一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第7回目の講話内容です。
テーマ:「サンクトペテルブルク」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)
今日はみなさんにサンクトペテルブルクについてお話したいと思います。
私が思うに、第一にこの町はロシアの中でも一番美しく、どの町にも似ていません。ロシアの中では一番ヨーロッパ的な町です。過去150年に渡り、名実ともに歴史の中心でした。ネフスキー大通り、夏の庭園、みなさんは今もプーシキン、ゴーゴリやドストエフスキーが見た景色と同じものを見るでしょう。
第二に、驚くべきことに、人工的に建てられた都市であるということ。それはロシアの歴史上、とてもユニークな町です。
第三に私自身がこの町で学んだということ。80年代後半、レニングラード国立大学の大学院で学んだ、私にとっては忘れられない町です。
サンクトペテルブルクの歴史についてお話しましょう。1700~1721年にロシアとスウェーデンの間に北方戦争が起こり、バルチック海沿岸のイングリア地域で領土が争われました。その防衛のためにネヴァ川河口のザーヤチ島にペトロパヴロフスク要塞が築かれました。
この町はピョートル1世によって聖ペテロにちなんで名づけられました。初めはオランダに学んだピョートルにより、サンクト・ピーテル・ブルフとオランダ風に呼ばれていました。サンクトは聖という意味です。外国語になじみのない者には発音しにくく、ピーテル・グラード(ピーテルの町)、あるいは単にピーテルと呼ばれていました。のちにドイツ風にサンクト・ペテルブルクと改名されますが、第一次世界大戦が始まり、ドイツと交戦状態になると、ペトログラード(ペトロの町)と変わります。
また、ロシア革命後、ソ連の時代になると、レーニンにちなんでレニングラード(レーニンの町)と改名します。1985年にはペレストロイカが始まり、1991年にはソ連が崩壊します。それを受けて、町の名前がまた帝政時代のサンクトペテルブルクに戻るのです。
要塞の建築が終わると、ザーヤチ島から遠くないところに最初の建物を建て始めます。ピョートルは、ペテルブルクをロシアの首都、そして「ヨーロッパへの窓」にしようと考えていたので、西洋にならって建てられました。他のどのロシアの都市でも石を使わない木造建築の町並みが普通であったのに対し、石造のみで建てられることになりました。建設のためにロシア全土から農民たちがペテルブルクに集められました。
1704年から1717年の間には約30万人の労働者がいました。多くの人々が寒さや病気で亡くなったと一般に考えられ、学校でそのように教えられもしましたが、最近の調査により労働者の中に占める死亡者の割合は実は高くなかった、1%以下であったことがわかっています。
1712年にはサンクトペテルブルクがロシアの首都であると宣言され、首都機能がすべてモスクワから移転されました。興味深いのは、北方戦争の終了までこの地域はスウェーデンの領地であり続けたということです。これは、首都がほかの国の領土にあるという、歴史上唯一の例です。サンクトペテルブルクは1918年までロシアの首都であり続けました。今なお、「北の首都」と呼ばれています。
ペテルブルクにはイサク大聖堂、カザン聖堂、血の上の救世主教会、冬宮など美しい建築物や広場がたくさんあります。
ペテルブルクの面積の約7%は水が占める水の都です。19世紀の終わりには48の川と運河、101の島があり、343の橋があったと言われています。
ペテルブルクでは1997年から2014年には歴史的な建物の修復が進められ、壮麗な外観が復元されています。私が学生の頃は灰色の町という印象でしたが、その時以来初めて私が訪れた2012年には、見違えるような美しい色を持った町に変貌していました。