2017ウラジオストクの旅 6
<5日目 午前>
あっという間に帰国前日となってしまった。一足先に、今日帰る人も2人いたのでホテルで見送り、ほかの人は一日フリーで過ごすことになった。
私は、自由に街歩きすることにした。ウラジオの街中をゆっくり散策したことは、実はない。出張で来る時には予定が立て込んでおり、車の移動ばかりだからだ。
2011年に在ウラジオストク日本国総領事館とロシア国立沿海地方アルセーニエフ記念総合博物館が発行した「浦潮旧日本人街散策マップ~日本にゆかりのあるウラジオストクの名所・旧跡巡り~」を片手に、オケアンスキー通りを北上し、以前の極東大学のキャンパスを目指す。途中には旧日本総領事館や旧朝鮮銀行など、19世紀末から20世紀初頭にかけて建てられた日本ゆかりの建物が、今も保存・使用されている。最大6千人近くの日本人が暮らしたという大正期が偲ばれる。
オケアンスキー通りの坂を登っていくと、右手にひときわ大きな教会が見えてくる。ポクロフスキー教会は金色青色に輝くクーポラが印象的だ。
その通りをはさんで向かいにあるのが極東大学の昔の東洋学部の建物である。現在も極東連邦総合大学の名前は書いてあったが、人影もまばらで何に使われているかはわからない。函館校の教員はほとんどがこの東洋学部出身のため、ここで勉強した懐かしい建物なのだ。
1912年、歌人の与謝野晶子がパリに滞在する夫・鉄幹に会うために敦賀から船でウラジオに渡り、そこからシベリア鉄道でヨーロッパを目指した。その際に詠んだ「旅に立つ」の歌碑が1994年に建てられ、東洋学部の前に今も残っている。
構内を少し回ってみる。学生寮は今も誰かが住んでいるようだが、もともと古い建物で、今はいっそう寂れた感じがする。函館校の学生たちが留学実習時に学んだロシア語学校は、現在使われている様子はなかった。前日に見たルースキー島のキャンパスに比べると何とも対照的で、物悲しい気持ちになってしまった。
すぐ近くに浦潮本願寺跡の記念碑があるというので探したが、木々の茂みに隠れて見えず、ようやく発見した。周りは小公園のように整備されていて、碑は思ったより小さかったが、外地で暮らす日本人の精神的な拠り所が確かにここに存在した証だと思うと感慨深い。
ちょうどお昼になったので、目についたスタローヴァヤ(食堂)に入る。おそらくガイドブックになど載っていないであろう、社員食堂のような、地元の人が手早くランチをするような簡素なつくりだ。ピロシキ、シューバ(「毛皮を着たニシン」という名のビーツを使ったサラダ)、プロフ(中央アジア風の炊き込みご飯)など、好きなものを注文しておばちゃんに盛り付けてもらい、レジで会計をする。これがなかなか雰囲気も良く、おいしい食事であった(つづく)。