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2018年08月31日

2017ウラジオストクの旅 9

<6日目>

 楽しい旅はあっという間、ついに帰国の朝を迎えた。飛行機は行きと同じオーロラ航空のプロペラ機。ホテル出発が7時50分と早いので、前の晩にフロントでもらった朝食ボックスの食事を部屋で食べた。
 送迎車でウラジオストク空港へ向かう。到着の時ははやる気持ちでビルの外へすぐに出てしまったが、2012年に改装された新しい空港は売店もカフェテリアも備えられた近代的な空港になっていた。冷凍の鮭やキャビアも売っている。残ったルーブルでハチミツやチョコレートを買ったら、旅も終わり。
 

 最初は10人だったが、先に帰国した4人を除く6人での帰国、さらに成田空港から函館まで戻る人は4人と、ずいぶんさみしくなってしまった。それでも団員全員が病気やケガもなく無事故で帰国できただけで、心から安堵する。そのうえ、ウラジオどころか海外も初めての人たちも、来てよかった、また来たいと言ってくれたことが、この旅の何よりの成果であった。
 
 この盛りだくさんな旅の様子は、学報「ミリオン・ズビョースト第93号」や2017年9月17日付の北海道新聞函館版にも掲載された。それを読んだ多くの人々から、今度行くときはぜひ誘ってくれ、と声を掛けられた。嬉しい限りだ。
 
 次にまたいつ来られるかはわからないが、ウラジオストクは常に変化している刺激的な街だ。すでに訪れた人は再訪を、そうでない人はぜひともこの街の魅力を感じに、訪れてみてほしいと思う。(終わり)

  


          

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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ロシアの文化,歴史,経済,政治などを学ぶ、日本で唯一のロシアの大学の分校です。

2018年08月24日

2017ウラジオストクの旅 8

 <5日目 夜>

 スポーツ湾からまっすぐ伸びているアドミラーラ・フォーキナ通りは長い階段状になっていて、街中に戻る時は昇るような形になる。別名“噴水通り”の名が示すように、いくつもの噴水や花壇が美しく、ベンチでは人々がゆっくりと休むような、おしゃれな通りである。
 
 
 その通り沿いにあるカフェ「ウフ ティ ブリン」でひと休み。ブリヌイはロシアのクレープで、ハチミツやサワークリームのかかった甘いものから鮭や野菜を包んだ食事用のものまで、さまざまな種類がある。そのカフェもメニューがたくさんあり、とてもおいしいと地元に住んでいた人から勧められたのだ。
 カウンターで注文してお金を払うスタイルなのだが、渡されたメニューがハングル語。最後までめくってもハングル語なので、“Я Японка!(私は日本人よ!)”と叫ぶと、苦笑いで日本語のメニューをくれた。という訳で日本語のメニューもあるので安心です。
 

 それからホテルに戻り、他の人々と合流。他の人々は路線バスに乗り、エゲルシェリド半島の先にあるトカレフスキー灯台を見に行ったそう。干潮時には水が引いて浅瀬になるので、灯台まで裸足で歩いて近づけるそうだ。ロシアで路線バスに乗るのも楽しい。
 明日の帰国を控え、ホテル近くのお土産物屋さんや、広場で売られている中央アジアの果物などを見て回った。この時期はウズベキスタンのメロンやぶどう、プルーンなどが売られ、どれも甘くておいしい。
 
 
 帰り道は花屋通りという、お花屋さんだけが両側に並ぶ小道を通る。ここはスヴェトランスカヤ通りに沿った建物の中にあり、昔日本にもこういう建物の中の雑多な雰囲気の市場がありましたね、という感じだ。色とりどりの花も美しいが、植物の切り口から出るお花屋さん特有の青い匂いがまた心地よい。ロシアは日本よりも花を贈る機会が多いので、花屋さんの数も多い。

 結局、初日以外の夕食は自由行動にしようと思ったが、ほぼ毎晩全員一緒に食べている。今夜は現地に駐在する日本人の知り合いに、ホテルからほど近いウズベキスタン料理店「チャイハナ・フローパク」に連れて行ってもらった。
 

 フローパクとはウズベキスタンの名産品・綿花のことだそう。ここも大変人気のあるお店で、中央アジア版小龍包といった感じの「ヒンカリ」、スパイシーな焼うどん「ラグマン」、エビやお肉のグリルなど、日本人の口にも合うものばかりだ。
   
 何でもシルクロードの途中にあるウズベキスタンでは、オアシスで食べられる新鮮な野菜が何よりご馳走だそうで、ここの前菜もビーツやホウレン草を使った鮮やかな色のものが多い。
 
 
 ここのもう一つの特徴、それはエキゾチックな内装である。民族衣装や綿花が飾られていたり、水タバコの大きなパイプが置かれている。
そしてトイレがまたおもしろい。真ん中に井戸風の手洗いがあり、それをぐるりと取り囲んだ形式で個室が並ぶのだが、この個室も一つひとつ変わっている。便器が二つ並んで二人で使えるようになっていたり、個室の中にもう一つ個室があったり、探検するのも楽しい。実用のためかどうかはわからないが、お店に行ったら忘れずにトイレも使ってみてください。
 


        

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2018年08月06日

2017ウラジオストクの旅 7

 <5日目 午後>

 お腹も満たされ、今度はアレウツカヤ通りを市街地へと下る。旅行中は好天続きで、街頭の温度計も28℃を示している。
ロシア人は夏でも冬でもアイスクリームが大好きだ。アイスクリームを片手に通りを歩いている人を見て、自分たちも食べたくなったので、コンビニのようなお店に入ってアイスケースをのぞいていると、親切な女性に「おいしいのを教えてあげる。これにしなさい。こっちはもっとおいしい。」などと指南を受ける。昔から市民に愛されていると思われる、バニラにチョコレートをコーティングしたシンプルなアイスバーで、やはりおいしかった。
 食べながら歩いているうちに、街の中心部に戻ってきた。
 

 途中でおしゃれな壁画と記念撮影。後から知ったことだが、この壁画はパヴェルさんという地元のアーティストが描いたもので、ほかにも市内あちこちに作品が存在する。ただの落書きではなく、街角ペインティングプロジェクトとして市政府にも認められたアート作品なのだそう。
 

 それからディナモ・スタジアムの向かいにある姉妹都市公園を散策する。ここはウラジオストクと姉妹提携している都市の名前が書かれたゲートが連なっていて、一方から見ると英語、反対側から見るとロシア語で記載されている。もちろん函館の下で一枚。日本の都市ではほかに秋田、新潟があり、遠くはアメリカのサンディエゴなど。計8基ほど並んでいる。
 

 スポーツ湾に向かって歩く途中で、聖イーゴリ公聖堂を見つけた。こじんまりとしたかわいらしい教会であるが、現在発行されている最新の「地球の歩き方」の表紙にも描かれている。2017年の極東大学オリジナルカレンダーでは4月にこの教会の写真が使われている。何とも絵になる教会なのだ。
 

 スポーツ湾に面するナーベレジナヤ(海辺)通りは、夏ともなると家族連れでにぎわう。海水浴をしている人も多く、カップルには絶好のデートスポットだ。遊園地もあり、街中からも目に付くカラフルな観覧車がある。これはぜひとも乗ってみなくては!
 

 遊園地は入場無料だが、乗り物に乗る場合は窓口でチケットを買い、係員に手渡す。観覧車の係員にチケットを回収され、あとは勝手に乗れ、とばかりに指示され、ガラスも何もない吹きさらしのゴンドラに乗り込み、自分で転落防止のチェーンをかける。
眺めは最高。風も心地よい。眼下に遠くアムール湾を一望することができ、山側に目を向けると、先ほど歩いて周った二つの教会と街並みがよく見える。
 ウラジオに留学したことのあるうちの学生に聞くと、だいたいみんなこの観覧車に乗っているようだ。ぜひ天気のいい日に乗ってみることをおすすめする。
 


 楽しい街歩きはまだまだつづく。


        

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2018年07月31日

2017ウラジオストクの旅 6

 <5日目 午前>
 あっという間に帰国前日となってしまった。一足先に、今日帰る人も2人いたのでホテルで見送り、ほかの人は一日フリーで過ごすことになった。
 私は、自由に街歩きすることにした。ウラジオの街中をゆっくり散策したことは、実はない。出張で来る時には予定が立て込んでおり、車の移動ばかりだからだ。
 2011年に在ウラジオストク日本国総領事館とロシア国立沿海地方アルセーニエフ記念総合博物館が発行した「浦潮旧日本人街散策マップ~日本にゆかりのあるウラジオストクの名所・旧跡巡り~」を片手に、オケアンスキー通りを北上し、以前の極東大学のキャンパスを目指す。途中には旧日本総領事館や旧朝鮮銀行など、19世紀末から20世紀初頭にかけて建てられた日本ゆかりの建物が、今も保存・使用されている。最大6千人近くの日本人が暮らしたという大正期が偲ばれる。
 
 
 オケアンスキー通りの坂を登っていくと、右手にひときわ大きな教会が見えてくる。ポクロフスキー教会は金色青色に輝くクーポラが印象的だ。
 

 その通りをはさんで向かいにあるのが極東大学の昔の東洋学部の建物である。現在も極東連邦総合大学の名前は書いてあったが、人影もまばらで何に使われているかはわからない。函館校の教員はほとんどがこの東洋学部出身のため、ここで勉強した懐かしい建物なのだ。
 

 1912年、歌人の与謝野晶子がパリに滞在する夫・鉄幹に会うために敦賀から船でウラジオに渡り、そこからシベリア鉄道でヨーロッパを目指した。その際に詠んだ「旅に立つ」の歌碑が1994年に建てられ、東洋学部の前に今も残っている。
 

 構内を少し回ってみる。学生寮は今も誰かが住んでいるようだが、もともと古い建物で、今はいっそう寂れた感じがする。函館校の学生たちが留学実習時に学んだロシア語学校は、現在使われている様子はなかった。前日に見たルースキー島のキャンパスに比べると何とも対照的で、物悲しい気持ちになってしまった。

 すぐ近くに浦潮本願寺跡の記念碑があるというので探したが、木々の茂みに隠れて見えず、ようやく発見した。周りは小公園のように整備されていて、碑は思ったより小さかったが、外地で暮らす日本人の精神的な拠り所が確かにここに存在した証だと思うと感慨深い。
 

 ちょうどお昼になったので、目についたスタローヴァヤ(食堂)に入る。おそらくガイドブックになど載っていないであろう、社員食堂のような、地元の人が手早くランチをするような簡素なつくりだ。ピロシキ、シューバ(「毛皮を着たニシン」という名のビーツを使ったサラダ)、プロフ(中央アジア風の炊き込みご飯)など、好きなものを注文しておばちゃんに盛り付けてもらい、レジで会計をする。これがなかなか雰囲気も良く、おいしい食事であった(つづく)。
 


    

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2018年07月17日

2017ウラジオストクの旅 5

 <4日目>

 月曜日の早朝、3泊4日コースで帰る二人をホテルのロビーで見送り、朝食の時間まで部屋でゆっくりと過ごす。
 今日はいよいよ、極東大学のルースキー島キャンパスを訪問する日である。イリイン校長が自宅からホテルまで来てくれたので、残りの団員8名とともに旅行会社に手配してもらったマイクロバスに乗り、島へ向かう。島は前日、オケアナリウムに行った時にも訪れているが、極東大学のキャンパスの中は、事前に全員のパスポートを登録し、車種を伝えておかなければ入口から中へ進むことはできない。
 

 バスを降りると職員のイワノフさんが構内を案内してくれた。このキャンパスは2012年アジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議開催のために建設され、終了後に極東大学のキャンパスとなった。極東大学はウラジオストク市内のキャンパスを、数年かけてほぼルースキー島に移した。APECで宿舎として使われたホテルが学生寮となり、寮は敷地内に何棟も存在する。
 
 

 ウラジオストクでは2015年から毎年、9月にプーチン大統領が力を入れている東方経済フォーラムが開催されており、キャンパスはその会場としても使われている。私たちが訪れた8月は、そのための準備が急ピッチで進められているところだった。大学は夏休みのため、学生の姿はまばらだったが、職員たちはとても忙しそうで、案内のイワノフさんの携帯電話も鳴りっぱなしであった。広大なキャンパス内には極東地方を紹介する州ごとのパビリオンの建設が進められていた。

 

 キャンパスは海に面しているため、海水浴をしている人もいた。自然に恵まれ、富山県が植えた友好桜並木や森、滝があり、私たちはゆっくりと散歩した。そしてメインの建物を見学する。
 
 
 この建物にはカフェテリアや銀行も入り、学生にとって行き届いた施設となっている。中には大きな会議場がいくつもあり、私たちは“青のホール”と呼ばれる会場を見せてもらった。もう一つ、“赤のホール”もあるそうだ。
 

 そして、首脳会議が行われる国際会議場。大きな円卓は一度に50人くらいは座れるだろうか。各座席ごとに通訳の機械なども設置されており、熱い議論が交わされる会議の高揚感が伝わる。一面ガラス張りの窓からは先ほど歩いた森とその向こうの海がよく見える。

 イワノフさんに「座ってもいいですか?」と尋ねると、「もちろん!」と許可をいただいたので、みんなで座らせてもらった。会議に参加した気分を味わうために握手を交わし、賛成の挙手をした。みんなやる気満々である。
 
 
 それから外へ出て、構内の少し高級そうなレストランでランチを食べた。鶏肉の焼いたのや、野菜のスープ、食べきれないほどのポテトフライ、お昼なので、モルス(ベリーで作った赤いジュース)で乾杯。
 

 昼食後には、もう一度メインの建物に戻り、かつての極東国立総合大学の学長で、今は極東連邦総合大学の法学部長となったクリーロフ・ウラジミル先生に面会する。クリーロフ先生の部屋の前には函館校の写真と函館市から贈られた夜景の写真が飾られていた。
 クリーロフ先生は函館校を作った人物であり、私たちはもう長い間友好関係にある。一人ひとり、自己紹介や旅の目的など、がんばってロシア語を話し、旧交を温めることができた。ウラジオストク市と函館市との姉妹提携25年は、ほぼ函館校の歴史と重なるのである。
 

 ルースキー島を後にしたバスは鷲の巣展望台に上るケーブルカーの駅に向かった。駅の向かい側には旧東洋学院の古い建物がある。極東大学の歴史は1899年、この東洋学院創設から始まった。
駅の横には小さな教会がある。通常観光客は中には入れないようで、のぞいたら厳しく注意されたが、団員の一人が正教会の信者である印の十字架を見せると、快くその方だけ中に入れてくれた。
 

