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2020年10月13日

初めての露和辞典を作った男、ゴンザ

 般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。
テーマ:「初めての露和辞典を作った男、ゴンザ」
講 師:鳥飼 やよい(准教授)
 
 皆さんは、これらの言葉がどんな意味か分かりますか?
 「①イロファ」「②シャミセン」「③ニョボモツ」「④アワモリ」
 これらの意味は、①アルファベット、②バラライカ、③嫁をもらう、④ウォッカです。わかりやすいものを紹介しましたが、本日お話しするロシア語辞書は、その訳語の日本語のほとんどが薩摩の方言で書かれているのです。一体なぜこうした辞書ができたのか、誰のための辞書だったのか説明します。
 1728年の11月のはじめ、薩摩のある港から17名と物資を乗せた「若潮丸(早行丸)」が出港しましたが、北西の季節風に乗って船は難破。6カ月の漂流を経て、カムチャツカ半島のロパトカ岬付近に漂着しました。この船に父が操舵手の10歳のゴンザが乗っていました。
 この時代、漂流は珍しくなく、漂流の約250件のうち48件は薩摩からのもので、薩摩は「漂流大国」であったようです。そしてロシアへの漂流は13件。うち送還されたものは3件。全てが冬の北西の季節風による太平洋岸での遭難というパターンでした。
 さて、彼らがロパトカ岬付近に漂着したところ、そこを船で通りかかったコサックらに遭遇し、略奪と襲撃に合い、乗組員17名中15名は殺され、ゴンザと35歳の商人ソウザの2名が生き残りました。当時、カムチャツカあたりのコサックは外国人を見たら殺害したというのです。この度の略奪の首謀者は後の調査で絞首刑に処されました。
 一方、当時、東進政策を進めていた帝政ロシアは、東方への関心、オホーツクからカムチャツカへの航路の開発、日本との通商にあたり日本語通訳の必要性があった等の政治的判断により、日本からの漂流民は首都に送るようにとの達しが出ました。
 ゴンザとソウザは、サンクトペテルブルクに連行され、アンナ・ヨアノブナ女帝に謁見しました。ゴンザは15歳になっていました。
 実はゴンザはこのサンクトペテルブルクに到着するまでの間にロシア語で日常会話はできるようになっていました。反対にソウザはロシア語があまり分かっていなかったようです。しかし、ソウザという大人の日本人がいることで、ゴンザは日本語を忘れませんでした。ソウザはその為に生かされていたのでしょう。役人たちは、彼らをロシア科学アカデミーに通わせ、本格的にロシア語を学ばせました。しかし、ゴンザ18歳の時、寝食を共にしてきたソウザが病死します。ゴンザはどんな気持ちで勉強を続けたのでしょう。ゴンザはその後、1736年に訳1万2000語を収録した「新スラブ・日本語辞典」を完成させました。
 この辞書には、ソウザの存在が色濃く反映されています。幼かったゴンザが知らなかったであろう言葉が、きっとソウザとの生活の中で日本語の語彙を増やしたのだと考えられます。
 ゴンザは生涯のうちに辞書を含む6冊の著作を成しました。ロシアで日本語を学ぶ人たちがこれらの辞書や本を使いました。
そして1739年、ゴンザは21歳の若さで亡くなりました。しかしゴンザの死後、彼の教え子は日本探検隊の通訳として参加をしました。辞書のほかにも元々の政治的な役割も彼は全うしたのです。
 ただ当時ロシアの誤算は、日本に方言があったことです。ロシアには方言がほとんど無いため、漂流民の話す日本語は共通の日本語と思ったのでしょう。薩摩弁の面白い辞書ができました。
 この辞書の言葉から、現在残る鹿児島方言と比較検討を重ね、ゴンザの出身地は「いちき串木野市」の「羽島」に絞れるのではないかとした研究グループがあります。特定が難しいのは、廃仏毀釈が行われた薩摩において、過去帳など庶民の個人情報を記した歴史資料がほとんど存在しないため、出身地が確定できないからです。
 ゴンザという名前も本当かわかりません。ただ彼が生きた証は、この現代に残る辞書なのです。
 

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