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あきさんの『人形になったイポンカ』

−第5話−

若き寿司職人の憂鬱

 

  皆さんはモスクワで日本食レストランに行ったことがおありだろうか?モスクワではただ今、あらゆる料理店の開店ラッシュである。日本ブームとなれば日本食レストランが立ち並ばないわけがない。ところが私が初めて行った所はひどいものであった。まだ“平家”で働く以前のこと、モスクワ中心地に位置するそこで出された料理は、お腹が空いていたにも関わらずなかなか喉を通らなかった。それらの料理は“勘違い”どころではない。まったく日本料理を知らない人が作っているとしか思えなかった。それ以降、決して日本料理店に足を運ぶことはないだろうと思った。

   ところが今、こうして日本食レストランで働いている。しかし、レストラン“平家”の料理はなかなかのものだ。初めて食べた料理はスキヤキだったが、においでそれが美味しいことはすぐわかった。多少みりんが強い気もしたが、私好みであった。

   そして感心したのは寿司である。握る姿が見えるようになっているカウンター席があるのだが、客のいない時間、とにかくヒマな私はよく見学していたものだ。

 「アキーー、なんで一緒に映画に行ってくれないのさーー。」

これは寿司職人のお調子者、セリョージャである。私と同い年、21歳の彼はその若さで厨房を仕切っており、腕は店一番である。それもそのはず、過去に日本で寿司の修行をしたことがあるらしい。普段はこんな風に女の子を口説いたりする普通の男の子だが、寿司となるとガラリと雰囲気が変わる。素人目から見てだが、かなり良い手つきで、刀工など見事なものであった。もともと料理に興味のあった私はしばしば彼の握りを見物していた。その為彼は、「アキは俺に気がある。」と勘違いしていたのか、このようによく私をからかっていた。タチヤーナや支配人アレクサンドル=イヴァーナヴィチまで一緒になって楽しんでいた。

 「アキ、何でセリョージャと映画に行ってあげないの?」
 「アキ、セリョージャと結婚すればいいじゃないか。そうすればアキはロシアにずっといられる。うちの店にもずっといてくれる。はっはっはっ!」

   余談だが、モスクワでイポンカ(日本人女性)はやたらモテると言われている。同じP大で学ぶとあるロシア人はイポンカが大大好きである。

 「イポンカは世界で一番ステキだよ!!けっ、ロシア女なんてクズみたいなもんだね。」
たしかにロシア人女性は強い。そしてデカい。何でもズバズバ言う。男達はタジタジである。だからきっと、見た感じ大人しそうで、控えめで、自分の意見をあまりはっきりと言わない小さなイポンカに惹かれるのであろう。まあ、セリョージャの場合は単に面白がってる、という感じだったが。

   このセリョージャは厨房で一番若いが、一番の権力を握っているらしい。確かに実力では一番であろう。他の料理人をアゴで使っている。大男のジーマも、はるか年上のローマも下僕、といった感じだ。そんな彼はどこか浮いた存在に私には見えた。他の料理人が女の話で盛り上がっていても、ひとり包丁を研いでいたりする。それもそのはず、彼は日本の料理店で厳しい上下関係の下で修行したのだ。できなかったら怒鳴られ、殴られることもあるらしい。それが彼の中に刷り込まれている。できる者が上で、できない者は掃除だろうと皿洗いだろうと雑用をやるのが当たり前。いくら日本食レストランと言えども、ロシア人にその精神を持ち込んだって理解されるはずがない。

   ある日、ウェイトレスの一人オクサーナは私にこう命令した。
「ちょっとセリョージャの所へ行って“サラーガ”って言ってやんなさいよ。」
「なんで?」という私の疑問など聞かず、私を急かした。このオクサーナは韓国系のロシア人で、まるで極妻のような雰囲気の姐さんタイプで、ガニマタ歩きがまるでやくざが幅をきかせて歩いているようであった。私は心の中で“番長オクサーナ”と呼んでいた。彼女に逆らえる人はこの店にはいない。

   私はよくわからないまま、セリョージャに近づき、言った。
 「あんたはサラーガ」
するとセリョージャはひどく憤慨し出した。
 「アキ、なんだってそんなことを言うんだい?そんな侮辱しないでくれよ。他の奴等に言うならまだしも、俺はそんなこと言われる筋合いはない。」
 「ち、違うんだよ、オクサーナが言えっていうから、言っただけ。」
この、“サラーガ”とは「新入り」とか、「下っ端」という意味で、とにかく相手を侮辱する時に使う罵倒語らしい。もちろんよくわからずに私が使ったこと、そして言わされたこともセリョージャにはわかっていたが、言わせた人がいることと、大人しいと思っていたイポンカに面と向かって言われたことが相当ショックだったらしい。なんだか静かになってしまった。「何か悪いこと言ってしまったな…」と私は家で後悔した。

   次の日、店に行くと、いつもと変わらずセリョージャはみんなをこき使っていた。そして私に言った。
 「アキー、今度こそ映画に行こうよーー。」
そこにはいつも通りのセリョージャがいて、私はほっとした。

                                 つづく


「イズミンカ」という名の日本レストランの宣伝ビラ。
ロシア語の名前かと思いきや、日本語「泉」を勝手にロシア語化してしまっていたのでした。(gonza: この店と本文とは関係ありません)


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