 3分ほどのケーブルカーであるが、昔のままの古い感じがして味わいがある。何度乗っても赤と青の2台のワゴンが中間ですれ違う時はわくわくするものだ。
 
 
 展望台からは街が一望できる。8年前に来た時はまだ橋げたを作り始めたばかりだった黄金橋が、今は街のシンボルとして大きく横たわる。地元のカップルに写真を撮ってくれるようカメラを渡すと、彼氏は初め迷惑そうだったが、彼女が我々と一緒に嬉々としてフレームに収まると、何枚もシャッターを押してくれた。
 

 バスがホテルに戻ったのは夕方4時頃だった。この日の夕食は各自でとることになっていたので、ふたたび街に出て、ドム・クニーギ(本屋)で、また絵葉書や文房具を買った。ちょうど新学期を前に子ども用の文房具が充実しており、ロシア語の筆記体練習帳などがロシア語学習者へのお土産にぴったりなのだ。
 夕食は中央広場前にある老舗ロシア料理店「ポルト・フランコ」に入った。パンの中にクリーム煮が入ったキノコのつぼ焼きや、クルトンがたっぷり入ったスープはそれだけでお腹がいっぱいになる。
 


 街は夜でも活気があふれ、人々が闊歩する。大きな通りはあまり危険なことはないが、それでも単独行動は避けたほうがいいでしょう。
 


             

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子


                     

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2018年07月09日

2017ウラジオストクの旅 4

*少し間が空きましたが、続けます。

 <3日目>

 日曜日、この日は極東大学日本学科の学生で、2016年にロシア極東大学留学生支援実行委員会の招へいプログラムで函館校に留学していたスルタノワ・リュバーワ(リューバ)さんが街を案内してくれた。ちょうど夏休み中でカフカス地方から遊びに来ていた従妹のディーナも一緒であった。ディーナはまだ16歳で、日本語はまったくわからないそうだが、タクシーを呼んだり、チケットを買う手伝いをしてくれたり、何かと世話を焼いてくれた。

 午前中はホテルから徒歩3分のところにある、アルセーニエフ記念沿海地方博物館を見学した。10年前に訪れた時とは随分印象が違う。以前はアムールトラや鷲のはく製、石などが展示されたカビ臭い、博物館らしいイメージだったが、今は歴史的資料というよりも“見せる展示”の度合いが高くなった気がする。

 コーナーごとにテーマがあり、北方民族の生活やソ連時代の赤十字活動の展示など博物資料はもちろんだが、3階では“ペルミの神像”という木造彫刻の企画展が行われていた。

 ランチはスヴェトランスカヤ通りをはさんでホテルヴェルサイユの向かいにあるスタローヴァヤ(食堂)で、それぞれ好きなものを注文する。カフェテリア形式で種類が豊富、ガラスケースにはピロシキ、サラダ、肉料理などが並べられ、スープや飲み物も選べる。ロシア語がわからなくても指さしで「これ、これ」と言えば済むので、気軽に入ることができる。

 午後は希望者6名とリューバとディーナでルースキー島に新しくできたオケアナリウム(水族館)に向かう。ほかの人々はホテルで休息したりお土産を探しに出かけたり、自由である。

 
 さて、水族館チームはタクシーで黄金橋とルースキー大橋、二つの橋を渡り、いよいよルースキー島に上陸する。極東大学のキャンパス前も過ぎたが、今日は素通り。停車場でタクシーを降り、プロムナードを歩いて行くと、大きなシャコ貝のようなオケアナリウムの建物が見えてくる。事前情報ではとても混んでいて入場に2時間待ち、などと聞いていたし、日曜日なので心配したが、リューバがチケットを先に手配してくれたこともあり、並ぶことなく入ることができた。ここも“見せる”展示内容で、ロシアはこういうところの見せ方は本当に上手だなあ、と思う。世界最大級の水槽を持ち、館内はとても広く、あちこちに海のオブジェや熱帯ジャングルもあり、まるでディズニーランドみたいな水族館だ。

 刷毛で砂をよけると化石を発見した気分になれるコーナーなど、遊び心満載である。

 そしてチケットに記載されている時間にプールに行くと、ショーを見ることができた。イルカのジャンプ、アシカの曲芸、腹筋するトドなど愛嬌ある海獣たちのショーはなかなかクオリティーが高い。
 見ごたえのある水族館で、全部を回りきることはできなかった。

 ふたたびタクシーでホテルに戻る。リューバとディーナとはここでお別れ。二人ともオケアナリウムには行ったことがなかったので、とても喜んでくれた。リューバは日本語が随分上達していたし、ウラジオで再会できて嬉しかった。かわいいディーナもよく付き合ってくれて、ありがとうございました。

 少し休憩した後、ホテルの隣のスタローヴァヤ「ニ ルィダイ(Не рыдай=泣くな)」で夕食をとった。今回の旅行の基本は5泊6日コースだが、3泊4日コースで参加した二人はこの夜が最後となるため、全員での晩さん会となった。スタローヴァヤなのでお酒は置いていない。自分たちで持ち込んでもよいと言われたが、不幸にも向かいのお店のレジが壊れていて、今日は売れないという。しかたがないのでクローバーハウスというショッピングセンターの地下にあるスーパー、フレッシュ25まで買い出しに出かけた。ここは24時間営業で何でもそろうので、お菓子などちょっとしたおみやげ品を買うにも便利なところだ。

 「ニ ルィダイ」ではペリメニ、蕎麦の実のカーシャ、極東地方特産のわらびの和え物や甘いものまでいろいろお皿に載せて、レジでお会計する。ヨーグルトのピロシキというのは初めて見たので、どんなものかと試してみたら、ヨーグルトというより甘酸っぱいクリームパンのようなものだった。みんなよく食べ、よく飲み、よくしゃべった。

 食事の後は勢いづいて、ウラジオストク駅の方向へアレウツカヤ通りを下り、右に入ったところにある、俳優ユル・ブリンナーの像まで全員で散歩した。名舞台「王様と私」のシャムの王様の格好で腰に手を当て、少し顎を上げ気味に遠くを見ているユルの前で、ハイテンションになった私たちは同じポーズで写真を撮った。みんなで笑い転げて、この一年で一番笑ったという人もいた。

 せっかくみんな打ち解けたのに、もう帰国する人がいるとは、3泊4日は短すぎる。しかも明日は飛行機が早いので、朝5時50分にはホテルを出発しなければいけない。正味2日しかウラジオストクを見ることはできなかったが、二人とも楽しかったと言ってくれた。二人が満足なら良かったと、心から安堵する。

 ホテルに帰るとフロントで、帰国する二人のために明日の朝食ボックスが手渡された。サンドイッチやヨーグルト、ジュース、ゆで卵など軽い食事がコンパクトに詰められていた。(つづく)

          

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2017年12月06日

2017ウラジオストクの旅 3

 <2日目 午後>

 

 ウラジオストクの駅前では民族衣装を着た女性が観光客との撮影に応じたり、州政府の政策に反対するデモが行われたりとにぎやかである。

 

 駅舎の中を見学する。待合室はそんなに広くはないが、天井にはウラジオストクの名所と、モスクワのワシリー寺院やボリショイ劇場などの有名な建物が反対称に描かれていて、ここからシベリア鉄道でモスクワまで鉄路がつながっていることを象徴している。ロマンを感じる、とても好きな光景だ。
 
 駅から中央広場に向かうと、週末だけの市場が開かれていた。ここでみんなとは解散して、それぞれに好きな方向へと進んだ。ドライフルーツや新鮮な野菜果物、魚まで売られている。日よけのテントがあるとはいえ、冷蔵設備もないまま並べられたこの魚は大丈夫なのか?とても生きが悪そうだ。

 
 沿海地方のハチミツはとても有名で、種類も豊富。特にлипа(リーパ=菩提樹)の花のハチミツは香りもよく、クリーミーでおいしい。市場では量り売りで買うことができ、値段も安いので、おみやげに最適であるが、重たいので帰りにもう一度寄ることにする。
 アレウツカヤ通りのカフェでランチをしてから、ドム・クニーギ(本屋)で本や文房具を買った。ニコライ2世凱旋門や潜水艦C-56博物館など海岸線を通って再び市場に戻り、先ほどのハチミツを購入。のどが渇いたのでクワス(黒パンを発酵させて作る微炭酸の飲み物)を買うことにする。
 実は私は夏の盛りにロシアに来るのは初めてのため、タンク車のクワスを買うのはあこがれであった。クワスは夏の飲み物でペットボトルや缶入りも売られているが、このほうがおもしろそうだ。
コップに2杯ください、と言ったつもりだったが、おじさんはおもむろに1リットルの瓶を取りだし、タンクから注いで行く!これが2本も来たら大変だ。やっぱり1本でいい、と断り、その瓶を持ち帰った。クワスは甘くておいしいのだが、やはり1リットルは多く、帰国前日まで部屋の冷蔵庫にあった。

 
 ホテルで一休みしたら、本日のメインイベント、マリインスキー沿海州劇場でのバレエ鑑賞に出かける。ここは2016年に、かの有名なサンクトペテルブルクにあるマリインスキー劇場の分館としてオープンした。ちょうどこの時、ロシアが誇る世界的指揮者ワレリー・ゲルギエフが芸術監督を務める国際極東祭が約1ヵ月にわたり開催中で、私たちは全員でバレエ「ジゼル」を観劇するのだ。
ホテルでタクシーを3台手配してもらい、黄金橋を渡って劇場に向かう。バスでも行けるようだが、街中をぐるぐる回るため時間がかかるのと、帰りの時間にはもうバスがないとの情報だったため、行きのタクシーに帰りも迎えに来てくれるよう頼んだ。タクシーは約束通りボンネットに「ヴェルサイユ」と書いた紙を掲げて迎えに来てくれた。

 
 チケットは函館にいる時から買ってあった。マリインスキー劇場のホームページからクレジットカード決済で買うことができるのだ。ロシア人の先生方に手伝ってもらい、座席も指定して10人全員が一列に並ぶ席を取っていた。値段は席にもよるが一人2,000ルーブルほどなので、日本よりずっとお手頃に楽しめる。

 日本でプリントアウトした、4人分がA4サイズの紙1枚におさまったチケットで本当に入場できるのか、実は少々不安であったが、そのまま窓口に出すと「切れ」とハサミを渡されたので、チョキチョキ切って各々に渡し、難なく入場することができた。

 

 劇場は新しく、とてもきれいであった。開演まで時間があったので、ホワイエ横のカフェスペースでシャンパンなどを飲み、 “ロシアの劇場でバレエ鑑賞”という雰囲気を存分に味わった。

 
 
 中に入ると大ホールは思ったほど大きくはなかったが、お客は満員であった。この日のソリストは中国遼寧バレエ団のバレリーナのためか、観客も中国人と思われるアジア系が目立った。バレエの出来を語れるほど詳しくはないが、手足の長いロシア人バレリーナたちを大勢従え、可憐な村娘を演じる中国人ソリストは見事であったし、他の踊り手たちも素晴らしい技巧で何度も何度も拍手が起きた。
 国際極東祭は今年2回目だそうで、ウラジオ市内でもたくさん看板を見かけた。プログラムにはゲルギエフが指揮をするオーケストラやオペラもあり、演奏者は中国・韓国・台湾のほか日本からもピアニストの辻井伸行氏が参加していたようだ。これもプーチン政権が極東開発に力を入れていることの一端であろう。

 
 劇場から出るとすっかり日も暮れ、今度はライトアップされた黄金橋を渡り、ホテルまで戻った。夕食をとり損ねたので、ホテルの向かいにあるお店でプロフ(炊き込みご飯)とビネグレット(ビーツのサラダ)を買い、部屋で食べた。

 
 
 今日も満足の一日であった。(つづく)

 

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2017年11月30日

2017ウラジオストクの旅 2

 <2日目 午前>
 ホテルヴェルサイユの朝食は8時から10時までの間、2階のレストランで自由にとることができる。食券もなければチェックする係員もいない。女の人がたまに食べ物を補充しにくる程度だ。メニューはアラディ(ロシアのパンケーキ)やカーシャ(オートミール)、パンのほか、チーズやハム、サラダ、飲み物など毎日変わり映えしないけれど、別にそれで十分だ。それよりも朝ここに来れば、必ず仲間の誰かがいてゆったりとお茶を飲んでいる、そんな安心感がある。私たちのほかには、日本人や欧米人のお客がちらほらいる。

 

 この日は夕方まで自由行動の予定であったが、ほぼ全員で街歩きをすることになった。天気は快晴。私たちは2011年に日本・ウラジオストク協会が発行した「浦潮日本人街散策マップ」を手に、ホテルからスポーツ湾のほうへ下りてナーベレジナヤ(海岸通り)を歩いた。
 バルコニーのように海に張り出したロトンダからはスポーツ湾を一望することができる。この下の海岸に沿う石垣は、かつて日本人抑留者が積み上げたものだという。今は観光名所になっているが、そんな悲しい歴史もある。
 そしてこのロトンダは2014年公開の映画「ホテルビーナス」のロケ地にもなった。日本人俳優たちがすべて韓国語のセリフをしゃべり、ウラジオストクで撮影した無国籍感漂う不思議な映画なので、機会があれば見てほしい。最後のクレジットには協力のところで“Far Eastern National University(当時の極東国立総合大学)”の名前も出てくる。

 

 それからまた地図を片手に、今度はアルセーニエフの家記念館を目指した。アルセーニエフは黒澤明の映画「デルス・ウザーラ」で知られている極東地方の探検家であり、彼が晩年を過ごした家が記念館になっている。

 

 レンガ造りの二階家の前にはアルセーニエフの胸像がある。案内のおばちゃんが3人ほどいて、入口で一人150ルーブル払うと、「ロシア語がわかるのは誰?」と聞かれたので、全員わかるから問題ない、と軽く嘘をついて、ロシア語で説明してもらった。私たちが質問もしながら熱心に聞くものだからおばちゃん(ちゃんとした学芸員さんだと思うが)は探検の道具から家族の遺品まで丁寧に説明してくれて、アルセーニエフが実際に旅で使った組み立て式のベッドも広げて見せてくれた。

 

 調査に使った道具が飾られる中に、ナナイ人の案内人デルスの写真もあった。映画の俳優マキシム・ムンズクはデルスに本当によく似ている。実はこの俳優の孫が以前極東大学で日本語を勉強しており、2010年に函館校に留学したことがあるのだ。当時その事実を知り、私たちは興奮した。「え、デルス(役)の孫!」、それでより一層デルスに親しみを覚えたのだ。
 小さな記念館だが、アルセーニエフの足跡がわかるとてもよい展示であった。
 
 

 そこから細い路地を抜けて、ウラジオストク駅の方へと向かう。鬱蒼と緑が生い茂り、洗濯物が干されるなど、裏道には人々の生活の営みが感じられる。

 道端ではおばあちゃんが果物やお花を広げて売っていた。(つづく)

               

