです。
 キキーモラは、女性です。おばあさんかおばさんの年齢と考えられています。もし、冗談でも女性に「キキーモラみたい!」だなんて言ってしまったら、それは大変な悪口です。僕が奥さんに言ってしまったら、離婚されてしまうでしょう。

 次に紹介するのは、ヴォジャノイです。
 これは、水に関する妖怪です。見た目は似ていませんが、日本でいう河童に似ていると思います。ヴォジャノイは水辺に現れて、泳いでいる人の足を引っ張るなどします。ヴォジャノイの食べるものは、動物や人間です。ヴォジャノイは、怖い妖怪です。自然界で起こる悪い現象、洪水や干ばつはヴォジャノイのせいだとされています。
 そのほかにもヴォジャノイには悪いイメージがあります。洗礼を受けていない子どもを連れ去り、自分の子どもにするだとか、溺れた女性をお嫁さんにし、子どもを産ませるという話があります。
 彼が食べなかったものは、ナマズです。ナマズはヴォジャノイにとって、馬のようなものだったからです。ナマズに乗って移動する姿を想像すると面白いですよね。現代でも大きなナマズが釣れると、ヴォジャノイもいるのでは?と話のネタになります。

 三つ目は、バーンニクです。
 ロシアのお風呂にいるとされています。日本でいう「あかなめ」に似ています。ロシアでは、夜12時以降バーンニクに会うからお風呂に入ってはいけないとされていました。お風呂に入っているときにいたずらされてしまうので、お土産を用意するとよいとされていました。例えば、石鹸とかですね。
 バーンニクには面白い占いについても伝説があり、クリスマスの時、結婚した女性はお風呂でツルツルした手のバーンニクに触られたら、貧乏な生活を今後送るとされ、ふさふさした手で触られたら、豊かな生活が今後できるとされました。そんな占い嫌ですけどね。

 四つ目は、ルサールカです。
 いわゆる人魚です。しかし、ルサールカには当初足がありました。19世紀頃にアニメなどの影響で今の姿が定着しました。ルサールカは、海ではなく、川、湖、池の近くに住み、見た目は普通の女性のようでしたが、人間にあまり友好的ではありませんでした。子どもを誘拐したり、漁師たちの道具を壊したりしました。

 五つ目は、レーシーです。
 森に住む、森を支配する妖怪です。森のイメージでいうと日本では天狗が似ているでしょうか。目が緑で、森の中で樹木と同じように大きい体をしています。
 レーシーは賭け事が好きと言われています。ある年、シベリアからヨーロッパ方面へ大量のウサギとリスが移動したという事象が起きました。これはシベリアとヨーロッパ方面のレーシーが賭け事をし、シベリアのレーシーが負けてウサギとリスを譲ったからだと言われています。
 そのほか、レーシーと遭遇すると襲われると言われていますが、対策として靴を左右逆に履く、服を表裏逆に着ていると、レーシーは混乱してきて襲われないそうです。しかし、10月4日はレーシーの日とされ、対策は何も意味がなく、襲われてしまうと言われています。なので10月4日は森に入ってはいけません。なぜ10月4日なのかは、僕も分かりません。

 六つ目はドモヴォイです。「家にいる」という意味の妖怪です。
 家や家族を守る精霊とも考えられましたが、例えば引っ越して新しい家に入る前には、悪いドモヴォイがいるかもしれないので、身代わりにネコを先に家に入れて確認しました。
 ドモヴォイは、基本的に悪くはないとされています。座敷童のような可愛い見た目ではありませんが、気に入った家族のところに住み、家族を守るとされています。寝ている時にドモヴォイが上に乗ってきたら質問をします。回答があれば幸運が訪れ、無ければ不運があるとされています。
 しかし万が一、ドモヴォイに気に入らない家族の認定をされてしまうと、いたずらされたり、悪いことが起きるそうです。

 最後は、美しい女性に見えるこのポールドニツァです。お昼の時間に現れます。この時点で珍しいのですが、手をよく見てください。彼女の手には大きな鎌が握られています。これは今でいう熱中症で亡くなることを意味しているのですが、暑い中、仕事をしていると彼女に会って殺されてしまうのです。

 ロシアの妖怪、いかがでしたか?ロシアは大きな国ですが、日本のような方言は無く、皆同じ言葉を話します。伝承、文化についても同じ意識を受け継いでいます。そのため、ある地方のみで存在するという妖怪はいなく、ロシアのどこで聞いてもこれらの妖怪や精霊の存在を今でも信じていたり、知っていたりします。もちろん、この現代で姿をはっきりと見たことがあるわけではありませんが、私たちの身近には今日お話した妖怪や精霊がいるかもしれません。

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2021年10月10日

20世紀におけるロシアの作曲家イサーク・ドゥナエフスキー


一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。
テーマ:「20世紀におけるロシアの作曲家イサーク・ドゥナエフスキー」
講 師:スレイメノヴァ・アイーダ(教授)

