1993年のモスクワ騒乱事件の裏側
一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。
テーマ:「1993年のモスクワ騒乱事件の裏側」
講 師:デルカーチ・フョードル(本校副校長)
1993年10月4日、ロシアの新憲法制定をめぐって当時のエリツィン大統領と、ハズブラートフ最高会議議長・ルツコイ副大統領を中心とする議会派勢力との間で起きた政治抗争について今日はお話します。
私は当時、学生でした。朝、母に「国内で戦争が始まった」と起こされ、一緒にニュースを見た記憶があります。テレビ画面ではロシアのホワイトハウスと呼ばれる建物(ベールイ・ドーム)から黒煙が上がっているのを映していました。
この時、いったい何が起きていたのか、何が原因なのか話すためには事件が起こった少し前からお話しする必要があります。
当時、国家独占資本主義を唱える最高会議派と世界経済との連合化を唱えるエリツィン大統領派ですでに両者、睨み合いの状態でした。
1992年、エリツィン大統領はIMF(国際通貨基金)の指導のもと、貿易や物価の自由化などを行いました。貿易の自由化により、海外から安い製品が流入しました。また、物価も自由化させたことにより、ある程度決まっていた物の値段が市場に任せた結果、30倍~40倍になりました。この変化は急激なもので市民にとっては混乱でしかありませんでした。
国内での生産は落ち込み、物資は不足していきます。需要と供給がかみ合わず、消費者物価は激しく上昇することとなったのです。
そして更に1992年6月1日、ルーブル・外貨の自由交換も導入されたことにより、当時のルーブルはただの紙切れのように扱われ、ドルがないと生活できない状態となりました。
1992年6月15日~19日、エリツィン大統領はアメリカを訪問。そして10月15日~18日にはアメリカのCIA局長がロシアを訪問。この時、すでに1年後の抗争について話がされていたのかもしれません。少なからずともその予兆はあったでしょう。
同時期にウラン取引についての会談が始まり、年が明けた1993年2月18日、調印には至りませんでしたが、20年間に500トンのウランをアメリカに売り渡す、という内容の話し合いがなされました。アメリカのクリントン大統領は「ロシア改革の成功はアメリカ合衆国の安全を意味する」とコメントしています。しかし、これには続きがあって、「ただし、ロシア最高会議はウラン取引を追認しないこと」とコメントしたのです。
様々な政策や会談をエリツィン大統領が行う一方で、最高会議派は反対勢力を増していき、対立は悪化していきました。
そしていよいよ事件の起こる一カ月前の話になります。
1993年9月21日、エリツィン大統領は辞令1400号 憲法改革について述べ、最高会議の解散を発表しました。すると議員たちはこの大統領令は違憲だとし、9月22日、最高会議派の議員たちはホワイトハウスに集合し、占拠しました。
そして9月27日、それに対して大統領派はホワイトハウスの包囲を開始し、翌日9月28日完全に包囲しました。機関銃や戦車が取り囲んだのです。ホワイトハウスの電気と水道も止められました。降伏を余儀なくされている中、一部の議員は地下道で逃亡しました。
最高検察庁長 V・ステパンコフは当時このようなコメントを残しています。「我々は単なる操り人形だ。今、エリツィンだって状況を変えられない。どうやら彼も今、人質の立場にいるようだ。彼は言われた通りにするだけだ。ホワイトハウスは流血を逃れることはできない。それを考えて、慎重に行動しなさい。1991年、このようにソ連と共産党が破壊されたが、今度は国会も破壊されるだろう。」
この言葉通り、9月29日最初の銃殺が行われました。
そして1993年10月4日早朝、大統領側の軍隊が、ホワイトハウスを戦車で砲撃しました。警察の特殊部隊OMONと保安庁のALPHAという部隊が突入しました。ALPHA部隊のザイツェフ少将は突入を拒否し、「出来る限り生きて外に連れ出す」と話したそうですが、OMON部隊は違いました。大勢の人の命を奪いました。
警察官として偶然ホワイトハウス内に入った人の話によると死体の山があったといいます。しかし、その死体は翌日すぐに消えました。どこに行ったかわかりません。ですから、どれくらいの方が亡くなったのか定かではないのです。
結果として、生き残った最高会議派の議員たちは犯罪者として逮捕されました。
この事件の黒幕はエリツィン氏でしょう。
その後12月にエリツィン大統領は強大な権限のもと、新しいロシア連邦憲法を制定したのです。