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2017年10月13日

2017ウラジオストクの旅 1

 函館市とウラジオストク市が姉妹都市提携を結び25周年となる今年、極東大学函館校がロシア語市民講座受講生と函館日ロ親善協会会員に呼び掛け、有志による市民訪問団を結成、8月11日(金)から8月16日(水)の6日間の日程でウラジオストク市を訪れた
 訪問団を結成した経緯については学報「ミリオン・ズビョースト/百万の星 第93号」の巻頭言に掲載したが、ここでは旅の様子を詳しくご報告したいと思う。

*  *  *  *  *

<1日目>
 私にとっては8年ぶり、3回目のウラジオストクだった。
1回目は2005年7月、ウラジオストク市建都145周年記念「函館・ウラジオストク友好の翼」訪問団の一員として、当時ウラジオストク航空のチャーター便で函館空港から飛び立った。
 2回目は2009年10月、極東大学本学創立110周年記念式典に参加するため、函館市公式訪問団の一員として富山空港から20人乗りのプロペラ機で日本海を越えた。
 そして今回は成田空港からオーロラ航空に乗る。またまたプロペラ機だ。ちょっと狭くてプロペラの回転音もうるさい。機内ではソフトドリンクのサービスしかないけれど、前回の富山便に比べれば機体も大きいし、3時間弱の旅もまったく問題はない。

 今回の訪問団員は10名、プラス往路は函館からイリイン・セルゲイ校長も一緒だ。昨日は定時まで働き、函館空港から羽田行きの最終便に飛び乗った。品川で1泊し、朝、成田空港の出発カウンターでほかのみなさんと合流する。
 ロシアでクロテンを取材している作家の山口ミルコさんは1日早い便で行ったので、すでにウラジオストクに着いている。ミルコさんは今年2月のはこだてロシアまつりで講演をしていただき、その際「ウラジオに行きましょうよ」とお誘いを受けた。その時点ではまだ旅行は確定ではなかったが、「いや、実は8月に行こうと思っているんですよね」と答えると、わかりました、じゃあ一緒に行きましょう、という展開になった。こういう話をしても普通は社交辞令で終わるもので、実際に行けるとは思っていなかった。ところがミルコさんは本当に参加してくれた。
 

 という訳でミルコさんを除く9名の団員とイリイン校長を乗せたプロペラ機が成田空港を飛び立った。
今回の団員の中にはウラジオにはもう何度も行っている人、ロシアには行ったことはあるけれどウラジオは初めてという人のほか、人生初海外の人が2名いた。だから私は少し緊張したのであるが、それよりも何よりも楽しい夏休み、2月に「行こう」と思いついた旅が、こうして出発まで漕ぎ着けたことにとても満足していた。そして団員のみなさんともどもハイテンションであった。

 

 ウラジオストク国際空港は2012年のアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議開催を機に建て替えられ、とても立派になっていた。売店やカフェテリアなども充実し、以前の古くて狭いビルとは、ずい分違っていた。
 

 旅行会社の送迎車でホテルへ向かう。久しぶりに見る街の様子はそんなに変わっていないようにも見えた。途中、送迎車がガソリンスタンドで給油をした。普通はお客を乗せる前に満タンで迎えに来るのではないのか?と思ったが、ここはロシアだ。そういうこともあるだろう。
 金曜の夕方とあって道路は大変混雑していた。空港から街に向かう私たちとは逆に、週末のダーチャに向かう車で反対車線はもっと混雑していた。

 

 これから5泊するホテルヴェルサイユに到着。昔から泊まってはみたかったが少し高級なイメージがあったので、最初に旅行会社の方からここを提案された時は「高くないですか?」と少し尻込みしたのだが、第一希望のホテルは既に満室であったし、建物が古くなってきたので昔ほど高くないのだそうである。入ってみたら内装は格調高く、そんなに古びてもいなかった。場所的には中央広場から近くどこへ行くにも便利であり、サービスも行き届いている。とても快適なホテルであった。

 チェックインして各自部屋に荷物を置いてからロビーに集合する。先乗りのミルコさんとも合流し、10名の団員がすべてそろった。そこへ3年前にロシア極東大学留学生支援実行委員会の招へいプログラムで函館校に留学していたパニナ・ダリアさんが来てくれた。彼女は極東大学を卒業後、現在はウラジオストクで日本語ガイドとして働いているそうだ。実は滞在中、一緒にランチの約束をしていたのであるが、仕事が入り来られなくなったため、ひと目だけでもとホテルまで会いに来てくれたのだ。本当に5分ほどの再会で、また慌ただしく仕事に戻っていった。それほど忙しい中、わざわざ会いに来てくれてありがとう。勉強した日本語を使ってこのように活躍している姿を見るのは心から嬉しいものだ。

 

 さて、顔合わせも含めてこの日はホテル近くのグルジア料理店「ドゥヴァ・グルジナ」で夕食会を開催した。団員の友人で現在はウラジオストクの商社に駐在する方(しかも函館出身!)がレストランの手配をしてくださった。その方とイリイン校長、団員10名で一つのテーブルを囲み、一人ひとりが自己紹介をした。どうしてロシアに興味を持ったのか、今回の旅で何を目的としているのか、などなど。成田空港から一緒には来たけれど、お互いがまだお互いをよく知らなかった。

 

 今回の旅ではユニフォームとして、今年のロシアまつりで作ったミントグリーンのTシャツを着用した。まつりのテーマが「ウラジオストク」だったこともあり、このTシャツがぴったりだったのだ。
 ちなみにプラ板の手作りでツアーバッチも作った。これは函館の象徴・五稜郭とウラジオストクの象徴・ニコライ2世凱旋門が重なったデザインで、姉妹提携25周年を記念して25の文字をあしらっている。全員出発の時から滞在中はこのバッジを付けて臨んだ。

 

 レストランでは全員がおそろいのTシャツを着ていたので、ロシア人から見たらきっと異様だったと思う。けれど私たちはそれで一致団結して、お互いすっかり打ち解けた。ハチャプリ(チーズパン)、ハルチョー(お米の入った辛いスープ)、シャシリク(串焼肉)、そしてワイン。グルジア料理はどれも美味であった。
 

 ホテルまで、またプラプラと歩いて戻る。夜10時近いというのに人通りは多く、街に活気がある。レストランのすぐそばにはウラジオ出身のロックバンド「ムミー・トローリ」のバーがあった。ムミーのボーカル、イリヤ・ラグテンコは極東大学の出身であり、1999年に函館を訪れ、「日ロック」というイベントを開催したことがある。そのコンサートはNHKで全国放送もされた。ムミーは当時“ロシアのグレイ”と呼ばれたほど人気が高く、今でも健在だ。私たちはバーには入らなかったが、なかなかいいお店で、メンバーも時々訪れるという話であった。

 

 みんながみんな、高揚したまま部屋に戻り、荷解きをして明日からの本格始動に備えた。これから何が起こるか、とても楽しみだ。(つづく)


                

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子


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2014年06月17日

卒業生が浴衣で文化交流!

 ウラジオストク在住・卒業生の原田朋さんから写真が届きました。
 原田さんは在ウラジオストク日本国総領事館勤務のご主人と家族で昨年からウラジオに住んでいます。ご主人が文化広報担当ということで、原田さんも休日に文化交流のお手伝いなどをしているそうです。

 この日は同じく函館校の卒業生であり、現在極東大学本学で日本語講師として働いている小早川眸さんとともに、浴衣の着付けを行い、お茶会を開いたそうです。みんな、きれいな浴衣を着て嬉しそうですね!

 原田さんは「ロシア語をやっていて本当に良かったです。いろいろな人達と話ができて、誘ってもらえて、親子で良い経験してます!」と話しています。


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2013年11月18日

私のウラジオストク留学記

 私は今年9月から10月はじめまで、1ヶ月間留学をしました。この時期のウラジオストクは晴れる日が多くて、基本的に暖かく、とても過ごしやすい気候でした。留学先のロシア語学校の先生方も、寒くなる前に色々なところに行くようにと街の見所やイベント情報などを教えてくださり、街並と所々に見られる黄金の秋を楽しむことができました。
 滞在中、「トラの日」のパレード(沿海地方のトラ保護活動)や、中秋節のお祭り(中国のお月見)がありました。ロシア人は歌やダンスが好きな人がとても多く、いつも賑やかな街が一層活気づきます。
 函館以外からも日本各地から留学生が来ていて、それぞれのロシアやロシア語に対する思いを聞くことはとても興味深いものでした。また、仕事や研修でウラジオストクに滞在している日本人の方々と会う機会もありました。ウラジオストクでの子育てや日本食の調達など、苦労をしながらも楽しんで生活している人が多かったのが印象的です。
 私のクラスの授業は、8時30分に始まり11時40分に終わるので、その後は街の本屋を見て回ったり、博物館へ行ったり、色々な通りを散歩したりして過ごしました。歩いて行ける範囲に多くの施設があり、バスも一律17ルーブルという安さでとても便利ですが、それでもやはり1ヶ月では見切れなかった場所や、もう一度行きたい場所がたくさんあります。

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アルセーニエフ博物館入口

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博物館の展示

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街の市場

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路上アートのトラ

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プーシキン通りの猫


 中心部から少し外れた静かなプーシキン通りを歩き、写真を撮りながらプーシキンの詩や小説に出てきた単語を思い出すことは、とても贅沢で素晴らしい時間でした。

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プーシキン通り

プーシキン10.jpg
プーシキン通り


 授業は楽ではなく、復習と宿題をするのに毎日2時間程かかりました。授業中は、わからない単語の説明も勿論ロシア語でされるので、覚える単語数は日本での授業の2倍、3倍になり、復習を欠かさなければ、かなり語彙を増やすことができます。
 クラスメイトは日本人、韓国人、中国人で、スムーズにはいかないながらもロシア語で会話することが少しずつ楽しくなりました。
 ひとつ残念なことを挙げるとすれば、ロシアのマロース(厳寒)を体験できなかったことです。次は冬にロシアへ行き、雪や氷のある景色を見てみたいです。

新キャンパス.jpg
ルースキー島 新キャンパスからの夕景


ロシア極東連邦総合大学函館校 ロシア語科2年 永松 菜実


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2013年05月31日

ウラジオストク留学を通して

 ウラジオストクでの留学実習を通して、それまで情報としてだけ伝えられてきたロシアが、ぐっと身近に感じられました。
 街は、去年(2011年)の留学生の話よりも綺麗に改装されているように思えました。ただ、中心部から離れると、舗装されていない地肌のみの道などを多く見かけました。煉瓦造りの古い建物は、昔はたくさん残っていたようですが今では数も減ったようです。教会や氷に覆われた海など、様々な美しい景色を発見することもできました。


 生活面ですが、寮は日本に比べかなりの欠陥や不備がありました。寮母さんも人によって様々でした。寮で暮らしている留学生は日本人、中国人、韓国人が主でしたが、ニュースで見ていたような国際摩擦は全く見受けられず、むしろそれぞれが積極的に互いに声を掛け合っていました。

 学校(ルースカヤ・シュコーラ)の私が行っていたクラスの生徒たちは、どの人をとっても優秀で、宿題を毎日完璧にこなし、授業でも多く発言し、それ以外にも文化的活動(例えば劇やコンサート)があれば必ず見に行ったり、ロシア映画鑑賞クラブに参加したりなどしていました。

 クラスの年齢層は、私と同い年くらいの20代前半の子から、社会人の方まで幅広く、授業を介して様々な意見を交換しました。先生方は、ロシア語の教授法に精通しているだけでなく、様々な角度から話題を広げていきました。
 ただロシア語を単体で学ばせるのではなく、色々な分野の題材を取り上げていて、とても興味深い授業を毎回行ってくれました。市内博物館の見学やカフェへ連れて行ってくれる先生もいました。そういった授業を通して、ウラジオストクの歴史や耳寄り情報を得ることができ、生活の幅も広げられましたし、何より生徒と先生のあいだで良い雰囲気をつくっていこうという姿勢が伺えました。

 今回の留学は自分にとって大きなインプレッションになりました。日本とロシアの違いをたくさん肌で感じられ、ロシアのカルチャーをもっと知りたいという原動力となりました。
(2012年10月から2013年1月まで留学)

ロシア極東連邦総合大学函館校 ロシア地域学科4年 加藤 奈美

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2013年02月06日

3か月の留学を終えて

 3か月のウラジオストク本学への留学は、私にとって初めての海外長期滞在でした。これまで旅行や、短期での留学は経験したことがありますが、3か月、しかも行先はロシア、ということで行く前は期待と不安が半分ずつ、といったところでした。 
 終わってみれば…あっという間でした。3か月という期間は何をするかによって長いか短いかが人によって感じ方は違うと思いますが、私にとっては本当に、1か月位しかいなかったのでは、と思うほどの密度の濃い時間を過ごすことができました。
 
 留学していて一番刺激的だったのは、「ロシア語を学ぶたくさんの人」に出会えたことでしょうか。学校にはいろいろな国の人がいます。中国人、韓国人、北朝鮮人、イギリス人、ベトナム人…それぞれが、各々の目的でロシア語を学んでいます。
 驚いたのは、ロシアに来て初めてロシア語を学び始めたというそんな人たちでも、既にぺらぺらとまるで不自由なく話しているのです。なかにはロシアにきてからロシア語を勉強し始め、わずか2年間でテルキ2級をとったという強者もいます。
 そのような意欲的な学生がいるクラスで学べたことは時に大変な思いもしましたが、刺激され、切磋琢磨でき、留学してよかった!と思える一番良い思い出になりました。(H24年10月~12月留学)

ロシア極東連邦総合大学函館校 ロシア語科2年 平岩 史子

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2013年02月01日

取り越し苦労

 ロシア語の勉強を始めて昨年で3年目でしたが、本当にロシア語を習得できているのか、正直、日頃から不安に思っていました。そして今回の留学は日本でロシア語を学ぶわけではなく、ロシアでロシア語を学ぶわけですから不安の方が大きく、緊張しっぱなしでした。しかし、いざウラジオストクへ着いてみると、わかりやすい授業や、親切な寮母さん、楽しい町が私を待っていて、そんなことを考えていた自分が恥ずかしく思えました。
 学生寮での暮らしは苦労もありましたが、とても楽しく過ごすことができました。到着した初日から、部屋にゴキブリが横たわっていて大騒ぎしたのは良い思い出です。シャワーの水が氷のように冷たかったり、お湯が鬼のように熱かったり、上下左右の部屋が夜遅くまで騒がしかったり、窓を開けると鳩が集まったり、と色々ありましたが、毎日笑って過ごせました。

 ロシアでは、授業や街の中で一度もロシア語で困ることはありませんでした。今まで勉強してきたものは無駄ではなかったんだなぁ、と実感する留学でした。可能であればまたロシアに行きたいです。そして行ったことのない場所に行き、身に着けたロシア語を駆使して多くの人と出会ってみたいです。 (H24年10月~12月留学)

ロシア極東連邦総合大学函館校 ロシア地域学科3年 鍋谷 真依

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2012年12月13日

日本語講師デビュー

 今年3月に函館校を卒業し、10月からウラジオストク本学で日本語講師として働き始めた小早川眸さんから便りが届きました。今後もときどき日本語講師として奮闘する姿やウラジオストクの生の様子を伝えてもらいますので、どうぞお楽しみに!