さて、彼については2017年にも別のテーマで触れましたが、その時は彼の一生涯についてはお話しませんでした。彼はどのように音楽に携わるようになったのか、今日はお話します。
1900年、ドゥナエフスキーは現在のウクライナに生まれました。ユダヤ人の家系です。母親がピアノを弾く影響なのか、子どもの頃から卓越した音楽的才能がありました。即興で行進曲やワルツを弾くこともありました。
1910年には音楽学校に入学し、ヴァイオリンとより専門的な作曲方法を学び、1919年に彼はオーケストラのヴァイオリニスト、コンサートマスターとなります。そして1920年には劇場で作曲家及び指揮者として仕事をし、「フィガロの結婚」の音楽で演劇作曲家としてデビューしました。
彼が都市部のモスクワに引っ越したのは、1924年のことです。エルミタージュ劇場の音楽監督に就任しました。1927年には、自作のオペレッタ『花婿たち』がモスクワ・オペレッタ劇場で上演されました。
彼の音楽人生はここまでも順調のように見えます。しかし、大きく飛躍し、一躍有名になったのは、1934年のソ連製ジャズ・コメディー『陽気な連中』の劇中曲を担当してからです。奇想天外でハチャメチャな喜劇は、日本でも知っている人が多いかもしれません。ということは、ロシアでは知らない人はいないということです。
 その後も、とにかくたくさんの曲を作りました。14のオペレッタ、3つのバレエ、3つのカンタータ、80の合唱曲、80の歌曲、88の劇音楽、42の映画音楽、その他オーケストラのための作品、ジャズの作品、ピアノの作品などさらに160曲ちかくも作りました。音楽の方向性は多岐にわたります。
 以前もお話ししたように、行進曲はとても人気です。今でもプレゼンテーションなど発表の入場曲に使われるものもあります。  しかし、当時の彼の人気は良いことばかりではありませんでした。彼が活躍した時代はスターリン政権真っ只中で、制限が多くありました。彼の作る音楽の多くは、ユダヤ人がテーマとなっており、否定的な官僚たちにより公開されないこともありました。
 そのストレスなど心労がたたったのかもしれません。ドゥナエフスキーは、1955年7月25日に 心臓発作が原因で亡くなりました。  彼は、ソビエト音楽のジャンルの形成に多大な貢献をしたことに間違いはありません。色々な音楽をたくさん作った彼は、ソビエト音楽の創始者と言えるでしょう。  最後に彼の作曲した有名な映画音楽を聴きましょう。

「グラント船長の子供たち」(ジュール・ヴェルヌの冒険小説の映画化、1936)の序曲:https://www.youtube.com/watch?v=8FARnTNOhbM

「私の国は広い」という歌は大ヒットの行進曲となった。https://www.youtube.com/watch?v=FLE82tvWXV4

小さな黒人の赤ちゃんには素晴らしい子守唄:https://www.youtube.com/watch?v=FYUqQRkdMG8

戦争時代の歌、「我がモスクワ」1943、フヴォロストフスキー歌手の演奏https://www.youtube.com/watch?v=_WS60ekSDVQ 

『春』1947、オルローワ女優の演奏と踊り:https://www.youtube.com/watch?v=MnNO2f2wp3E

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2021年10月10日

ミリオン・ズビョースト 第109号


函館校の学報であり、函館日ロ親善協会の会報であるミリオン・ズビョースト/百万の星 第109号を函館校のページに掲載しました。

 今回の巻頭言は、スレイメノヴァ・アイーダ教授による「縄文文化とロシア人の私見」です。2021年7月27日「北海道・北東北の縄文遺跡群」がユネスコ世界文化遺産に登録されました。ロシアにもよく似た遺跡があるそうで、先生の学生時代の思い出と、現在のロシアでのそれらの遺跡の扱われ方、そのほか縄文文化の普及について先生自身が思うことが書かれています。
また、11月に開催される市内8高等教育機関の合同研究発表会「HAKODATEアカデミックリンク」では、スレイメノヴァ先生の指導のもと、縄文文化紹介の紙芝居を露訳、ナレーションをつけてYoutubeに掲載するというプロジェクトも進行中です。今後の活動も楽しみですね。
 学生からの投稿では、今年度から7月に実施することになった学習発表会АБВГ-Dayやアグリ八幡坂の活動に参加した感想が寄せられています。  ぜひ、ご一読ください。

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2021年10月09日

日本のなかの露国式丸太小屋とペチカ


一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。
テーマ:「日本のなかの露国式丸太小屋とペチカ」
講 師:倉田 有佳(教授)

