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2017年07月11日

日本人と「ロシアパン」:明治初年の函館から戦前の樺太まで

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度3回目の講話内容です。
テーマ: 日本人と「ロシアパン」:明治初年の函館から戦前の樺太まで
講師:倉田 有佳(本校准教授)

 日本における「ロシアパン」ブームに大きな影響を与えたのは、日露戦争(1904~05年)とロシア革命(1917年)でした。今回、特に注目したいのは、日露戦争後、日本領となった北緯50度以南の樺太に残留したロシア人と「ロシアパン」との関係です。
 明治末年に東京で「ロシアパン」ブームが起こり(参考『パンの明治百年史』)、箱車で「ロシャパン」を売り歩く姿をよく目にするようになりますが、それに一役買ったのが樺太残留ロシア人でした。中には東京や神戸で「露式麹包行商」し、多い時で1日1,500個を売りあげることもあったと語る者もいました。ただし、給料未払いなど、雇い主の日本人との金銭トラブルは絶えなかったようです。
 札幌のパン屋からロシア人をスカウトした東京の雇い主のように、彼らが元流刑囚(殺人犯)だったことを知らずに雇い、パン売り間の殺人事件(1909年4月)が起きて初めて素性を知り驚愕するケースもありました。
 一方樺太では、駅で残留ロシア人が日本人にパンを売っていました。中里(現ミツリョフカ)駅で、赤ん坊の頭ほどの大きさのパンを布に包み、「温かいパンパン」と言って売り歩く少女マルーチャ、「ポーランドのパン」と書いた帽子を被って白浦(現ヴズモーリエ)駅でパンと牛乳を売るアダム・ムロチコフスキーの姿は、樺太を訪問した日本人が旅行記で紹介されるほどでした。
 「露西亜パン」は、旅行者が列車の窓から買い求める名物となっていきますが、通学途中の女学生にとっても、列車の待ち時間に白系ロシア人のおじいさんからアンコがぎっしり入ったアンパンを買うのは楽しみだったようです。

 函館における「パン」の始まりは、幕末開港期、居留地に暮らす外国人向けのパンでした。明治期になると、函館に入港する外国船へ納品する「食用パン」の製造販売が主流となります(東洋堂、五島軒)。ホテル「ニコラエフスク」(通称「ロシアホテル」)で「下男」として働いていた藤田(後に柴田と改姓か)幸八のように、そこでの経験を活かして同ホテル跡地(大町築島)でパンの製造販売を始める者もいれば、東洋堂の中村作兵衛のように、日本人が作る良質の「パン」作りを目指して奮起した者もいました。
 東京での「ロシアパン」ブームが下火になっていた頃(明治42(1909)年8月)、ロシア人が製造販売する元祖「露西亜パン」を看板に売り出したのが「京屋商店(京屋店とも)」です。同業者(恵比寿屋)には脅威と映ったのか、『函館日日新聞』には両社の広告が頻繁に打たれていますが、不況も相まって、期待したほど商売は振るわず、開業半年足らずで休業に追い込まれます。この時、雇い人(日本人)が約束の額の給料支払いに応じなかったため、ロシア人はロシア領事館の日本人通訳を連れて裁判に臨み、勝訴しました。
 大正・昭和期は、大都市のパン屋ではロシア革命後に流入・定住したロシア人(白系ロシア人)を雇うようになりますが(東京の木村屋、横浜の不二家)、函館の場合は、自宅で作ったパンを売りに市中に出かけて行きました。こうしたロシア人のパン売りは地元紙で取り上げられ、函館郊外に暮らす旧教徒(古儀式派)が銭亀沢の漁港に黒パンを売りに来ていた姿などは、今なお市民の記憶に残っています(『函館市史 銭亀沢編』)。

 まとめとして、気になるポイントを挙げると、
 ① 明治期における「食パン」は、「菓子パン」のように小売り(直販)ではなく、卸売販売が主で、英国の東洋艦隊をはじめとする外国船の外国人が顧客でした。当時の函館で「ロシアパン」のブランド力はさほど高くはなかったようです。「ロシアパン」が市民にとって身近な存在となるのは、ロシア革命後、函館に定着した亡命ロシア人を通してでした。
 ② 明治末期、雇い主の日本人との金銭トラブルが多々あった東京では、ロシア大使館が無関心で(被害者が元流刑囚ということもあってか)、被害者は泣き寝入りするしかなかったようですが、函館では、ロシア領事館があったおかげで、ロシア人の権利は守られました。
 ③ 日本領樺太となった南樺太では、残留露人が、駅弁よろしく駅のプラットホームで「ロシアパン」を売っていました。これはロシア人にとっては生計の手段であり(日常)、日本人にはエキゾチック、楽しみでした(非日常)。売られていたのは、「白パン」、アンパンで、「黒パン」ではなかったようです(黒パンが日本人に身近な存在となるのは、第二次世界大戦後、シベリア抑留者を通して)。「ロシアパン」の製造販売を主に行っていたポーランド人によれば、日本人がパンを食べないため製粉所がなくなってしまい、原料の小麦粉は、日本(内地)から日本人商人が樺太に持ち込んでいたようです。

 最後に、市立函館博物館が所蔵する16ミリフィルム「樺太の旅」記録(昭和9年に小島清吉が撮影したもので、駅で「ロシアパン」を売っている姿が写っている)を見て、終了となりました。
 

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