*  *  *  *  *

 こんにちは!卒業生の小早川です。
 極東大学を卒業して早9カ月(現在)、ロシアに来て2カ月が過ぎようとしている今日この頃。そう、私は今、ウラジオストクにいます。
 ウラジオストクで何をしているかといいますと、極東連邦総合大学本学の東洋学部日本語学科の新米教師として働いています。カッコよく言えば、大学の先生をしています。
 どんな風かと聞かれれば、新米ゆえに右も左もわからず、フレッシュで刺激的で緊張感のある日々が続いております。私を除く教師陣は、日本語教師歴ウン年のベテランの方々ばかり。学生のレベルも教材選びもわからない私に、どんな小さなことにも丁寧で適切な助言をしてくださいます。本当に助けてもらっています。
 例えば、いつも悩んでいることですが、「こんな授業がしたい」「こんなことしたい!」なんて理想的な授業のイメージがあったとしましょう!続く質問は、それをどうやって授業に盛り込もうか?見せ方や出し方はどうするか?教えるのは何か、教えたいのは何か?質問の出し方は目的によって変わってきます。
 さらに!どんな風に教えるのか?たとえば、ペアワークにするのか、グループワークにするのか?はたまた一問一答にするのか?答えさせないで練習問題にして書かせることだってできます。授業をどう面白くするか、わからないことを少なくするためにはどうすればいいか…。などなど、もう考えれば考えるほど選択肢も増えてきて、その中から選ばなければなりません。先生として勉強しなければいけないこともたくさんあるので、頭の中は忙しいです(笑)
 でもそれは私にとってすごく楽しいことなんですよ!そして今の私の担当は1年生3クラス(1クラス10人程度、3クラスで30人弱? ?)を教えています。
 そうです1年生!い・ろ・はの「い」すら知らない1年生を教えているんです!ひと月前に彼らはひらがな、カタカナを覚えたばかり。私のクラスはとりわけ会話を中心に教えるのですが、なんと言っても日本語で説明しようにも、彼らは日本語の初心者です。
 私のロシア語で文法なんぞ説明できるわけがありませんので、だいたいは日本語で教えています。理解しているかどうか、ちょっとそこが心配です。ここは難しい所ですが…とりあえずは、「習うより慣れろ」というスタンスで様子を見ています。
 ちなみに次は「どこどこへ何番のバスで行きます」のフレーズを使う授業です。簡単にいえば、行き先と手段が伝えられればオッケーなんです!学生たちにはウラジオストク市内のバスの案内プロフェッショナルになってもらおうと考えています。市内の様々な場所からいろいろな所へバスで行ってもらうシミュレーションが出来たら実用的でいいですよね。
 旅行のガイドとして働く学生も多いと聞くので、将来必ず使えるフレーズになると信じています (ちなみにウラジオストクのバスは番号によって運行ルートが違います)。
 さて、このネタをどうやって膨らませていくか、明日はそれを考える日になりそうです。こんな感じで先生をやっています。一歩一歩ですが、授業についていつも考えつつ、良い先生を目指しています!


極東連邦総合大学 日本語講師 小早川 眸

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2011年12月19日

工事現場ではハングルが

 町の至る所で工事が行われている。主に道路工事と建物の外装工事。

 道にパネル状の敷石を並べたり、切ったりしているのはロシア人ではない。現場で指示しているのも普通はロシア人ではない。外装工事の為に足場を組んでいるのはロシア人ではない。外壁の古いタイルを剥がしているのも、下でヘルメットをかぶって指示しているのもロシア人ではない。第一、作業員はヘルメットも安全ベルトもしていない。

 ロシア人はどこに居るのか。時々、ネクタイ、背広姿の人がやってきて、迷彩服を着た現場監督らしき人と何やら話をしている。いました、ロシア人。トラックで資材を運んで来る人、ロシア人。ユンボの上に居る人、ロシア人。現場では何かそれなりの資格を生かして働いているか、役人か、ともかくあまり危険でない所に身を置いている人、それがロシア人。

 後で知ったことだが、韓国からの留学生は工事現場の人と話をしないとの由。北の人と話すのは危険らしい。

 ロシア人はいわゆる“3K”の現場にはあまりいないようだ。資源を売ったお金で、外国人を雇い、外国の製品を買って暮らす生活習慣を身に付けたらしい。はて、この国でいわゆる製造業は育つのだろうか。スーパーに並んでいる商品は中国製、韓国製、日本製が多い。街で見かける車は、ほとんどが日本製と韓国製と、たまにドイツ製。ウラジオストクに自前の自動車工場ができたらしいが、それはどこを走っているのだろう。自国の製品を買わせることまでは強制はできまい。
 市民はしたたかに生活している。特に女性は身を美しく見せることに多くの神経を使い、デコボコ道でもかかんにハイヒールで闊歩している。他人に合わせようなどとは考えていないらしく、美しく自己を表現している。実に魅力的だ。
 一ヶ月の間に、工事現場のハングルと女性のハイヒールの音は、私には、あまり違和感なく響き始めた。

ロシア極東連邦総合大学函館校 ロシア語科2年 畠山 重人

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2011年11月28日

ウラジオストクが生まれ変わる日も近い?!

 来たる2012年APEC首脳会議開催のために、ウラジオストクはマッハで工事を進めている。
 町中は工事で大忙しで、橋の建設に始まり、道路整備に建物工事、公園、教会建設、果ては大学、寮の中まで大改装が行われている。留学中にはこの工事についてさまざまなウワサを耳にすることができた。
 工事が一体どんなものなのかわかっていただくためにも、ここでいくつかを紹介しよう。


1.ウワサによると外国人労働者に任せているのは市の予算が足りないためであるらしい。
 だが同時に修理、建設事業は今儲かってる仕事であるらしい。見て取れる現場は10代から果ては60代くらいまでの男性労働者ばかり。彼らのほとんどが北朝鮮人、中国人、それから出身地不明の浅黒い顔立ちのアジア人ばかり(ただし、彼らの顔立ちが少し西欧風なので中央アジアから来たのではないかと勝手に推測) 。
彼らがランチタイムに工事現場の端で固まって小さなピロシキを食べていたのを今でも覚えている。

2.ウワサによると工事はまったく順調に進んでいないらしい。
 写真が11月後半の工事の様子である。冬のロスタイムが痛いところである。


3.ウワサによると2012年のAPECが終わった後、ルースキー島に大学は移らず、カジノが出来上がるらしい。
 みんなが嬉しい。ただし法律上ルースキー島にカジノが建てられればの話であるが…。

4.ウワサによるとここでは韓国人と北朝鮮人の奇妙な遭遇が起こるらしい。
 というのも建設作業員達の一部は北朝鮮人である。ロシア語学校には韓国人も多いので、彼らとこんなに普通に会うことができると、色々と複雑な心境もあるのではないかと思う。


5.ウワサによるとウラジオストクの風の強さに、冬場の橋の上は危なくて渡れないらしい。
 心なしか11月後半になり、風も強くなってきたような…。だから冬場は島に缶詰だといわれている。

6.ウワサによるとウラジオストクの渋滞は昔からで、工事との関係はあまりないらしい。
 もともと坂が多く道路の作りが狭い町であることから、単に車が増えたことによる純粋な交通渋滞なのではという意見である。


7.ウワサによるとルースキー島に大学が移るなんてことは、学生も先生も誰も信じていない。
 大学を統合したこともあり、あまりにも組織の人数が多すぎて無理なんじゃないかという人も多い。少なくともみんながそこで生活できるまでには時間がかかるだろう。

8.ウワサによると橋の建設の現場見学ツアーを市役所で申し込むことができるらしい。
 行ったという人の話を聞いたことがないので、本当にあるかどうかはわからない。


 あと少し、この工事による身近なところの風景がどんなものなのか、書き記そう。まずは想像してみてほしい。日本だったら天幕の中でひっそりと行われている秘密の工事。こちらじゃ歩行者やら走っていく車やらの数センチ横で行われている。

 道を歩けば工事中のパイプに足をとられ、コンクリートの床はあちこちが陥没。信号機はかなりの気分屋で青信号の標識時間は99秒から15秒とランダム。1秒を1秒で刻むこともなく、99秒が10秒もせずに切れることも実によくある。怠け者の信号機は午後から仕事をサボり、電源すら入っていないことも多い。
さらに工事のせいだといわれている渋滞が朝から夕方まで絶え間なく続く。


 歩道工事と建物の塗装が同時に行われているので、歩行者の道は恐ろしく狭く険しい。そこで私たちは渋滞の車列が停滞する車道を歩かざるを得ない。時に道の反対側へ渡るときは、車と人間の間のチキンレースの様なもので、常に命を懸けて渡りきるのである。


 今のここは無秩序といっていいのか、ワイルドと簡単に言い切ってしまえば終わるのか。本当にそんな場所である。
 しかし、私はこの世紀末的な雰囲気がとても大好きなのである。私だけではない、私の友人たちも大半は魅了された。言ってみれば、これはまさにまるでSF映画の世界にいるようなものだから。しかし、現実問題このすべては来年のための大掛かりな準備なのである。つまり、どんなウワサが流れても工事は完成せねばならないのだ。
頑張るんだ!急げ!ウラジオストク!

ロシア極東連邦総合大学函館校 ロシア語科2年 小早川 眸

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2011年11月17日

ルースカヤ・シュコーラ

 ウラジオストクに着いてはや2ヶ月が過ぎ、もうあと2週間しか残っておらず。日にちを数えれば、その少なさに泣きたくなる毎日です。  今更ですが私の生活について話したいと思います。まず今日は私の通っているルースカヤ・シュコーラ(ロシア語学校)について話してみたいと思います。

 この学校はロシア極東連邦大学の敷地内にある第一学生寮の隣にあります。簡単に言えば1階からつながっていて、今は寮と学校がひとつの建物であると言ってもいいでしょう。
 さて、ルースカヤ・シュコーラはロシア語を外国人が学ぶための学校で、年齢国籍問わず誰でも勉強できる学校のようです。来ている留学生は多い順に中国の北部、韓国、日本で、他にも数人ずつですが北朝鮮、インド、インドネシア、アメリカ、アフリカからの留学生もいます。
 彼らのほとんどが母国の大学でロシア語を勉強している学生であるか、メジャーは違えどもロシア語を短期集中型で学びにきている学生か、それとも極東連邦大学の大学院または学部への入学を目指す学生かに分かれます。
 その他は社会人で仕事のために学びにこられている方です。特別な例で一人だけ、趣味で学びに来ている60歳くらいの元気なおじいさんもおります。
 
 クラスの数も生徒の数も時期によってバラバラで、今は私が来た9月よりも留学生が多くなった気がします。振り分けはテストによって初日に行われますが、クラス替えは(交渉次第ですが)直ぐに変えることが可能です。
 クラスは8時から11時10分の早朝クラス、9時40分から1時までのちょうどいいクラス、そして11時20分から15時までの一番遅いクラスの3種類があります。時間によってクラスのレベルがあるわけではなく、どの時間帯にもレベル分けのクラスが用意されています。そしてそのレベルですが特にこれといった差はなく、中の上と下がある感じなだけで、どちらかというとクラスの質はクラスメイトの勉強意欲と人間性に左右されるところが大きいです。
 私の場合、授業は11月に入るまで毎日8時から11時までの一番早い時間割り当てのクラスにいました。レベルで言うと中級クラスだったようです。
 
 それでも授業は簡単で、宿題に10分もかかっていなかった気がします。教科書を見ても知らない単語というのが少なかったので。
 もしかしたらレベルが合っていなかったのかもしれません。ついクラスの雰囲気が良かったので留まってしまいました。
 個人的には函館校で1年半勉強した学生は中級の上のクラスで勉強するのがちょうど良いのではないかと思います。ただ、難しい文章を読むよりも、日常会話を集中的に勉強したいのであれば中級から入ってもいいと思います。そこは函館校の学生でも弱い部分なので。

 8時からの授業は、はじめはつらかったですが、11時に授業が終わるのであとの一日が充実して過ごせていた気がします。今は11時から15時までの一番遅い午後の授業割り当てです。
 2ヶ月間8時からだったもので、今、慣れるのに苦労しています。クラスも難しいものに変わり、今ではわからない単語が「知っててあたり前です!」というくらい自然に教科書に出てきます。そしてクラスメイトの単語の知識にはびっくりさせられることも多いです。日常会話で安心しきっていたところですが、やはり語学の奥は深い。
 慣れてきたころの3ヶ月目。クラスメイトに刺激されてあせる自分。なかなか良い環境です。

ロシア極東連邦総合大学函館校 ロシア語科2年 小早川 眸

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2011年03月08日

短い留学期間で学んだ、たくさんのこと

 4ヵ月間、ロシアのウラジオストクという町に留学してきました。短い期間でしたが、いろいろな経験を得ることができました。もちろん良い意味でも、悪い意味でもですが。
 驚いたことにカルチャーショックはほとんどといっていいほど受けませんでした。ただ一つ、夏によく起きた断水くらいです。

 私は、函館に留学したロシア人の友達や、現地でできた友達などとよく遊びに行きました。バーへ行ったり、映画を観に行ったり、海へ行ったり、暇を感じることは4ヵ月間で1日たりともありませんでした。
 寮に住んでいたのですが、その中でもたくさん友達ができ、みんなで一緒にご飯を作ったり、パーティーをしたり、毎日が新鮮でした。睡眠という行動を忘れ、目の下のクマが異常なほどきれいなスカイブルー色になったことも、今となれば良い思い出です。

 本学(ДВФУ)の先生たちはとても優しく、私たちをとっても気にかけてくださいました。ホームシックになった時、いつも私の顔色で気付き、励ましてくださいました。本当にお母さんのようにかわいがってくれました。
 日本に帰り、ずっと会いたかった母にやっと会え、感動で少し泣きそうになった時、本当のお母さんが発した第一声は、「うわー、太ったね。」でした。理想と現実の差を思い知りました。

 4ヵ月間、私自身たくさん、ロシアの影響を受けました。感謝の気持ちを素直に言えるようになったことや、大切な人たちの愛し方など、いろいろ学びました。多分周りから見ると気持ち悪いのかもしれませんが、いいんです。多分ロシアの文化で一番好きなところは、大切な人や家族を無条件で愛し、信頼し合うところです。私にとってこの留学は、掛け替えのない思い出です。たくさんの大切な人たちと出会い、いろいろなことを学び、いろいろな経験ができました。

 あれ、ロシア語の学習については何も書いていないじゃないか、と思う方もいると思いますが、正直言うと、向こうで机に向かって勉強した覚えはありません。自分の中で、生きた会話を修得したいということが留学前の目標だったので、極力ロシア人の友達と外に遊びに行ったり、話したりしていました。誓って、勉強しなかった言い訳ではありません。
 いろいろな人に支えられ、過ごした留学生活、とっても楽しかったです。
 ОБЯЗАТЕЛЬНО ВЕРНУСЬ(I’ll be back)!

