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2014年12月26日

2014年を振りかえって

 いつも「極東の窓」をご愛読いただき、ありがとうございます。今年もまた1年をふり返る時がやってきましたが、今回は特別な年でありました。1994年4月11日に開校した函館校は、20周年という節目を迎えることができました。

 2014年の年明けはソチ五輪の熱気に沸きました。2月のロシアまつりは初めての冬開催、しかも冬を追い払うロシア伝統のおまつり「マースレニッツァ」と同時に行いました。ちょうどオリンピック開幕中でロシアに注目が集まったこともあり、初めてのお客様にも多くお越しいただき、賑わいました。
 学生の間から生まれた「スーシキン」という、極東大函館校の公式キャラクターも誕生し、まつりで販売するために函館高専の学生さんの協力を得てキーホルダーを作成、好評を得ました。

 今年初めての試みとしては、小学生を対象に自由研究に役立ててもらおうと「夏休みマトリョーシカ絵付け教室」を開催。函館市内だけでなく、本州からも参加者があり、3時間かけて白木のマトリョーシカに思い思いの色を塗りました。総合学習や修学旅行で来訪する小中学生も増えました。色鮮やかなロシアの民芸品に触れたり、民族衣装を着て記念撮影をしたり、初めて見るキリル文字で書かれた自分の名札を探し当てたり。キラキラと目を輝かせる子どもたちの表情がとても印象に残りました。こうした地域貢献や生涯学習といった面でも、もっともっと市民のみなさんに親しんでいただける極東大学になれば、と思います。

 函館校の学生についていえば、日本たばこ産業株式会社(JT)の支援による「JT奨学金」が新設され、3名の学生が夏季休暇を利用してサンクトペテルブルクとモスクワにインターンシップ研修に出かけました。極東ウラジオストクには全学生が必修の留学実習で訪れますが、ヨーロッパロシアに出向く機会の少ない学生にとっては、現地の企業で卒業生がロシア語を生かして働く姿を見ることにより、目標を定めたり、就業意識を高めるとてもよい経験となりました。

 また、9月末に行われた初代ロシア領事ヨシフ・ゴシケヴィッチ生誕200年を記念した一連の行事では、ゴシケヴィッチが現在のベラルーシ出身ということもあり、ロシアとベラルーシの両大使がそろって来函し、セレモニーが盛大に行われました。函館校の教員がどの場面でも通訳として働き、交流の一翼を担いました。その際、ベラルーシ国立大学で日本語を学ぶ学生6名も来日し、函館では極東大学の学生が市内観光や浴衣の着付けなど日本文化体験のお手伝いをしたほか、その後京都・東京と旅行を続ける中で、函館校の学生2名が通訳補助として同行するなど、日頃勉強したロシア語を試す機会が与えられました。

 そのほか、社会人となった卒業生が休暇を利用して函館に戻り、オープンキャンパスのお手伝いをしてくれたり、在校生のために自身の就職体験を踏まえながら、今の時期に何を考え、何を身につけるべきか、在学中の過ごし方についてアドバイスをくれるなど、ありがたいこともありました。在校生にとっては身近な先輩から聞く体験談が何より参考になるようです。
ロシア語を学ぶだけではなく、それ以外のことにも視線を向け、知識を広げることの重要性。この学校では授業以外にも様々な行事や課外活動を通じることにより、それが可能です。学生がもっと積極性を持っていろいろなことに挑戦し、そこから吸収してくれることを願います。

 そして開校20年の今年を締めくくる、12月20日に行われた記念行事。ソ連崩壊・新生ロシアの誕生という歴史の大きな節目にNHKモスクワ支局長として現地から日本へ情勢を伝え続けたジャーナリスト・小林和男氏をお招きして記念講演会を開催できたのは、大変光栄なことでした。その時代のロシアウォッチャーにとっては、小林さんはスターです。著作も面白く、始まる前に「小林さんに来ていただけるなんて、夢のようです!」、とお伝えしたら、「嬉しいなあ。それじゃあ、はりきって講演します」、とおっしゃいました。そのお言葉どおり、エネルギッシュで観客の心をつかんで離さない、笑いの絶えない講演会となり、約240名の来場者が口々に「おもしろかったね、よかったね」と言いながらお帰りになりました。

 引き続き関係者にて行われた祝賀会には、函館校20周年と函館日ロ親善協会25周年を祝い、道内、本州、ウラジオストクからもゆかりの人々が駆けつけてくれました。同窓生、旧職員、日本人もロシア人も、どの顔も懐かしい顔、そして笑顔。私自身はここに勤めて15年目ですが、開校時の苦労は並大抵ではなかったでしょう。この20年の間には鬼籍に入った方も何人かおられます。様々な困難を乗り越えての今日であることを心から喜ばしく思うとともに、ここまで函館校を作り上げ、支えていただいた多くの方々にあらためて敬意を表したいと思います。

 来年はまた笑顔で1年を締めくくることができるよう。みなさまどうぞよろしくお願いいたします。


ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子


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2014年12月17日

劇作家・チェーホフ

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。

 テーマ:「劇作家・チェーホフ」
 講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校教授)


 チェーホフは明治以来、日本でもっとも愛されたロシア人作家の一人でしょう。広津和郎や伊藤整、小林秀雄など多くの作家が彼を愛し、論じてきました。また演劇界での影響も大きかった。

 アントン・チェーホフは、南ロシアのアゾフ海沿岸にあるタガンローグで1860年に生まれました。家は祖父の代まで地主付きの農奴でしたが自由を獲得し、父は小さな食料雑貨店を営むようになりました。つまり、チェーホフはまったくの平民であります。この事実は、この作家を理解する上で重要な手掛かりと言えるかもしれません。

