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2017年05月19日

1993年のモスクワ騒乱事件の裏側

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。

テーマ:「1993年のモスクワ騒乱事件の裏側」
講 師:デルカーチ・フョードル(本校副校長)

 1993年10月4日、ロシアの新憲法制定をめぐって当時のエリツィン大統領と、ハズブラートフ最高会議議長・ルツコイ副大統領を中心とする議会派勢力との間で起きた政治抗争について今日はお話します。
 
 私は当時、学生でした。朝、母に「国内で戦争が始まった」と起こされ、一緒にニュースを見た記憶があります。テレビ画面ではロシアのホワイトハウスと呼ばれる建物(ベールイ・ドーム)から黒煙が上がっているのを映していました。
 この時、いったい何が起きていたのか、何が原因なのか話すためには事件が起こった少し前からお話しする必要があります。

 当時、国家独占資本主義を唱える最高会議派と世界経済との連合化を唱えるエリツィン大統領派ですでに両者、睨み合いの状態でした。

 1992年、エリツィン大統領はIMF(国際通貨基金)の指導のもと、貿易や物価の自由化などを行いました。貿易の自由化により、海外から安い製品が流入しました。また、物価も自由化させたことにより、ある程度決まっていた物の値段が市場に任せた結果、30倍~40倍になりました。この変化は急激なもので市民にとっては混乱でしかありませんでした。
 国内での生産は落ち込み、物資は不足していきます。需要と供給がかみ合わず、消費者物価は激しく上昇することとなったのです。
 そして更に1992年6月1日、ルーブル・外貨の自由交換も導入されたことにより、当時のルーブルはただの紙切れのように扱われ、ドルがないと生活できない状態となりました。
 
 1992年6月15日~19日、エリツィン大統領はアメリカを訪問。そして10月15日~18日にはアメリカのCIA局長がロシアを訪問。この時、すでに1年後の抗争について話がされていたのかもしれません。少なからずともその予兆はあったでしょう。

 同時期にウラン取引についての会談が始まり、年が明けた1993年2月18日、調印には至りませんでしたが、20年間に500トンのウランをアメリカに売り渡す、という内容の話し合いがなされました。アメリカのクリントン大統領は「ロシア改革の成功はアメリカ合衆国の安全を意味する」とコメントしています。しかし、これには続きがあって、「ただし、ロシア最高会議はウラン取引を追認しないこと」とコメントしたのです。

 様々な政策や会談をエリツィン大統領が行う一方で、最高会議派は反対勢力を増していき、対立は悪化していきました。

 そしていよいよ事件の起こる一カ月前の話になります。
 1993年9月21日、エリツィン大統領は辞令1400号 憲法改革について述べ、最高会議の解散を発表しました。すると議員たちはこの大統領令は違憲だとし、9月22日、最高会議派の議員たちはホワイトハウスに集合し、占拠しました。
 そして9月27日、それに対して大統領派はホワイトハウスの包囲を開始し、翌日9月28日完全に包囲しました。機関銃や戦車が取り囲んだのです。ホワイトハウスの電気と水道も止められました。降伏を余儀なくされている中、一部の議員は地下道で逃亡しました。

 最高検察庁長 V・ステパンコフは当時このようなコメントを残しています。「我々は単なる操り人形だ。今、エリツィンだって状況を変えられない。どうやら彼も今、人質の立場にいるようだ。彼は言われた通りにするだけだ。ホワイトハウスは流血を逃れることはできない。それを考えて、慎重に行動しなさい。1991年、このようにソ連と共産党が破壊されたが、今度は国会も破壊されるだろう。」

 この言葉通り、9月29日最初の銃殺が行われました。
 そして1993年10月4日早朝、大統領側の軍隊が、ホワイトハウスを戦車で砲撃しました。警察の特殊部隊OMONと保安庁のALPHAという部隊が突入しました。ALPHA部隊のザイツェフ少将は突入を拒否し、「出来る限り生きて外に連れ出す」と話したそうですが、OMON部隊は違いました。大勢の人の命を奪いました。
 警察官として偶然ホワイトハウス内に入った人の話によると死体の山があったといいます。しかし、その死体は翌日すぐに消えました。どこに行ったかわかりません。ですから、どれくらいの方が亡くなったのか定かではないのです。
 結果として、生き残った最高会議派の議員たちは犯罪者として逮捕されました。

 この事件の黒幕はエリツィン氏でしょう。
 その後12月にエリツィン大統領は強大な権限のもと、新しいロシア連邦憲法を制定したのです。
 

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2017年05月09日

2017カスピ・サマースクールのご案内


 ロシア・アストラハン国立大学ではロシア語短期留学文化体験プログラム「2017カスピ・サマースクール」参加者を募集しています。

 ロシア南部ヴォルガ川下流にあるアストラハン国立大学では現在、卒業生の長谷川里子さんが日本語講師を務めています。
 長谷川さんは2005年に函館校を卒業後、ウラジオストク本学やJICAから派遣されてキルギスで日本語講師の仕事をするなど、幅広く活躍しています。その様子は、以前このブログに連載されていた「グータラ猫のウラジオ日記」や現在連載中の「グータラ猫のアストラハン日記」からも知ることができます。

 今回募集するプログラムはアストラハン国立大学が開催するもので、ロシア語初心者を対象としています。例年、日本の大学から5~6名の実績があります。
 興味をお持ちの方はアストラハン国立大学ロシア・アジアセンターjapanese.aspu@gmail.comまで直接お問合せください。

 

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2017年05月01日

2017年極東大学オリジナルカレンダー 5月は?

<5月>ワシリー寺院(モスクワ)

 別名ポクロフスキー聖堂、ロシアで最も有名な教会と言っても過言ではないでしょう。赤の広場の南東に位置し、極彩色に彩られた、合せて9つのねぎ坊主(クーポル)を頂く教会です。この純ロシア風の教会は1560年、イワン雷帝により建築されました。

 実際に中に入ってみると、クーポルの尖塔一つひとつが教会になっており、薄暗い迷路のような作りです。階段を上りつつ角を曲がるとそこここにイコノスタス(聖障=左上の写真)が現れます。それが一つの大聖堂となり、この独特の景観を作り上げています。
 

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