ロシア極東連邦総合大学函館校 ロシア地域学科3年

森 谷 美 里

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2010年10月20日

ロシアで感じたアジア三カ国

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 ウラジオでの生活は、一言で言えば“アジアとの交流”。何故ウラジオで?そう思うかもしれないが、私は1カ月だけの留学期間を、日本人との交流を少なくし、なるべく多くの外国人と交流を持とうとした。

 中でも中国人のルームメイト、韓国人の友達とは、毎日ずっと一緒にいた。“同じ釜の飯を食う”ではないが、朝ご飯以外はいつも一緒に食べたし、授業後は皆でどこかに行ったり、たわいもない話で夜を過ごしたり・・・。本当に友達以上であり、家族同然の仲間になった。

 彼らと常に共にしている時間が多ければ多いほど、彼ら自身から見てとれる“その国”を感じる事ができたし、きっと私からも“日本”という国が見てとれたのではないかと思う。例えば、日本の炒飯は、ご飯と玉子を一緒に炒めるのが普通だが、中国流は、玉子を初めに炒め、フライパンから取り出し、次に野菜を炒め、取り出し、最後に全部を一緒に炒める、という方法。韓国人に至っては、“パリパリ(早く早く)文化”なので、中国人のやり方にもどかしさを感じていた。

 夜ごはんが終わると、毎晩皆でいろいろな話をした。話の多くは将来の話。各国共通していたのは、やはり“就職難”という現実。やりたい事があってもさせてくれない社会。国は違えど、同じ悩みを持つ者同士であった。話していると、まだ10代、20代なのに、しっかりした考えを持っていて、“果たして今の日本の若者はここまで考えているのだろうか?”と、日本人として恥ずかしい時間でもあったし、私達には、まだ多くの可能性があることも実感した。

 今までいろいろな国でロングステイを経験しているが、ここまで帰りたくない事はなかった。新潟に着いても、心にぽっかり穴があいたような空虚感。帰国をして数日しか経っていないのに、何回電話をしただろう。何回会いたいと、淋しいと思っただろうか。
 彼らが私に与えてくれた1カ月間はかけがえのない思い出になり、彼らは私にとって大切な大切な宝物になった。そして、世界にいる、会いたい、会わなければならない人が、また増えた1カ月間であった。

ロシア極東国立総合大学函館校 ロシア語科2年 山 上 真 季

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2010年08月25日

今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅲ

 日露戦争後の10年間は、日露関係の「黄金時代」と言われました。しかし、その後、第一次世界大戦、ロシア革命、国内戦争、そして日本をはじめとする米・英・仏・伊など連合軍によるシベリア出兵があり、さらに時代が下り、1930年代半ば以降になると、スターリンの粛清の嵐が吹き荒れ、ウラジオストクで商売をしていた日本人は次々と引揚げてゆきました。1937年には極東大学の東洋学者がいっせいにスパイ容疑で逮捕され、1939年、同大学はついに閉鎖に追い込まれてしまいます(1956年再興)。最後まで残っていた浦潮本願寺の住職(1937年引揚げ)、そしてついには日本総領事館の館員も終戦の前年の1944年にはウラジオストクを後にしました。

 ソ連時代閉鎖都市であったとのイメージが強いウラジオストクですが、閉鎖都市となったのは、1952年のことです。外国人の立ち入りは禁止され、一般のロシア人も立ち入りが制限されていました。函館市が市制施行50周年を迎えた1972年(昭和47年)、函館市は「市民の船」(ソ連船籍)を仕立て、300人近くの市民がソ連を訪問しますが、この時訪問したのは、ロシア極東で外国人の立ち入りが許可されていた港町ナホトカとハバロフスクでした。
 ソ連市民には、ペレストロイカ時代の1989年に、そして外国人に開放されるは、ソ連邦崩壊の翌年、1992年のことでした。同年、市制施行70周年を迎えた函館市は、ウラジオストク市との間で7月28日、姉妹都市提携を結びました。そして提携10周年に当たる2002年には、市立函館博物館とウラジオストクにある国立アルセニエフ博物館との間で博物館提携が結ばれました。また、1994年4月には、ウラジオストクにある極東国立総合大学(ソ連時代はロシア極東地域にある唯一の総合大学。現在、学生数4万人を抱える。)の分校が函館に開校しました。現在、函館とウラジオストクの交流は、市、博物館、大学と、様々なチャンネルを通して活発に行われています。



写真 拡幅工事が進む空港から街への道路(2010年7月 倉田撮影)
 最後に、去る7月初め、建都150周年を迎えたウラジオストク市に函館市の公式訪問団の1員として記念行事に参加してきた際に街から受けた印象をお伝えして、締めくくりたいと思います。
 2012年のAPEC(アジア太平洋経済会議)の開催地に決まったウラジオストクでは、市街地から30キロほど離れた空港から街までの道路の拡幅工事、金角湾横断橋、そしてAPEC首脳会議の会場となるルースキー島への横断橋の建設など、大規模なインフラ整備が進んでいます。空港から街に向かう途中、右手にあった森の木々がほとんど伐採されてしまい、アムール湾が遠く見渡せるようになった様には驚かされました。そしてこれまで何度も計画倒れで終わっていた金角湾横断橋建設が、現実のものになろうとしています。ウラジオストク市民の悲願でもあり、完成すればウラジオストク名物の車の大渋滞が解消されるに違いありません。ただし、建設中の今は、大渋滞をさらに増長させているようで、渋滞のひどい市内中心部では、路面電車を走らせないようにしています。

 戦略的に重要なアジア太平洋地域との関係強化を目指すロシアの動きには、今後も目を離せません。しかし、政府のテコ入れで大きく変貌しようとしているウラジオストクの表面的な姿にばかり目を奪われるのではなく、150年に及ぶ歴史の光と影、さらには函館との古くからの接点にも目を向けていただきたいものです。そこで初めてウラジオストクの底力や真の魅力を実感することになるでしょう。

函館日ロ交流史研究会世話人

日本・ウラジオストク協会北海道支部長 倉 田 有 佳

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2010年08月10日

今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅱ

 開基間もない頃のウラジオストクと函館の接点を持つ人物をロシア人と本人、各1人ずつ紹介します。まずロシア人では、ニコライ・マトヴェーエフの名を挙げさせていただきます。ニコライ・マトヴェーエフは、1865年(66年説もあり)函館で生まれました。1861年に箱館のロシア領事館付司祭として着任したニコライ(ニコライは、東京お茶の水の「ニコライ堂」の名の元になった人物)によって洗礼を受けた「日本で生まれた最初のロシア人」としても知られています。ニコライ・マトヴェーエフの父親のピョートルというのは、箱館のロシア病院の准医師をしていました。ロシア海軍病院のことですが、日本人に対しても無料で治療しており、北海道初の日本人職業写真家として知られている田本研造の脚の切断手術をしたのは、父親のピョートルだったとされます(桧山真一「ニコライ・アムールスキイ日本におけるロシア人召使」『地域史研究はこだて』第18号)。
 ニコライ・マトヴェーエフは、幼い頃に両親を亡くし、後にロシアに戻り、ウラジオストクでジャーナリスト、詩人として活躍したほか、市の行政に関わる人物となります。たいへんな日本びいきとしても知られており、浦潮本願寺の布教場を建てる際には、そのための用地獲得に大いに尽力したと言われています。ロシア革命後は日本に亡命し、1941年に神戸で亡くなるまでの約20年間、関西方面でロシア語書籍商として生き、日露間の文化交流に努めました。お墓は、神戸の外国人墓地にあります。

写真 小島倉太郎(市立函館博物館所蔵)
 一方、函館とウラジオストクを結んだ日本人としては、小島倉太郎がいました。小島倉太郎は、江戸幕府の箱館奉行所の足軽の息子として1860年函館近郊で生まれました。父親の転勤に伴い、日露雑居時代の樺太(1875年の樺太千島交換条約締結以前のサハリン)のクシュンコタン(大泊、現在コルサコフ)で育ちました。幼い頃にロシア人商人パヴルーシンの下に預けられ、ロシア語を習い、東京外国語学校の最初のロシア語生徒の一人となり、卒業後は開拓使に就職し、役人として対露関係の仕事をしていました。1890年に遭難したロシア東洋艦隊輸送船「クレイセロック号」の航跡探索の際には、ロシア海軍軍医ブンゲとともに探索した功績によって1894年にアレクサンドル3世からスタニスラス第3等勲章を受勲しました。

 倉太郎は役人として活躍しただけではなく、「ウラジオストク新聞」の初の外国人通信員として、自ら執筆した記事を投稿し、「ウラジオストク新聞」の記事から翻訳したロシアの情報を「函館新聞」に載せるなど、日ロの架け橋的存在ともなったのです。惜しまれることには、1895年に35歳の若さで病死しました。なお、小島倉太郎関係の写真(アルバム)や資料は、市立函館博物館が所蔵しています。

 そして函館とウラジオストクの関係を語る上で、必ずご紹介しておきたいことは、1908年、地元の商工 会が寄付集めをするなどの支援を受ける中、函館商業学校の学生39名が、夏休み期間を利用してロシア語の実地を兼ねた商工業調査のためウラジオストクを訪問したことです。現地では、学生たちは片言のロシア語を使って買い物し、商店や日本領事館で商工業調査を実施しました。ドイツ人が経営する一等商店クンスト&アリベルス商会では(メインストリートのスヴェトランスカヤ通りに建つ建物は、現在も百貨店として使われている)、商品の陳列方法のうまさや店員が親切で接客態度が迅速であることに驚き、この店に電動式のエレベーターが備わっていることが「感嘆に堪えない」などと、先進技術に触れた率直な印象を報告書に書き記しています。たった2日間の滞在ではありましたが、函館の将来の商工界を担う函商の学生にとって、ウラジオストク訪問は貴重な体験となったに違いありません。

 ウラジオストクからは、現在の極東大学の前身に当たる東洋学院(ここでは、中国・朝鮮・モンゴル・日本といった隣接するアジア諸国の言語を実地に使いこなせる人材育成を目指し、1899年に設立された)、1902年、ロシア人学生アレクセイ・コヴェリョフが函館に研修に訪れました。つまり、相互往来があったというわけです。

函館日ロ交流史研究会世話人

日本・ウラジオストク協会北海道支部長 倉 田 有 佳

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2010年08月04日

今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅰ

 今年7月、ウラジオストクは、開基150年を迎えました。そこで、「開基150年を迎えたウラジオストクと函館の交流関係」についてまとめてみました(参考:原暉之著『ウラジオストク物語』三省堂、1998年)。
 まず、ウラジオストクの概要ですが、中国、北朝鮮と国境を接する沿海地方の主都で、統計上の人口は約60万人、極東最大の都市です。水産業,鉱業,木材加工業、港湾や空港が発達した交通の要衝で、太平洋艦隊総司令部の所在地として知られています。ウラジオストクは、北に700キロほど離れたハバロフスクと良く比較されますが、ハバロフスクが極東連邦管区の本部が置かれたロシア極東の政治の中心地であるのに対して、ウラジオストクは、ロシア極東の経済、文化の中心地と言って良いでしょう。
 
 ウラジオストクは、海と小高い丘に囲まれた坂の多い街で、地形的に函館とよく似ています。港町特有の活気に溢れており、加えて、街には極東大学、極東工科大学、ウラジオストク経済・サービス大学などと、多くの大学や研究機関が集中しているため、街を歩いていると若者の姿が目立ちます。メインストリートには、ヨーロッパ風の重厚で美しい石造りの建築物が立ち並んでいるため、ウラジオストクを訪れる日本人の多くが、どことなく親しみやすく、それでいて文化の薫り高い「美しい街」だといった印象を持つようです。
 私自身にとってのウラジオストクは、1998年から3年間、日本の総領事館の専門調査員として勤務した地であり、極東大学の先生や博物館の学芸員の中には、今なお親しくお付き合いいただいている人たちもいるため、この街には、人一倍強い愛着を感じています。

 さて、ウラジオストクの街の歴史は、まだ150年と比較的新しいものです。150年前と言えば、函館が貿易開港した1年後のことです。1860年7月2日、ロシアの軍用輸送船「マンジュール号」が金角湾に到着した日がウラジオストク開基の日(誕生日)です。同年11月、北京条約が結ばれ、中国(清朝)とロシアの共同管理地であった現在の沿海地方に相当する地域(ウスリー川以東、アムール川以南)が、ロシアの範図に加わりました。それまでは、中国人から海參崴(ハイサンウエイ=「ナマコ湾」、「ナマコの生息する険しい断崖の地」)と呼ばれ、中国人が夏場に海産物を取るために番屋を構える程度の場所でしかありませんでした。

 開基直後のウラジオストクは、周囲に大きな街もなかったため、函館まで食料品を買い付けにきた船(「グリーデン号」)があったことが当時の記録からわかっています。また、函館から煉瓦などの建材が、初期のウラジオストクに運ばれていったようです。

 ウラジオストクに哨所ができる以前のロシア極東の拠点は、アムール川河口に位置するニコラエフスク(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)でした。ここは、11月から翌年4月までの半年間、港が凍結し、船の出入りができませんでした。一方、ウラジオストクは、深い入り江を持つ「天然の良港」で、しかも、ほぼ1年を通じて不凍港という、ロシアにとって戦略的に非常に大きな魅力を持ちあわせた場所でした。時の皇帝ニコライ一世は、ここを「ヴラジェイ ヴォストーコム」(「東方を支配せよ」)と命名します。これがウラジオストクの語源です。

ウラジオストクの最初の民間人ヤコフ・セミョーノフ像(2010年3月倉田撮影)
 ここに民間人も暮らし始めるのは1870年代以降のことで、1875年に市制が敷かれました。帝政ロシア時代の首都サンクトペテルブルグから1万キロも離れた極東の地に、人を定着させ、安定的生活を確保するのは容易なことではありませんでした。そのための策として採られたのが、1909年までの約40年間続いた自由港(ポルト・フランコ)制で、アルコール類の一部を除き、関税はかけられず、商売も自由に行われました。そのおかげで、20世紀初頭のウラジオストクは、ドイツ人、近隣からの中国・朝鮮・日本人など、外国人が多数暮らす国際都市として栄えました。