 生まれ故郷で中学を卒業したチェーホフは、モスクワ大学医学部に進学します。「医学は僕の正式な妻、文学は恋人」とは、彼がよく戯れに口にした言葉です。医学部入学の頃から、原稿料で家計を支えるため、当時流行していたユーモア雑誌への投稿を始めたのですから、医学とも文学ともほぼ同時に付き合いだしたことになります。
 「恋人」たる文学は、やがて医学を押しのけることになります。滑稽ものの枠に飽き足らなくなったチェーホフは、本格的な文学作品を書き始めます。当時ロシア文学は転換の時を迎えていました。ドストエフスキーとツルゲーネフが相次いで亡くなり、トルストイは宗教へ向かって、大作家たちの時代が終わろうとしていたのです。

 チェーホフが前の時代の大作家たちと趣が違っていたのは、長編小説を書かず、短編を創作の中心としたこと、それに思想性を前面に出さなかったことでしょう。ロシアでは伝統的に、文学にも主義主張を要求する傾向が強かったので、チェーホフの作品は「無愛想、無傾向」だと批判する声も根強くありました。しかしチェーホフは「問題を解決するのが文学者の仕事ではない」と批判を突っぱね、あくまで己の資質に忠実でした。

 1890年、チェーホフはすでに結核におかされた身体で単身サハリン島に向かいました。馬車でシベリアを横断し、流刑地サハリンに渡り、懲役囚人の調査にあたります。サハリンで日本人に会って一緒に写真を撮るなど、日本人にとって興味深いエピソードも残されています。帰りには日本に立ち寄りたかったけれど、コレラが日本で発生しているというのであきらめ、船でマニラやシンガポール、スエズ運河を通ってオデッサに着きます。

 チェーホフの作品は、ロシア文学全体と同じように社会的に抑圧された人や弱者に対するヒューマニスティックな態度や同情、人道的な理想主義があります。事実それが、ロシア文学に対する評価とされています。ロシア文学の持つ一つめの特徴として、自然というものを主体的にとらえようとする、共生しようとする姿勢。二つめは対象を徹底的に追及するラジカリズム、それを通じて人間存在のナゾに迫ろうとする姿勢。第三番目に文学が問題を解決するのではなく、真の問題が何であるかを提示する姿勢。それらを一貫してきたことが、特に19世紀ロシア文学に対する日本を含めた一般的な見方であり、ロシア文学の本道として世界の人々に読まれてきた理由だと思います。

 チェーホフはサハリン旅行を終えて、モスクワの南のメリホヴォ村に移り住み、作家として非常に盛んな時期を迎えます。それと同時に防疫医としてコレラ予防に協力したり、小学校を3つも建てたりして地域でも積極的に活動しました。

 1897年に大喀血、翌年クリミヤ半島のヤルタに治療目的で転地し、珠玉の恋愛小説「犬を連れた奥さん」など、チェーホフ文学の完成度の高さを示す名作を残します。また晩年には戯曲にも新しい立場を開き、劇団モスクワ芸術座で1898年に「かもめ」を上演して大成功を収めます。それ以後、戯曲の執筆が本格化し、看板女優であるオリガ・クニッペルと結婚、妻に主要な役をあてる形で「ワーニャ伯父さん」、「三人姉妹」、「桜の園」を次々に書きます。これらの戯曲に共通の特徴として、唯一の主人公がいないことがあげられます。大きな事件はどれも舞台の外で起こり、観客の前では起こらないことも特徴の一つです。チェーホフの小説にも通じる、静かで動かない印象を与えます。
 最後まで新しい試みに挑戦した彼の戯曲は、いまだにその魅力を失わず、世界各地の劇団で上演されています。

 ヤルタでの療養にもかかわらず結核は進行し、チェーホフは1904年7月、転地先のドイツの鉱泉地バーデンワイレルで妻に看取られて亡くなります。享年44歳、日露戦争の真っ最中でありました。

 最後にニキータ・ミハルコフ監督の映画「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」(1977年)をビデオで鑑賞しましょう。これはチェーホフが大学時代に書いた処女作の戯曲「プラトーノフ」を中心に、いくつかの作品を組み合わせたもので、チェーホフの劇を見事に映画化した作品です。チェーホフ喜劇の笑い、リズム感、居心地の悪い沈黙をこれほど鮮やかに軽妙に映画化した作品はないと言われています。



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2014年12月05日

FMいるか出演のお知らせ

 ロシア極東連邦総合大学函館校は今年開校20周年、同じく函館日ロ親善協会は設立25周年を迎えました。これまでのみなさまのご支援に感謝する意味を込めて、12月20日(土)には、ジャーナリスト・小林和男氏(元NHKモスクワ支局長)をお招きし、記念講演会「ロシアで学んだダメもと精神」を開催するほか、この間の活動をまとめた記念誌「20年の歩み」を発行する作業を現在進めています。

 これに関連して、函館校同窓会長であり函館日ロ親善協会の事務局長である小柏哲史さんと事務局職員がFMいるかに出演します。

 FMいるかは函館地域のコミュニティー放送ですが、「サイマルラジオ」というシステムでインターネットやスマートフォンがあれば世界中どこからでも聴くことができます。詳しくはいるかのホームページをご覧ください。


FMいるか「暮らしつづれおり」
「人ネットワーク」
平成26年12月10日(水) 11:10~11:30
出 演:函館日ロ親善協会 事務局長 小柏哲史
ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大渡涼子

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