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ピョートル大帝のロシアの思い出
〜第7回〜
300年に思う〜80番バスに会いたくて −サンクトペテルブルク−
僕のロシアにおける街歩きのひとつの型として地下鉄の踏破というのがある。ロシアにはモスクワ11路線、サンクトペテルブルク4路線、ニジニーノブゴロド2路線のほか、エカテリンブルク、ノボシビルスク、サマラなどの都市に1〜2路線の地下鉄がある。できることならそのすべてを歩きたかったのだがそれは叶わなかった。 叶ったとこでどうするのだと言われたらなんとも返事に窮するが、無駄なことに時間と労力をたっぷり使うってのは最高級の贅沢なんじゃないかと僕は思うのであります。たとえば横浜中華街に遊びに行って中華を食べずに喫茶店の片手間スパゲッティ☆ケチャップダブダブを食べて帰るとか、博多に来たのに長崎ちゃんぽんを食べて帰るとか。与えられた意味に従うことをよしとせずにそれを乗り越えようとしているといえば聞こえはいいが、しょせんは与えられた意味を逆さに解釈してるだけでお釈迦様の手のひらでジタバタしてる孫悟空なのかもしれない。意味を乗り越えてかつ意味を作り出せるのはきっと天才だけに許された業(わざ)なんだろう。 そんな話はさておいて。サンクトペテルブルクは僕の好きな街のひとつである。泊まったのは一週間もなかったけど5回くらいは行ったはずだ。モスクワや他の町から夜行で朝着いて夜の夜行でモスクワに帰るという0泊2日コースも何回かした。
あまりに好きが高じてしまって、この街は自分流に回るぞ、と決意したため変なとこばっかり行ってる。「新オランダ」という地図上ではきれいな三角形した場所に入り込んだり、「汚い島」という所を見つけて半日かけて近づこうとしたり、「レニングラード・エクスポ」なる展示場に行ってみたら何もやってなかったりした。おかげでペテルブルク郊外のゴージャスな宮殿たちとか肝心のペトロパヴロフスク要塞には縁なく帰国してしまった。 そんなことをちょっと誇らしげな様子でとくとくと書いている僕を少し病んでるんじゃないかと思った方は、いわゆるところの健全な人だと思うので、珍奇なものでも見るような目で続きを読んでいってください。
どの路線を歩くかという問題はあまり悩まなかった。 結局はペテルブルク地下鉄遠征はこれっきりだったのだが、当時はもう2,3回できると思ってたのであまり考えることなく路線図でいう赤い路線の上半分を行くことにした。 ここは路線の途中で陥没か水漏れ事故があって、そこだけ無料バスが往復しているところである。その前にもこの80番バスには乗ったのだが、行きはよいよい帰りはこわいの言い伝えどおり、帰りのバスの乗り口が見つからずひどくパニクって別のバスで(有料、といっても20円足らず)帰った苦い思い出がある。どこがこわいねんな、まったく。 というわけで僕はペテルブルク遠征に向かったわけであります。
終点のジビャートキノ駅は地上駅でしかも列車の駅と同居していた。地下鉄終点駅は寒々とした田舎であった。 人口がどんどん増えて住宅地も外へ外へと広がっているモスクワでは地下鉄終点駅といえばモスクワ郊外の住宅地への拠点であるから、郊外行きのバスステーションに人が集まり、人が集まると市場ができ、といった具合ににぎわっているものであるのに、このジビャートキノ周辺はそんな気配はなかった。地下鉄が寸断されたおかげで繁栄が行き届きにくいのだろうか、もしくはペテルブルクの地下鉄終点地域はおおむねそういった場所なのだろうか?でも繁栄する要素があったらその前に地下鉄直してるか。 なにはともあれ僕は歩き出した。10分ほど歩くと道路の両端に派出所みたいな詰所があって、すぐに検問できるような体制になっているような所を通りかかった。ペテルブルク市の入り口であった。モスクワも市の入口の幹線道路に同じく検問所のような施設があった。そのあと、「サンクト・ペテルブルク」という標識に出合った。ということはこのジビャートキノ駅はペテルブルク市ではなかったことになる。