 外国人の中で最も数が多かったのは中国人で、肉体労働(苦力)に就き、この地に移住した朝鮮人はウラジオストク郊外で農業を営み、日本人の場合は、初期の頃は大工、左官、洋服仕立、靴職などでしたが、日本人が増えるに従い、米・味噌・醤油を扱う商店、旅館、日本料理屋、洗濯屋、銭湯、写真屋など、日本人相手の商売を営む人が中心となってゆきました。大半は、長崎をはじめとする九州の出稼ぎ労働者で、女性は、いわゆる「からゆきさん」でした。20世紀初頭には、最大で3000人とも5000人もの日本人が暮らしていたと言われており、領事館、日本人学校、西本願寺系の浦潮本願寺が開設され、日本と変わらぬ生活が営まれていたのでした。そして日本人は、親しみを込めて、「浦塩」あるいは「浦潮」の名で呼んでいました。

函館日ロ交流史研究会世話人

日本・ウラジオストク協会北海道支部長 倉 田 有 佳

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2010年07月28日

ウラジオストク訪問記 6

<6日目>
 韓国でのトランジットは、本当に便利だ。日本を脱出するために、函館から富山まで国内移動をした往路のことを思えば、復路はソウルで1泊してゆっくり函館に到着することができる。韓国経由でウラジオへ行き来する人が増えているのも納得だ。
 朝起きて、すぐに空港に向かい、チェックインを済ませてから朝ごはんとなる。趙さんは気を利かせて、日本食を用意してくれていた。焼き鮭にお味噌汁の定食、だが海苔だけは、ゴマ油のついた韓国海苔だった。
 飛行機に乗るまでの1時間、自由行動となり、分散する。私はとにかくコーヒーが飲みたかった。ロシアではインスタントばかりで、一度もドリップしたコーヒーにはお目にかかれなかった。すぐさまスターバックスで、ただのブラック・コーヒーをたっぷり飲む。幸せだー、これが本当に飲みたかった!仁川空港は本当に広くて、免税店も充実していたが、コーヒーでずいぶん時間をとってしまった私は、残りの時間で急いでキムチを買っただけだ。
 集合場所となった搭乗口に着くと、函館の中学生派遣チームと合流した。みんな元気だったが、一人だけ熱を出した子がいた。ロシアを離れて緊張が解けたようだ。

 大韓航空773便函館行き、9:45発12:15着。ウラジオ-ソウル便とは違い、乗客はほとんど日本人と韓国人。アナウンスも日本語と韓国語。とうとう日本に帰るのだという気分になる。旅もそろそろ終わり。華やかな式典や発展しつつあるウラジオの今の様子を肌で感じることができた。懐かしい人々にも会えた、とても実りのある旅であった。
 今回の旅で一番の収穫は、人のきずなを実感できたこと。ロシア極東国立総合大学函館校の学生、ロシア人の留学生、はじめてロシアを訪れた函館の中学生たち、彼らが新たな架け橋となって、函館とウラジオストク、日本とロシアをつなぐだろう。国と国では様々問題も抱えているけれど、私たちはそれを越えた、地道なつきあいを積み重ねてきた。そしてこれからも、それが続くよう願っている。(おわり)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子


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2010年07月21日

ウラジオストク訪問記 5

<5日目>
 今朝もまた、ホテルの朝食はパスして、近くのスーパーで買ったパンとミネラルウォーターで済ませる。
 いよいよ今日はウラジオを離れなければならない。やっぱり短い滞在だった。中古車の輸入規制に反対するデモが、お昼頃行われるとの情報を得て、渋滞を恐れた我々は、またしても早めにホテルをチェックアウトする。


 途中少しだけ、極東大学のそばの市場に立ち寄り、最後の買物をする。市場と言ってもスーパーの建物の中に専門店がいくつも入ったようなところで、1階にはDIY用品やおもちゃ、化粧品などを売っていた。2階が食料品で、ここで菩提樹のハチミツやチーズを買った。対面販売なので、スーパーよりは種類も豊富で新鮮。物によっては計り売りもしてくれる。


 街中、まだ渋滞はしていなかったが、空港への幹線道路は1本しかなく、ここで止まったらアウトである。実はかなり遠回りではあるが、もう1本、空港へ行く道があるという。そちらを行ったほうがいいという判断で、なんだかわからない道を登ったり下ったり、住宅のすぐ横を通り抜けたりして、車通りの少ない道に辿り着く。対向車もほとんどなく、枯れた林ばかりの同じ景色がずっと続く、ドライブには退屈な道路だ。


 結局、空港には、幹線道路を通ってきたグループと同じくらいに到着した。いずれにしても、飛行機に乗り遅れなくてよかった。ここまでずっと同行してくれたオレグ運転手に日本茶や手ぬぐいなどのお土産を手渡し、握手を求めると、ほとんど笑わなかったオレグさんも最後には微笑んでくれた。ロシアではお土産は最後に渡すもの。日本人なら「これからお願いしますよ」というプレッシャーも込めて最初に渡すが、ロシアでは本当にお世話になった人に、お世話になったときだけ渡すならわしだ。その方が合理的なのかもしれない。

 ウラジオストク空港は小さな売店があるだけで、カフェもなければベンチも少ない。空港のすぐそばのホテルヴェネツィアで昼食にする。
 レストランのメニューはいろいろあったが、ロシアで食べる最後の食事、今回は一度もボルシチを食べなかったことを思い出し、ボルシチとスメタナのブリヌィ(ロシア風クレープ・サワークリーム添え)を注文する。同行者のほとんどは、ロシア料理と違うものを食べたいようで、オリエンタルヌードルなる、怪しげなものを注文した人がいた。和風スパゲティーのようなものを想像したようだが、運ばれてきたのは冷麦に野菜を乗せて、韓国風のピリ辛ソースをかけた、本当に怪しいものだった。多分韓国にもあんな料理はないだろう。

 アーニャともお別れの時が来た。彼女は公式訪問団の通訳ができたことを、本当に誇りに思うと言ってくれた。再会を約束して別れた。
 帰りはソウル経由。大韓航空7982便16:20発。機内では韓国語、英語、ロシア語、日本語と4ヶ国語でアナウンスが流れる。私は韓国に行くのも初めてなら、大韓航空に乗るのも初めて。客室乗務員が韓国人のため、同じアジアの空気を感じる。明らかにロシアを離れた、という気がした。
 窓から見えるのは、泥土のリアス式海岸線。白く煙っていて幻想的な光景は、あまり見たことがなく、ああ、これが韓国か、という心持ちになった。

 日本との時差はなく、16:50仁川空港着。さすがアジアのハブ空港、大きいし、色々な国の飛行機が止まっている。ウラジオに比べて、韓国は湿気もあり、暑かった。
 空港からは韓国人ガイドの趙さんに案内してもらい、車で5分ほどのところにあるホテルに向かう。もともと何もないところに空港を作ったそうだが、開港してからはそこで働く人のための住宅や商業施設が作られ、立派な街になっていた。
 夕食は仁川市内の韓国料理店で骨付きカルビ2人前ずつのコースと決まっていた。お肉が嫌いな私にとっては、ご飯とキムチしか食べるものがない。街のネオンを見ても、雰囲気は日本の繁華街だが、書いてあることはハングル文字で何も意味がわからない。やっぱりロシアのほうがよかったな。

 ホテルに戻ってから売店でロッテ・雪見だいふくの韓国バージョンを買い、デザートにした。緑色で、ピーカンナッツの入った、日本では見かけないものだ。売店では日本円で支払い、おつりはウォンでもらう。事前に、トランジットだけなら両替せずに日本円だけで用は足りると聞いていたが、本当だ。ここではお散歩もできない。退屈なので、NHKのドラマを見て就寝。日本にとても近いことはわかった。(つづく)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2010年07月08日

ウラジオストク訪問記 4

間が空きましたが、続けます。

*  *  *  *  *

<4日目>
 朝、ホテルの周りを散歩してみる。最近は24時間営業のスーパーも増え、日本のお菓子やカップラーメン、インスタントみそ汁、洗剤から芳香剤まで、少々値は張るが買うことはできる。しかし、せっかくロシアにいるのだから、ロシアのものを買いたい。
 ホテルのレストランにも飽きてしまったので、魚とお米のピロシキとケフィール(ロシアの飲むヨーグルト)を買い、今日の朝食とした。ケフィールはイチゴ味やバナナ味などもあるが、プレーンな物を買った。日本ではピロシキの中身といえば肉と決まっているが、ロシアではジャガイモ、キャベツ、リンゴ、けしの実など様々選べるので、楽しい。ピロシキは“ロシアのおにぎり”みたいな存在だ。

 この日は、10時にホテルを出発して、昨年完成したばかりの極東大学附属図書館へ向かう。2008年、プーチン首相を招いて完成披露をしたという、極東大学の敷地内でも一際立派な6階建ての建物だ。女性の司書が内部を案内してくれた。美しいステンドグラスで飾られたホールがあり、玄関にはクロークも用意されていた。アムール湾に面しており、眺めが素晴らしい。
 日本をはじめ、中国や韓国の書籍が置いてあるコーナーに来たとき、通訳のアンナは「ここのカウンターで私はアルバイトをしています」と言った。授業が終わると、ここへ来て仕事をしているそうだ。ロシアの大学生は、高学年になると将来の仕事に近いアルバイトをよくする。そのままその会社に就職することも多い。だから日本の感覚でいうアルバイトよりは、インターンシップに近いのかもしれない。アンナのお母さんも、極東大学の図書館で働いていたのだそうだ。
 図書館から出て、隣の韓国語学部の建物を見学する。韓国の偉い先生が寄付をして建てられたものだそうで、東洋学大学とは別の、独立した建物なのだ。ロシア人の学生たちが、口々に「アニョハセヨー、アニョハセヨー」と挨拶をしてくれるが、どうにも答えようがない。外国人を見ると、すべてアメリカ人だと思い、英語で話しかける日本人と同じだ。函館校のロシア人の先生方は、それをいつも怒っている。むしろ日本語で話しかけてくれたほうがいいのに、と。私もそう思う。今の場合、韓国語ではなく、むしろロシア語のほうがいいのに。

 それからクリーロフ学長を表敬訪問するため、車で極東大学本部へ移動する。学長室で30分の懇談の後、極東大学の所有する船でルースキー島を洋上視察に行く。ルースキー島は、夏になるとウラジオ市民がキャンプに訪れる場所で、アーニャもよく行くという。ルースキー島に近づくにつれ、建設中の建物が見えてくる。APECのために作られる施設は、本当に間に合うのだろうか。またしても心配になるが、多分大丈夫なのだろう。

 船の中で、極東大学主催の歓迎昼食会が行われる。寮の料理人が一人で作るというロシア料理はとても豪華で、どこのレストランよりもおいしい。前菜、キノコのピロシキ、山盛りのフルーツ、ロシア式にテーブルの余白が見えないほど、たくさんのお皿が並んでいる。その後もメインのサーモンステーキや、デザートなどなど、次々と運ばれてくる。ここでも附属観光大学の学生がサービスしてくれた。たくさんご馳走になり、料理がストップした頃、ちょうど船が港に戻った。3時間ほどの快適なクルーズだった。
 
 一旦ホテルに戻り、夕方出かけるまで少し間があったので、またしてもホテル周辺を散歩しに出かけた。路上でおばあちゃんたちが木の実や自家製のピクルスなどを売っている。そんな様子を見ているだけでも楽しい。せっかくロシアにいるのだから、部屋にこもっていてはもったいない。ロシアは“黄金の秋”、公園の枯れ木も美しい。
 すると、すれ違うおばあちゃんに声を掛けられた。時間を教えてくれという。がんばって、ロシア語で答えるが、通じない。そこで腕時計の文字盤を見せたところ、「目が悪いからそんな小さな時計は見えない。」と言う。「ごめんなさい。」とあやまると、「いいのよ、あなたはロシア人じゃないものね。」と言って去っていった。そんなやりとりも、ちょっと悔しいがやっぱり楽しい。

 ホテルの玄関に集合し、ウラジオストク日本国総領事主催の歓迎レセプションのため、総領事公邸に向かう。公邸は市の中心部から少し離れた、空港に近いところにある。昨日の渋滞ですっかり懲りた私たちは、街中を早めに脱出する。おかげで早く着いてしまったので、周辺を散策して時間をつぶす。このあたりは外交官の公邸などが立ち並ぶ一等地で、各家の塀も高い。警備が厳しいのだ。同行者が、以前ここに来た記憶があるという。少し歩くと旧ソ連共産党のゲストハウスがあり、たしかにここに、1990年のソ連時代泊まったというのだからすごい!