 北海道では、明治初年、「露国式丸太小屋」と「ペチカ」が積極的に築造されました。「コサック式」、「校倉式〔現在のログハウス〕」の名でも呼ばれていた露国式丸太小屋には、ペチカが備え付けられました。ロシアのペチカとは、煉瓦積みの暖炉であると同時に、パンを焼き、煮炊きを行うオーブン機能を持つ窯のことです。
 露国式丸太小屋の防寒性とペチカを高く評価したのは、開拓使長官を務めていた黒田清隆でした。榎本武揚の助言を受け、明治11(1878)年8月、黒田長官はウラジオストクを訪問し、同地方の住居その他の生活様式を調査しました。ちなみに、この時、函館の商人たちは、北海道物産販売調査のため、汽船「函館丸」で道産品をウラジオストクに持参しました。続いて同年の11月、黒田長官は、「夏秋ノ候温和ノ時」の視察では実態をつかめないとして、厳寒期のロシア建築の室内環境を知るため、敢えて厳寒期を選びサハリンのコルサコフに視察に向かいました。港湾氷結のため、短日時で調査打ち切りますが、この時、ロシア大工の雇い入れ交渉を行います。
 こうしてサハリンから北海道に招聘されたのが、ハモトフ、ノヴォパーシン、イワトフ(ママ)の3名です。このうちファデイ・ノヴォパーシン(Фадей Новопашин)は、家庭の事情により契約満期前にコルサコフへ戻っていきますが、開拓使との契約期間中(明治11年12月7日から2年6カ月)、日本人伝習生に技術を伝え、主に札幌本庁に露国式丸太小屋の官舎、学校、そして篠津(現江別市)に入植する屯田兵のための兵屋などを露国式(風)丸太組で建てていきます。内地から北海道にやってきた移住者を定着させ、経済・産業を発展させていくためには、防寒のために家屋改良が最も急務だったからです。であり、官設の家屋は市民に推奨する際の手本となるべきものと考えからでした。

 ストーブ暖房は家屋の改良と一体をなすものとの考えに基づき、開拓使はステパン・ムールジンを「煉瓦師」としてウラジオストクから招へいし、明治13(1880)年12月28日から翌年11月18日までの1年間、月給銀貨80円で雇用契約を結びました。お雇い外国人ムールジンは、露国式丸太小屋に、「露国型仕様」の「学校暖炉」、「両口暖炉」、「暖炉竃(かまど)」を設置し、ペチカや料理竈(かまど)の築造法を日本人に伝授しました。また、明治天皇の来道(明治14(1881)年)の際の宿泊所となるアメリカ様式の建物「豊平(ほうへい)館」に「料理竃」(「暖炉竈」とも)を築造しました。

ところで、開拓使が、ペチカや料理竈を「無比ノ良法」と考え、アメリカ風のストーブよりも高く評価したのは、使用する薪の量が少なく、長い時間火気を保てる点にありました。しかし、普及を阻む難点が多々ありました。具体的には、ペチカと不可分の露国式丸太小屋には、まっすぐな丸太の確保が難しく、角を削って加工しました。建築費は琴似式兵屋(日本風家屋の屯田兵屋)の約四倍と高く、また構造が難しいため量産できませんでした。丸太の隙間に詰めた苔がうまく固まらず、乾いてボロボロと落ちて隙間ができてしまったため、効率よい暖房の効果が見られませんでした。
黒田開拓使長官が相当入れ込んだ露国式丸太小屋とペチカでしたが、開拓使の廃止(明治15(1882)年)、三県時代、さらに北海道庁時代へと北海道が新時代を迎える中で廃れていきます。
他方で、大正時代の末、道庁や札幌病院のペチカの設置のために北樺太の亜港(アレクサンドロフスク)からロシア人のペチカ職人(ウルワンツイフ爺さん)が札幌に招聘されたことを当時の新聞が報じています(1924年9月19日付『小樽新聞』)。北海道庁の「蒸気式暖房」、札幌病院(現札幌市立病院)の煉瓦造の「蒸気暖房給水装置」(=暖房)の設置に関わったと思われます。「ペチカ」ではなかったようですが、煉瓦を巧みに扱うペチカ職人の腕前を発揮したに違いありません。 昭和の時代に入ってからも北海道には「丸形ペチカ」や「壁ペチカ」がありましたが、燃料が石炭から灯油に替わる中、ペチカは下火となっていきます。

日本領樺太時代時代(1905~1945年)の露国式丸太小屋については、豊原周辺に残されていたものの写真や小屋内部の見取り図(間取り)を示しながら解説しました。

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2021年10月08日

2021年オリジナルカレンダー 10月は??


 <10月>モスクワの街並み

 この写真はロシアで最も有名な美術館の一つである、モスクワのトレチャコフ美術館へ行った帰りに撮影したものです。正午に入館したのに気が付けば18時の閉館時間が迫っていました。
名残惜しくも外に出ると、暗くなりかけている通りでは街灯が点きはじめ、帰宅する人々(モスクワ人は驚くほど歩く速度が速い。競争心が強いせいだとどこかのロシア人が言っていた)でごった返していました。
最寄りの地下鉄駅トレチャコフスカヤの入り口につくと、恐らくホームレスであるお婆さんが『モスクワ郊外の夕べ』を千切れそうな声で叫ぶように歌っていたのがとても印象に残っています。

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