一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。
テーマ:「オボジンスキー・ワレリーについて」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(准教授)
今日、お話しするのはソ連時代から今でも人気のある歌手、オボジンスキー・ワレリーについてです。彼の歌はとても人気でラジオでは常にリクエストが入っていました。私は子どもの頃、田舎に住んでいたのでテレビにもラジオにもあまり触れずに生活していました。夏休みのある日、親戚の家でレコードを聞かせてもらいました。それがオボジンスキー・ワレリーの歌でした。素晴らしい歌声で、とても感動したのを今でも覚えています。
オボジンスキーは、1942年の戦時中、現在のウクライナで生まれました。両親は戦争に駆り出され、彼は祖母に育てられました。幼少期一緒に過ごした3歳年上の叔父がドイツ人からソーセージを盗み、オボジンスキーたちは銃を突きつけられる経験をしますが、祖母が仲裁に入り、救われました。
学校に通うようになって、音楽を習い始めました。歌ではなく、楽器でした。しかし貧しい生活に変わりはなく、色々なアルバイトをしていました。帰り道の海岸で彼は歌を歌うようになりました。才能があるのは明らかでした。
彼は音楽学校に入学したいと思っていましたが、結果は不合格でした。彼は音楽を諦めず、コストロマ・フィルハーモニー管弦楽団で最初は働き、色々な楽団を経験する中で、20才で歌手デビューすることとなりました。
彼の歌のレパートリーのほとんどは愛がテーマの歌詞でした。それはとてもロマンティックでムードがあって、とても人気でしたが、国家が許しませんでした。愛国の歌や軍歌を歌うことを求めましたが、彼は歌わなかったのです。1971年、彼のコンサートは禁止されました。テレビも禁止されました。彼はこの頃からたくさんのお酒を飲むようになりました。
歌がまた少しずつ歌えるようになってきた1975年にはアルコール依存症になっていました。1977年、長年一緒に仕事をしてきた人たちがオボジンスキーとの仕事を拒否しました。そうして気付くと誰も彼の行方が分からなくなっていました。
1987年、彼はなんと工場の監視員の仕事をしていました。音楽の仕事は全くしていなかったのです。しかし、彼の熱心なファンが見つけ出し、歌をもう一度歌うように説得をしました。ファンのその女性のおかげで彼はもう一度ステージに立つことにします。1994年、音楽活動を再開しました。彼の姿は太ったおじさんでしたが、歌声は全く変わっていなかったので、みんな驚きました。
ツアー活動では、ウラジオストクにも来ました。私も息子と観に行きました。素晴らしい歌声でしたが、このツアーが最後でした。
1997年、オボジンスキーは55才で心不全で亡くなりました。
最後に彼の素晴らしい歌声を聞いて、今日は終わります。
Эти глаза напротив(向かい側の瞳)
☆曲名をクリックするとリンク先のyoutubeで視聴できます。
<7月>グム百貨店(モスクワ)
グム百貨店はモスクワの赤の広場、クレムリンの向かい側にあります。この建物はロシア 様式で商店街を置き換える形で建設され、帝政ロシア時代の1893年に完成しました。1930 年に閉鎖されるなどしましたが、1953年に再開し、ソ連で最も大きな店となりました。
現在のグムには世界的に有名なブランドが多数出店していたり、レストランやカフェ、ギャラリーや文化イベントの会場になるなど名所となっています。
写真はその中心にある噴水です。季節によってその姿を変え、私が訪れた8月はスイカが噴水の中にありました。ま た、噴水の横ではスイカが切られて売られていました。
※祝日法の改正により、祝日・休日が一部変更になっています。
函館校の学報であり、函館日ロ親善協会の会報であるミリオン・ズビョースト/百万の星 第108号を函館校のページに掲載しました。
今回の巻頭言は、函館錦識寺で僧侶をされている上田 隆弘さんの「いつか聖地で『カラマーゾフ』を~私とロシア語の出会い~」です。現在、函館校で開講中のロシア語市民講座上級コースを受講されている上田さん。どうして、ロシア語を学ぼうと思ったのでしょうか。そのきっかけや今後の夢について書いていただきました。
また、4月から函館校に仲間入りした1年生による投稿「本校に入学して」もあります。全国各地から集まった新入生の多くは一人暮らしです。生活の大変さはあるものの、それぞれが新しい環境に戸惑いながらも、目標を持ってロシア語を習得しようとする姿が伺えます。是非ご一読ください。
一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。
テーマ:「ソ連 名作曲家ゲオルギー・スヴィリードフ」
講 師:デルカーチ・フョードル(副校長)
ゲオルギー・スヴィリードフは、20世紀後半のロシアを代表する作曲家です。彼の作品はロシアの民族的主題に基づいており、現代でも人気があります。今日は、彼の作った音楽の背景を知るべく、スヴィリードフの一生についてお話しします。
ゲオルギー・スヴィリードフは、1915年にクルスク地方で生まれました。幼いころに父親を亡くし、母親と暮らしていました。母親の仕事は教師でした。彼女はよく働いている褒美として、町から牛かピアノかをプレゼントされる機会が与えられました。選んだのはピアノです。これでスヴィリードフの傍に音楽の存在ができたのです。
しかし、すぐにスヴィリードフはピアノよりもバラライカに興味を奪われました。民俗楽器の地元のアンサンブルにも受け入れられるほどの才能でした。
そして、その当時の小学校の先生から、レニングラードの音楽校に行くことを勧められます。現在のサンクトペテルブルク音楽学校です。在学中に初の声楽曲「プーシキンの詩による六つのロマンス」を作曲します。これが認められ、レニングラード音楽院に入学し、ショスタコーヴィチを師として音楽の才能をさらに磨いていきます。ショスタコーヴィチの音楽は、交響曲や弦楽四重奏曲が有名で、いわゆる伝統的な、昔ながらの重厚な音楽が特徴でした。スヴィリードフは、ショスタコーヴィチの弟子でありながら、新しい作曲家でした。伝統と改革を兼ね備えたバランスの取れた人でした。
卒業後は、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団に所属し、1940年代彼は戦争の歌を作りました。その中で最も有名なものは「勇者の歌」です。
1956年にモスクワに引っ越したあとは、交響曲、カンタータ、ロマンス、非常に多くの曲を作りました。あまりにも多くの曲があり、またそれらは今でもBGMとして何気なく使われているものが多く、知らず知らずの内に耳にしており、調べてみて初めて「この曲もスヴィリードフなのか!?」となります。
1965年公開の映画「時よ、前進!」の主題歌は、今でもニュース番組のオープニング曲で使われています。とても力強い音楽です。
最後に余談ですが、彼には息子がいました。息子はレニングラード大学の東洋学部日本学科を卒業しています。ロシア人で初めて日本中世のおとぎ話を紹介した日本学者です。息子は、京都で教鞭をとっていたのですが、残念なことに病気で1997年12月に亡くなります。そしてその後を追うように、1998年1月にゲオルギー・スヴィリードフも死去しました。
☆下記は講話の中で紹介した曲です。
曲名をクリックするとリンク先のyoutubeで視聴できます。
・「吹雪」(ライブ)
・「トロイカ」
・「マリターナの歌」
・「時よ、前進!」