 総領事主催の歓迎レセプションには、ウラジオストク市役所や議会、アルチョム市からも関係者が招かれていた。アルチョムはウラジオストク空港がある市だが、いずれウラジオ市と合併することが決まっているという。
 ここで、久しぶりに日本食を食べることができた。昨日お米が食べたくて中華料理店に行ったわが一行は大変喜んだ。天ぷら、ちらし寿司、筑前煮、おそば、日本で食べるのと変わらない、おいしい日本料理だった。
 公邸から戻り、就寝。明日はもう、ウラジオストクを離れなければいけない。(つづく)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2010年03月23日

ウラジオストク訪問記 3

<3日目>
 朝食をとりにホテルのレストランへ行くと、バイキングは昨日と全く同じメニューだった。
 この日は、朝一番でウラジオストク市役所を表敬訪問した。プシカリョフ市長不在とのことで、ズブリツキー副市長が対応してくれた。ズブリツキー氏は極東大学副学長から転身した若い副市長で、イリイン校長の東洋学部時代の教え子(ただし韓国語が専門)。この夏、函館で開催された日ロ沿岸市長会にも出席しているので、私たちにはなじみが深い。前日に函館市から研修派遣されている中学生と交流した話や、ウラジオストクと函館との深いつながりについて話がはずんだ。
 ズブリツキー氏は、「実を言うと、3つある日本の姉妹都市(函館・新潟・秋田)の中で一番親しみを感じるのは函館です」と言った。ウラジオストクと函館、二つの都市はいろいろと共通点があるけれど、どちらも極東大学があることが街の誇りだと言うのだ。ひいき目でも嬉しい。
 ズブリツキー氏は40歳そこそこ。プシカリョフ市長は30代半ばという若さ。今のロシアでは、ソ連時代にとらわれない若い世代が世の中を動かしているようだ。
 ところで、ウラジオで表敬訪問をする際、テーブルの上には2種類のミネラルウォーターが置かれていることが多い。ガス入りとガスなしだ。ロシア人はガス入りを好み、外国人はガスなしを好むからとの気遣いなのだろう。昔は水と言えば、黙ってガス入りが出てくるのが普通だったそうだ。

 
お昼はレストラン「二人のグルジア人」でグルジア料理を頂く。グルジア料理と言えばハルチョー。トマトベースの、ちょっとスパイシーなスープだ。それと中にチーズが入った熱々の薄焼きパン、ハチャプリ。シャシリクやなすびのピーナツ和えなども、とてもおいしかった。もう一つ、グルジアと言えばワインが有名だが、残念ながら関係が悪化しているロシアでは、もうほとんどグルジアワインは買うことができない。したがって、これも名物だという赤い木の実のジュースを飲む。甘くて、シロップのようだった。

 午後からは東洋学大学の建物へ向かう。まずは日本の中学・高校にあたる附属カレッジで日本語を勉強しているという女子生徒が二人、歓迎の挨拶で迎えてくれた。紙を読みながらのたどたどしい挨拶がとてもかわいい。
 部屋に案内されると、テーブルいっぱいに美しく盛り付けられたブリヌイやクッキーやお茶が用意されている。これがロシア流のもてなしだ。グルジア料理をたらふく食べた直後のため、あまり食が進まなかったが、ブリヌイにハチミツをつけて食べたらとてもおいしかった。沿海地方は良質なハチミツが採れることで有名だ。濃くて、甘くて、香りがよい。やはり甘いものは別腹。

 引き続き日本学部長室を訪問。シュネルコ学部長と、以前函館校で働いていたコルビナ・リュドミラ先生が待っていてくれた。コルビナ先生としばし再会を喜ぶ。
 さらに昨年・一昨年と函館校に留学していた女子学生2名が待っていてくれた。この日は大学が休みなのに、我々のためにわざわざ集まってくれたのだ。函館のことなどを語り合ったが、今の学生たちはスカイプなどで気軽に日本の学生たちと会話を楽しんでいるらしい。昨日も話しましたよ、などという。函館での出来事は、思い出というよりまだ現在進行中なのだ。もしかしたら、函館の今の様子や流行のものなどは、私より詳しいかもしれない。みんな、会話がより一層上手になっていて、日本語を勉強する学生を支援する函館での留学プログラムは、とてもいいものだと再認識する。

 それから庭に出て、函館市の中学生海外派遣事業で滞在中の生徒21名と合流する。この事業は、広い視野と国際感覚を備えた人材育成のため、2000年から市が実施しているもので、函館市の姉妹都市を中心に行われている。今年は各中学校から選ばれた生徒たちがウラジオストクに1週間滞在し、ホームステイをしながらロシア語を勉強したり、合唱を披露したりして交流を図る。ロシアはもちろん、海外旅行自体初めての子も多いだろうに、みんな片言の英語や身ぶり手ぶりでホストファミリーと会話をし、楽しく元気に過ごしているようだ。ウラジオストクは“日本から一番近いヨーロッパ”。言葉は聞いたこともないロシア語だ。感受性豊かな中学生にとっては、今後の人生を左右するかもしれない経験だと思う。

 中学生チームは我々公式訪問団より2日先に、韓国・仁川空港経由でウラジオ入りしている。大韓航空の函館-ソウル便を利用し、ソウルで1泊してからウラジオに飛ぶというのが、移動も少なく料金もそう高くないので、最近は便利なパターンだ。ソウルでは観光もしたらしい。アジアとヨーロッパ、一度に二つの全く違う文化に触れる経験をした子どもたちは、何を感じ、何を日本に持ち帰ったのだろう。

 派遣中学生の中に、通訳ガイドのアーニャが昨年函館に留学した時、ホストファミリーとなった家の女の子がいた。二人はウラジオでの偶然の再会を喜んだ。もしかしたら彼女は、去年のアーニャとの生活をきっかけにロシアと出会い、この派遣事業に手を挙げたのかもしれない。ここでもまた、再会の輪がつながった。

 東洋学大学の前庭には、与謝野晶子の歌碑がある。1912年、パリにいる夫・鉄幹を追いかけて、ウラジオストクからシベリア鉄道に乗ったことを記念しているのだ。その時代に女ひとりでシベリア鉄道に乗るなんて、やはり晶子は情熱の女だ。
 歌碑のあるところは“友好並木”と名づけられており、そこに中学生と一緒に白樺を植樹する。ロシアを象徴する木・白樺が風雪に耐えて、子どもたちの成長とともに大きく育ちますように。

 記念植樹の場面では、函館校からカリキュラムで留学中のロシア地域学科2名とロシア語科3名の学生や、昨年卒業し、現在極東大学ロシア文学部に留学中の卒業生と久しぶりに顔を合わせる。日本の食事が懐かしかろうと、持参した五島軒のレトルトカレーをお土産に渡す。元気な様子で安心した。みんな、勉強は大変だが、ロシアの生活を楽しんでいるようだ。
 夕方とは言え、+2時間の時差があるウラジオは、まだまだ日が高い。極東大学のそばにあるウラジオストク最大の教会の屋根と木々の黄色い葉が、夕日に映えて美しい。

 本日の仕事はこれで終了。一度ホテルに戻り、食事に出かける。ロシア料理の予定だったが、お米が食べたいという希望が出て、急遽ちょっと離れたところにあるがおいしいと評判の中華料理店に行くことになった。
 ところが、である。これが裏目に出た。恐ろしいほどの夕方の渋滞にすっかり巻き込まれてしまったのだ。ホテルを出てから次の角を曲がるまで、数センチずつしか進まない。溢れんばかりの日本の中古車が、車線など無視して隙あらば無理やり割り込むものだから、ちっとも進まないのだ。電車軌道も信号も無視、無法地帯だ。話には聞いていたが、こんなにひどい渋滞が毎日起きているとは。こんなことなら、歩いて行けるロシア料理店に黙って行けばよかった……。でも、それは言ってはいけない。結局中華料理店に着いたのは、1時間半後、通常なら20分くらいで着く距離なのだそうだ。すっかり日も暮れてしまった。

 赤い中国風のちょうちんが飾られた玄関をくぐり2階へ上がると、結構な広さでロシア人のお客さんもたくさんいた。しかし、ロシア語と中国語のメニューを見ても、なんだかよくわからない。チャーハンや餃子など、一般的なものを頼んだつもりだが、出てきたものを見ると、日本の中華料理とは明らかに違う。量も恐ろしいほど多く、みんなでげんなりする。やっぱり「ノスタルジア」のロシア料理のほうがよかったな。
 帰りは渋滞も収まり、スムーズに車は進んだが、すっかり疲れてしまった。今日もよく眠れそうだ。 

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

 
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2010年03月03日

ウラジオストク訪問記 2

<2日目>
 ウラジオの朝は早い。日本より西に位置しながら、サマータイム適用中の今は+2時間の時差があるからだ。7時に起きても外は真っ暗なのに、通りには出勤途中と思われる人々が先を急ぐ。サマータイムと言いながら、函館よりも体感気温で5℃くらい低い。指先が冷たい。
 ホテルで朝食。昨夜晩ご飯を食べたピザハウスが、朝食会場になる。初日は勝手がよくわからないので、みんなでロビーに集合し、一緒に朝食を取ることにした。
 レストランに向かう途中、見慣れた顔に出くわす。北洋銀行からサハリンの北海道ビジネスセンターに出向中の三浦浩之さんだ!三浦さんは2008年12月から約3ヵ月間、函館校で一からロシア語を勉強し、現在はユジノサハリンスクで働いている。聞けば、北海道庁の経済ミッションチームとウラジオで合流し、明日はハバロフスクに向かうという。しばし偶然の再会を喜ぶ。ロシア業界は狭い。

 朝食はバイキングだったが、乾き気味のトーストやトマト、きゅうり、フライドポテトなどで、あまり種類はなかった。しかし、ウェイターにもらったカードに印をつけて渡すと、その料理を作ってくれるという。中身は卵料理やハム・ソーセージの類。目玉焼きやオムレツなど、調理方法も選べる。
 ちょっと物足りず、回りを見渡すと、見知らぬ日本人がポタージュのようなものを食べている。同行者にあれを注文してほしいと言われ、ウェイターにスープをくれと頼むと、「それはカーシャだ」と言う。注文した人に、あれはポタージュじゃなくて、お粥でした、と言うと、じゃあお粥を頼んでくれと言う。しかし、日本の朝粥のようなものを想像されると困るので、牛乳粥のような、甘いものですからお口に合わないと思います、と言うと、思い止まる。しかたがないので、種類も量も豊富とはいえない朝食を終える。
 
 通訳のアーニャが極東大学の専用車でホテルに迎えに来てくれた。滞在中ずっと一緒だったオレグ運転手は大変無口だが、渋滞の街なかを強気に運転し続けた。午前中は市内観光。黄色の外壁と天井画が美しい、シベリア鉄道の終点・ウラジオストク駅、そしてその背後にある海の駅。晴れていても、とても寒い。海に浮かぶ朝日がまぶしいが、それもそのはず。日本ならまだ7時半というところだ。アーニャは潜水艦、ニコライ凱旋門、鷲の巣展望台など名所を一通り案内してくれた。

 展望台まではケーブルカーに乗る。片道3分ほどで、料金はたったの5ルーブル。観光客というより、丘の上にキャンパスがある極東国立工科大学の学生や、職場への足として使う人が多いようだ。
 4年前に来た時は暴風雨で歩くのもやっとだったが、今回は金角湾が良く見える。2012年APEC首脳会議に向けて建設が急がれる、金角湾横断橋やルースキー島へ渡る橋の工事も行われている。建設には日本の企業も技術協力しているが、まだ橋脚の骨組みしか見えていないので、本当に会議に間に合うのかと不安になる。まず橋を完成させなければ、ルースキー島内の会場整備も進まないというのに。だが、土壇場の底力が恐ろしく強いロシア人のこと、国の威信を掛け、寝ないでも完成させてしまうのだろう(日本の労働基準法のような縛りはないらしい)。

 頂上からは、オレグ運転手の車で下山し、ウラジオストク市議会に向かう。極東大学本部の向かいにある、水色の美しい建物だ。ロゾフ議長への表敬訪問の後は、大学の学生食堂「ガウデアムス」で昼食をとる。カフェテリアだが、私たちは個室に案内され、附属観光大学の学生がサーヴしてくれ、スープ・メイン・サラダなどをいただく。

 車で極東大学のキャンパスに移動。本部からは通常なら車で10分くらいだと思うが、もうすでに道路を封鎖し、記念パレードが始まっていたため、なかなか前に進まない。途中で車を降りて合流することにした。
 この日が正に極東大学の創立110周年記念日。先頭をクリーロフ学長や副学長たちがガウンを纏い、悠然と歩いている。学長の両脇にはミス&ミスター極東大学、民族衣装を身につけた学生も花を添える。
 学長に挨拶をし、我々もその集団に混じって中央広場までオケアンスキー通りを下る。先頭集団に続くのは、附属東洋学大学の学生たち。

 中央広場に到着すると、すでに賑わいを見せている。アナウンスが、次々と集まってくるチームをDJ風に紹介して盛り上げる。「東洋学大学、極東大学の歴史はここから始まった!」そう、極東大学は1899年10月21日、皇帝ニコライ二世即位5周年記念日に、極東地方初めての高等教育機関として創設された東洋学院を前身としており、そこから数えてこの日が110年にあたるのだ。だから東洋学大学の教員と学生は、どの学部よりも先を歩き、それをとても誇りに感じているのだ。
 様々な附属大学や学部の学生たちが風船を手に、続々と入場する。この日参加した学生は3,000人と言われた。みんな口々に“ДВГУ(極東大学の略称)!”と叫びながら喜んでいる。すごい熱気。無気力な日本の学生には失われた光景だ。今時の日本で、これほど愛校心と熱気を持って、行事に参加する学生がいるだろうか。

 式典が始まった。中央広場を埋める学生たちを前に、クリーロフ学長が挨拶を述べる。この良き日に、嬉しいニュースがある。私たちの極東国立総合大学は、極東連邦総合大学になる。発令の書類にメドベージェフ大統領がサインをした。国立大学から連邦大学に昇格すれば、財政上の特権が与えられるなどのメリットがある。2011年、APEC首脳会議が開催されるルースキー島が、終了後には新しく誕生する極東連邦大学のキャンパスになる予定である。
 学長からこのことが発表されると、会場の祝福ムードがさらに沸いた。学生たちが手にした風船が一斉に放たれ、風に流れて海の方向へと高く舞い上がる。学長が観衆を前に口にした言葉、「ほら、風船も私たちの連邦大学の方へ飛んでいく!」
 たしかに風は、ルースキー島の方向へと吹いていた。

 その後、訪問団は極東大学附属博物館を見学、同じ建物内にあるウラジオストク日本センターを訪問し、山本博志所長から、現地の事情や今後日本企業が進出する可能性などについてお話を聞いた。

 夜は、ホテルの近くのビヤホールレストラン「グトフ」に出かけた。インテリアやウェートレスの衣装がドイツ風ということで、最近若者に人気があるそうだ。料理はペリメニやキノコのブリヌィなど、ロシア料理でおいしかった。
 今日はたくさん歩いた。ゆっくり眠れそうだ。 (つづく)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2010年02月22日

ウラジオストク訪問記 1

 2009年10月20日から24日の日程で、ウラジオストクを訪れた。函館市公式訪問団(団長・工藤壽樹副市長、6人)の一員として、10月21日の極東大学創立110周年記念式典に出席するためである。
 函館市がウラジオストク市と姉妹都市提携を結んだのは1992年、以降両市は相互訪問や文化交流を続けてきている。極東大学が国外第1号となる分校を函館に開いたのも、そのうちの一つである。
 私にとっては4年ぶり、2度目のウラジオストク。2012年APEC首脳会議開催に向けて変わりゆくウラジオストクの様子をお伝えしたいと思う。

*   *   *   *   *

<1日目>
 ウラジオストクは近くて遠い。日本から飛行機に乗れば2時間ちょっとでウラジオの地を踏めるというのに、函館から日本を脱出するまでに、とても時間が掛かる。
 今回、私たちは富山発のウラジオストク航空で行くことになった。朝8時に函館空港に集合する。ADOの函館発8:40発、羽田着10:00。羽田で11:10発のANAに乗り換えて富山に着いたのは12:10。ウラジオストク便の出発15:25まで3時間以上。空港内の食堂で富山名物・ますの寿しを食べ終わると、それ以上することもない。国際線のチェックインが始まるまで、売店を眺めたり、ラウンジで雑誌を読むなどして過ごす。

 ウラジオストク航空840便(як40)は20人乗り。乗客のほとんどはロシア人である。カウンターで荷物を預け、出国手続きを取る。広い出発ロビーには、ウラジオ行きに乗る20人だけ。
 ようやく改札が始まり、ボーディングブリッジを渡っても飛行機の姿が見えない。つまりそれほど小さい飛行機なのだ。だいたい20人乗りなんて、バスより小さい!ブリッジから直接搭乗ではなく、いったん外に降りて、飛行機のおしりから伸びる簡易な階段を上る。先ほど預けた荷物が両脇にネットで括りつけられているだけの通路を通り、座席へ。
 15:25、函館を出てこんな小さな旧型ソ連の飛行機で2時間40分の国際線、本当に大丈夫なのかと不安になった。

