ピョートル大帝さんによるロシア各地旅行記シリーズ。大帝の鋭い観察眼は、何も逃しません。街で見かけたふとしたものを大帝独特の紀行文で読み解きましょう。
ピョートル大帝独自の視点で綴るロシア旅行記。


ピョートル大帝のロシアの思い出

〜第一回〜

生き埋めエセーニン −リャザン−

詩人セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ・エセーニン(1895〜1925)は、リャザン郊外のコンスタンチノボ村で生まれ育った。
地域の中心都市リャザンの、これまた中心部のリャザン・クレムリン付近にこのエセーニン像はある。
詩人エセーニンの巨大胸像


なぜ上半身だけなのだろう?
人柱という風習があった。むかし、城や神殿を建てる時、その建物の安泰や厄除けを祈願して、土台にあたる場所に人を生き埋めにしたらしい。一種の生け贄である。人の命の値打ちが今よりもさらに軽かった時代、また信仰が現代よりも実際的な力を持っていた時代、あるいは人々は喜んで人柱となっていったかもしれない。


肉を切らせて骨を断つ。多少の犠牲を払わないと望むものは手に入れられない、という意味の表現である。将棋で最も使える駒は飛車だと言う。だが飛車は王将ではない。必要とあらば、上手な指し手はその飛車を切り捨てるそうだ。古い歌にもある「芸のためなら女房も泣かす。それがどうした文句があるか」と。

ベビーフェース?のエセーニン


石川啄木を小さい頃「ブタキ」と読んでしまったのは僕だけではないと思う。肺病持ちで貧乏、そのうえベビーフェースなのも手伝って、啄木は今でも人気のある詩人の一人である。だが彼には、当時は御法度だった社会主義思想に傾倒していた、という一面もあるという。高校の時、先生にそう教えられて驚いた覚えがある。




横からエセーニン

エセーニンは20世紀ロシアを代表する詩人の一人である。農村叙情詩人と呼ばれ、自然や農村をうたった詩が多く、残っている写真もベビーフェースなので、作品も読んだことないくせに、「ほのぼのしたシアワセそうなやっちゃのー。」と何となく思っていたのだが、彼は若くして自殺している。理由は不明らしいが、詩人として、ロシア人(ソビエト人)として、男として、人間として、何かそうせざるを得ない事情があったのだろう。(謀殺説もあるという)




この「生き埋めエセーニン」像の作者は郷土の偉人を生き埋めにまでして、何を表現したかったのだろうか?この作者はエセーニンが好きで好きで好きやったんやけど、作品にすると生き埋めに「なっちゃった」んじゃないかと勝手に推測して、崇拝と冒涜は紙一重、などという言葉もチラと浮かんだりして、いかにもロシアらしい!と最初はひとりほくそ笑んでいたのだが、実際のところはどうなのだろうか。


リャザン:モスクワより南東約200kmに位置する人口約60万人の都市。リャザン州の州都。モスクワから、電車ならモスクワ・カザン駅から毎日2−3往復のエクプレスがある。バスならショールコフスカヤのバスステーションから。

>次の回へ

「ピョートル大帝のロシアの思い出」目次へ


『ロシアンぴろしき』表紙に戻る