きっと建設当初に何十年か先の繁栄を見越して地下鉄を引いたのだろうが、その先見性が讃えられる日はもう数十年を要するだろう。 ペテルブルク市に入ったとたん、「都市計画しました」と言わんばかりのソ連型集合住宅がどどんと連なっていた。モスクワといい、ペテルブルクといい、住宅地に大した差はない。ソ連の画一的な都市計画の成果かもしれない。田舎はそうではないが、モスクワ、ペテルブルクの都市では一戸建てというものがないと言ってもいいだろう。みんな質の差はあれ集合住宅に住んでいる。 土地が有り余っているのになぜ一戸建てが普及しなかったのだろう?きっと横に一戸づつ家を作っていくよりもひとつの地域にでかい箱をボンボンと作って家にしたほうが手間がかからなかったのだろう。水道・電気等の工事もしやすかっただろうし集中暖房の設置もやりやすかったと思われる。政治的にも相互監視しやすかったという理由もあるかもしれない。誰に聞いたわけでもないのでほんとのところは知らないけど。 どこでも同じだと思われる住宅地であるが、僕はそんなところをウロウロするのも好きである。別に血湧き肉躍るような面白さはないが、同じような間取りの部屋にいろんな人がいろんな家族構成で住んでいて、その部屋もあるじの趣味・センスによっていろいろあって(でもきっとどの家もじゅうたんを壁に貼っつけてるんやけど)、そこに住んでる人々にはその人々の数だけ人生があって喜怒哀楽があってうんぬん、などと漠然としたことを考えて面白がっている。ヒマだからできることである。 80番バスの駅までやってきた。前にも書いたとおり、80番バスの乗り場を探すことがこの遠征の隠された使命であるので、僕は駅のあたりをウロウロしたのだけど、あっけなく見つかった。前回は表通りに面した所だけウロウロしてたのだが、表通りと交差するちょっと細い道を探せばよかっただけだったんである。押してダメなら引いてみな、ということで。
その後も歩きに歩いてネヴァ川にたどり着いた。「おお、ネヴァ川!」とちょっと嬉しくなって駆け寄り(←山育ちなので水辺の開けてるところを見るとうれしい)、川面をながめて最初に目に入ってしまったのが漂う筒状の白っぽいゴム製品。その刹那、人間の営みの切なさとしたたかさを感じて泣きそうな顔で空を仰いだ僕がそこにはいた。「生きていこう」と思った。死にたかったわけとちゃうけど。 今回のゴールは歩いた路線の真ん中あたりと思われたプーシキンスカヤ駅にした。淡々と歩いて淡々と自分の決めたゴールにたどり着いた。6時間くらい歩いただろうか。疲れた。終わったらロシア美術館でも一回りしようかな、などと考えていたけどとても無理。でも帰りの列車まで5時間くらいあったのでネフスキー通りをブラブラした。 ここにひとつ驚きの事実がある。ペテルブルク一番のメインストリート、ネフスキー通りの絵葉書が存在しないのである。エルミタージュやカザン聖堂のようにひとつの建物でないからでもあるし、「これぞネフスキー」という風景がないせいであるかもしれない。日本だって銀座通りの絵葉書があるかといわれたらどうだろう、と思ってしまう。浅草の仲見世ならあるだろうけど。 その衝撃の事実に僕の目論んでいた計画はあやうく頓挫するところであった。ネフスキーの名を聞いた人はきっと一度ならずこの言葉が浮かんだはずである。「ネコ、大好き☆」。いままで何人の日本人観光客&留学生がただネフスキー通りの絵葉書がないために「ネコ、大好き☆ネフスキー!」のギャグをかませないでありきたりの旅の報告絵葉書を余儀なくされたことだろうと思うと涙がちょちょぎれる。 そんな困難にも負けず僕はネフスキー通り越しに撮ったモニュメントかなんかの絵葉書を大量購入し、そこに矢印を入れ「ネフスキー」と断ったうえで危機一髪起死回生窮鼠噛猫虻蜂不取的にわが最初の思いつきを形にすることに成功した。しかしながら苦肉の策の感は否むべくもない。ペテルブルク観光でひとつでも苦い思いをなくすため、観光関係の方々の尽力を期待したい。ギャグの苦しさは棚に上げて・・・。 |
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