 しかし、その不安はすぐに消えた。離陸もスムーズで、飛行中の揺れもほとんどなかった。むしろ東京-富山の405人乗りのほうが、揺れて怖かったくらいだ。天候に恵まれたせいかもしれないが、我々は無事に日本海を越えた。
 機内には客室乗務員がいて、ロシアの新聞や機内食のサービスもある。座席はとても狭くて、日本人女子の私でもきついのに、体の大きなロシア人はどうするのだろうと思うが、平然と乗っている。だって、たった2時間の辛抱だもの…、そんな感じだ。

 ウラジオストクに着陸したのは現地時間20:05。時差が+2時間あるとは言え、あたりは既に真っ暗だ。函館を出発してから3つも飛行機を乗り継いで約10時間、早く休みたい。
 飛行機から降りようと立ち上がったら、警備員のような制服を着てマスクをした太めのおばさんが乗り込んできて、席に戻れという。インフルエンザの検査官だった。乗客一人ひとりにスピードガンのようなものを向け、体温検査をする。この旧態依然としたソ連の飛行機でこのようなことをされると、もしかして撃たれるのではないかという緊張感が走る。しかしロシア人の女の子供一人に熱反応があった以外は無事で、ようやく機外に出ることを許される。

 入国・税関の手続きを済ませ、出口に行くと、極東大学のディカレフ副学長が出迎えに来てくれていた。今回我々の通訳・ガイドをしてくれるのは、極東大学附属東洋学大学5年生のポリカルポワ・アンナ(アーニャ)さん。アーニャは2008年、ロシア極東大学留学生支援実行委員会の招待により4週間、函館校で日本語を勉強していたので、顔なじみだ。私としても心強い。アーニャはおとなしいけれど、我々の滞在中、誠実に仕事をこなしてくれた。
 空港で応対してくれた、現地の旅行会社インツーリストのスタッフ・ナターシャも、1998年に函館校に留学していた経験があると言い、イリイン校長との再会を懐かしんでいた。
 分乗して、アルチョム市にある空港から暗い道路を飛ばして走る。中心部に近づくにつれ、灯りも増えて、ロシア語の看板がウラジオに着いたことを実感させる。ずい分とマンションや大型店が増えた気がする。

 今回宿泊するのはホテルプリモーリエ。ウラジオストク駅のそばにある、豪華ではないが清潔なホテルで、最近は日本人ビジネスマンの利用も多いという。部屋もベットもバスルームも狭かったが、ちゃんとお湯は出るし、私にはこれで十分。
 各自部屋に荷物を置いて、私たちはホテルの中にある24時間営業のピザハウスで安着祝いを兼ねた遅い夕食を取り、明日からの仕事に備えて休んだ。現地時間24時、ようやく横になる。やっぱりウラジオストクは、近くて遠い。 (つづく)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2009年12月24日

大雪のウラジオストク


 この頃の函館も大雪ですが、もっとすごい大雪の写真が、ウラジオストクから届きました。車がすっかり埋まっていますね。ビニールでラッピングされているのは、せめてもの積雪対策でしょうか。


 交通も麻痺し、ほとんどの市民が歩いて職場や学校に通っているそうで、中には片道2時間も歩く人もいるとか。やっぱりロシア人はたくましい!

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2009年12月22日

ウラジオストク留学を終えて

 私は今年9月3日から11月26日まで、ウラジオストクに留学しました。
 この留学で感じたこと、勉強になったことはいろいろありました。食べ物、文化、建築物、人々。日本とは違い、私にはすべてのものが珍しく新鮮に映り、留学中の3ヶ月間、飽きることはありませんでした。また、一番の目的であるロシア語学力アップについても成果はありました。
 これらのことについて、順番に話をしていきたいと思います。

 まず、ウラジオストクの生活に関して、簡単に紹介します。私達が学んだロシア語学校は、ДВГУ(ロシア極東大学)のキャンパス内にあります。そのすぐ横には私達が居住した学生寮があります。歩いて2分ほどで学校に行けますから、朝が苦手という人も、遅刻する心配はないでしょう。


ロシア語学校に隣接する学生寮

学生寮内の廊下


 食料品を買うスーパーは、一番近いところで寮から200~300メートルのところにあります。もちろん、少し歩けば大型スーパーもたくさんありました。また、学生寮内には食堂が2か所あります。朝早くから16時まで営業していますので、便利です。

 ロシア語学校にはロシア語のクラスが10クラス以上あり、最初に受けるテストの結果でどのクラスに入るか決められます。校内は国際色豊かで、中国、韓国、日本、東南アジア、そのほかアメリカやカナダ、オーストラリア、フランス、オーストリア、といった国から留学している人がいました。授業は1日に2コマ(1コマ90分)しかありませんので、授業が終われば、これらの国の人と交流したり、街へ観光に出かけたりすることができます。もちろん、学生寮にこもって勉強に集中することも可能です。充実した留学生活を送るためには、これらをバランス良く行うことが大切だと、私は感じました。

街中の移動式クワス販売所

 また、授業ではロシア人の先生がロシア語しか話しませんので、ヒアリングの力は確実に良くなります。ただ、ボーと聞いているだけでなく、わからない単語をどんどん調べて覚えると良いと思います。これらの単語と授業で出てきた単語を毎日、復習をしっかりすれば、3ヶ月後には単語量もかなり増えるのではないでしょうか。授業中には、先生が皆に“週末は何をしましたか?”など質問をしてきます。これは単に世間話ではなく、会話の練習をしてくれているのです。まちがっても、“何も”なんて答えてはいけません。できるだけしゃべるように、努力して下さい。

ロシア語学校の先生たち ロシア語学校HPより

 ここまで話を聞いて、ロシア人の学生とはどこで知りあうの?と疑問を感じた方もいるかもしれませんが、ロシア語学校内には先生しかいないため、自分で友達をつくるしかありません。とはいえ、毎年函館校に留学に来るロシア人の学生たち(観光大生、東洋学大生)とすでに知り合っている皆さんは、そんなに心配はないでしょう。これからウラジオストクへ留学する皆さんには、観光大、東洋学大留学生と交流しておくことをおすすめします。

函館校に留学経験のある東洋学大生
左:ヴィーカさん(平成20年留学)
中央:アーニャさん(平成20年留学)
右:ダーシャさん(平成19年留学)
平成21年10月撮影

 また、皆さんに勇気があれば、学生だけでなく、街ゆく人と友達になることも可能です。ロシア人の皆さんは比較的、日本人に興味がある人が多く、話しかけると誰でも話をしてくれます。街中で立っていると、話しかけてくる人もいます。ただ、中には悪い人もいるかもしれませんので、その判断は自分でしなければいけません。これは、どの国でも同じですね。リスクばかり気にしすぎても、交流の機会を逃してしまいますので、時には勇気が必要かと思います。

 留学期間中は、博物館、美術館、水族館その他、いろんなところへ観光に行きました。また、山へハイキングに行ったり、サーカスを見たり、サッカー観戦もしました。

 でも、観光の中で一番良かったのは、劇場でオペラや演劇、人形劇を見ることでした。なぜなら、美しい衣装や、役者の演技を見るのはもちろん楽しかったのですが、ロシア語の勉強にもなったからです。映画などより、役者のかたは、ゆっくり、はっきり話しますから、学生の我々にも、わかりやすいのです。

 留学を終え、日本へ帰ってきて再認識したことは、語学を習得するうえで、楽に習得できる方法は無く、“毎日の積み重ね”これに尽きると思います。
 私達の選んだ道は大変な道だと思います。しかし、苦労の代わりに、外国語で外国人と交流できるという、かけがえのない経験・喜びを得ることができるのです。何もしないで、急に話せるようになるなんてことは絶対にありません。まずは、1日5単語を覚える。これから、続けていこうではありませんか。

ロシア極東国立総合大学函館校 ロシア語科2年 田 近  修

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2009年01月23日

月のきれいな夜でした・・・

 ウラジオストク寮生活にも慣れてきたかな・・・と思い始めたころ、突然の停電。寮内廊下に悲鳴と走り回る足音と、外に飛び出した人々の怒声(私の部屋は玄関の上で外の話声が聞こえたのです)。ですが、それも停電が長引くにつれ笑い声が聞こえ、外ではギターを弾きだす人も現れて、楽しげな歌声に変わりました。人間って状況変化に慣れるのが早いんだ・・と考えてた一夜でした。

 函館から乗車9時間JRで新潟。一泊。新潟空港より1時間30分でウラジオ空港着。学生寮泊。初日はレベルチェックテストがあり、この結果でクラス分けとのことでしたが、我々極東大3年生7名は一緒のクラスでした(後に全員一緒になった)。これでは毎日函館校で授業を受けているのとほぼ同じ状況です。私は、ウラジオストク留学に来ているのですから、ここでしか体験できない授業を受けたい。特に母国語の異なる学生たちにどのような語学指導をしているのか体験したい、とお願いしてクラスを変更して頂きました。

 新しいクラスメイトの出身地は、北京、ソウル、釜山、北朝鮮、関西と様々。そして北海道出身の私。国籍も母国語も違う8名がロシア語を勉強するという国際的なクラスでした。授業は当然、ロシア人の先生によるロシア語。授業中の解らない単語を同母国語の生徒が教えあい、「ロシア語だけ!」と何度も先生が注意します。逆に、単語を辞書で引いた学生に対し、同母国語の学生に正しい意味かと確認することなどありました。文法や会話をそれぞれの学生に尋ねて、「私たちは露・韓・中・日、おまけの英語で5ヶ国語を学べるとても贅沢なクラスです!」と笑いが絶えず、とても楽しいクラスでした。
 先生は単語や文法表現が解らない学生に対し、ひとつの言葉を別の易しい単語で言い換え、文法表現を何度も板書で繰り返し、その豊かな表現力と演技力で状況再現をしながら、身体全体で授業を展開していました。このクラスで過ごせた期間は、私の人生の貴重な体験です。
 
 授業以外では、ロシア学生と映画を見に行ったり、寮内で中国学生と夕食のレシピ交換をしたり、韓国学生と辞書片手にロシア語を駆使して部屋でTVを見ながらおしゃべりしたり(英語はあまり勉強していないそうです)、行き逢った公園で遊ぶ子供たちの仲間に入れてもらい、暗くなるまで遊んで,文字通りの実用会話と発音練習をされたり(子供たちの発音練習は先生以上に厳しかった・・・)。
 日常生活物資の買い物にはよく中央市場に足を運びました。売り子さんたちが少々怖そうでしたが、私の注文品と量り売りの量を丁寧に聞いてくれます。自分のロシア語が現地で通じる、とちょっと嬉しくなりましたが、数詞表現が苦手な私は何度も聞き直されてしまい、実用会話の勉強になりました(どうして300が500に聞こえるのでしょうか?)。
 
 ともあれ、初めてのロシア、ウラジオ三ヶ月の寮生活。どうなることやら皆目見当が付かないまま留学生活が始まりました。そして、現地では早々に体調を崩して寝込んでしまいましたし、風邪引いて熱っぽい日々が続くなか、停電、断水。それでも何とかなるものです。人間って、状況変化になれるのは早いものなのですから。後輩諸君、大丈夫、なんとかなりますよ!

ロシア極東国立総合大学函館校 ロシア地域学科3年

五 代 まゆみ

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2006年11月02日

二度目の留学

 新潟から飛行機で約一時間半かけて、私はまたウラジオストクにいた。九月の半ばで、函館ならそろそろ涼しくなる頃なのだが、ウラジオストクはとても暑かった。寮に向かうマイクロバスの中で、古く懐かしい友人に会っているような感覚を覚えた。夜の空の色やウラジオストクの空港、去年見たままの景色。日本と似ている、といつも思う。約一年半ぶりのウラジオストクは何も変わらずに私を迎えてくれた。

 去年と違うのは留学する時期が違っているということだけだった。去年は春で今年は冬である。”ものすごく寒い”という言葉に驚かされながら着いたウラジオストクは、まだ夏ということもあり、思いのほか暖かくむしろ暑いといっても良いくらいだった。毎日晴れていて,今年は少し長く夏を過ごしているような気分になった。
  前に一度留学しているという経験はすごいものがあり、割と早く寮の生活に慣れていった。元々ひどく体が弱いくせに胃だけは強いので,今のところお腹をこわすこともなく、おいしくロシア料理を食べている。
  函館では用事のある時にしか外に出ないのだが、ここウラジオストクでは授業が終わった後、すぐ外へ出掛けている。いろいろなお店を見てまわったり、アイスやピロシキを買って食べながら散歩をしたり、ロシア人の友達と遊びに行ったり。外に出ても寮にいても、日本では無い発見がたくさんあり、驚くことの連続である。

 ウラジオストクに着いて半月くらい経った頃に、ようやく寮に住んでいるロシア人ではない外国人と話すようになり、親しくなった。お互いの共通語がロシア語なので、もちろんスムーズに会話はできないのだが、顔を見かけると必ず話し掛けてくれるので、それが嬉しいし楽しい。ロシア人以外の外国人にも自分のロシア語が伝わる喜びは大きい。
 私は寮の中の台所(кухня)が好きだ。去年もそう感じたが、いろんな国の人と交流ができる。私自身このкухняで料理をすることはほとんど無いのだが、それでも一日に何度か足を運び、ここで国際交流をしている。そして日にちが経つにつれ、このウラジオストクに来なかったら、絶対にこの人達には会えなかったんだな、という不思議な気持ちになった。日本でもロシア以外の国でも会えない人達に、ここで会っているということに、ちょっとした驚きと共に感動を覚えた。そう思うとこの留学は本当に貴重だ。きっと一生のものになるだろう。

 こんなことを書いているうちに、雪が降ってきた。暑いと感じていた季節も終わり、これから”ものすごく寒い”という季節になる。二時間差だった時差も一時間に変わったりする。全てここにいないと経験できないことで、それが不思議だ。
 ウラジオストク、もしくはロシアのどんなことで驚き、どんな発見があるのかは、ぜひ自分自身で経験して確かめてほしい。ロシアでは色んな理不尽なことや、良い意味でも悪い意味でもアバウトなことを経験すると思う。きれい好き過ぎる日本人にとっては苦しい部分もあるだろう。でも、一日に部屋の中で最低二匹はゴキブリを見たとしても、私はこの寮と部屋とロシアが好きだ。
hiranuma.jpg

ロシア極東国立総合大学函館校 ロシア地域学科3年
平 沼 多 恵


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