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2011年12月27日

2011年のこと

 2011年もまもなく終わろうとしています。「極東の窓」には、今年も学生たちがウラジオストクから、択捉島から、現在進行中の街の様子を伝えてくれました。

 地元のラジオ局・FMいるかで昨年4月から毎月第3水曜日に放送している「身近なロシア~ベリョースカクラブ・ラジオ版」は、言わば“身近なロシア探訪”といった内容で、本校教員を中心に、おもに函館在住でロシアにゆかりのある方々に出演をお願いしています。
 「極東の窓」ではその予告を報じるのみですが、函館市内でしか聴けないのがもったいないくらい、どなたも話題が豊富でおもしろくて、毎回放送が楽しみです。

 さて、2011年のことを振り返るとき、不幸な震災を抜きには語れないでしょう。あの日、函館校では翌日の卒業式の準備をしているところでした。長く続く不気味な揺れにいつもの地震と違う不安を感じ、外に出て様子をみては、また仕事に戻る、の繰り返しでした。校舎は坂の上にあるため、直接津波の被害は受けませんでしたが、事務室の窓からは波が岸壁を乗り越えて街を浸していく様子がはっきりと見えました。
 翌日の卒業式も予定どおり行いましたが、夜に同窓会パーティーが行われた駅前のホテルでは1階が浸水し、3階のパーティー会場の両脇が近隣住民と函館駅で足止めを余儀なくされた人びとの避難所になるなど、卒業生にとっては混乱の中での旅立ちとなりました。

 今年大きな節目として、日本のハリストス正教会の基礎を作った聖ニコライの来日150年の祝賀がありました。聖ニコライの日本での足跡は1861年7月、ここ函館の地に降り立ったところから始まったもので、函館ハリストス正教会では様々な記念行事を予定しておりました。ところが、あの震災で東北地方の多くの教会や信徒が被害に遭ったため、急遽すべての行事は取り止めになりました。
 しかし、当初函館校の講堂を会場とし、はこだてロシアまつりと共同で開催する予定だった、横浜国立大学 長縄光男名誉教授による記念講演会と函館ハリストス正教会聖歌隊のコンサートだけでも何とか実現できないものかと関係者に掛け合い、多くの人びとの協力により、その二つを実現することができました。
 聖歌隊は聖歌やロシア民謡のほか、阪神大震災後に作られ、地震に負けず立ち向かう強い決意を示した合唱曲「しあわせはこべるように」を選び、東日本大震災で傷ついた被災地へのメッセージとして歌いました。生き残った者たちが亡くなった方の分まで毎日を大切に生きていこう、という歌声は、多くの聴衆の心に響きました。
 
 同じく7月に開催された「ロシア文化フェスティバルIN JAPAN」のオープニングが函館で開催されたのも、そもそもは聖ニコライ来函150年を記念してのことでした。市内各所で様々な催しが展開されましたが、市民が無料招待されたピャトニツキイ記念国立アカデミー・ロシア民族合唱団の迫力のコンサート、ボリショイサーカスの鍛え上げられた技の数々など、普段函館のような地方都市では見ることができない素晴らしいものを、たくさん見ることができました。
 ピャトニツキイ合唱団のコンサートは途中休憩なしの2時間ノンストップ、日本の合唱と違い、譜面も持たずに歌い踊り続けます。その記憶力、その声量と体力に、観ている私たちのほうが休憩を取りたいくらいに圧倒されてしまいました。
 終了後、ある人が言ったのには、「このすごい体力、よくこの人たちに日本人が戦争で勝てたものだ」。日露戦争を描いたNHKドラマ「坂の上の雲」が放映されましたが、ドラマのクライマックス、旅順攻防の二〇三高地激戦のシーンは、実は昨年の秋、函館で撮影されたものです。津軽海峡を望む景色が、旅順に似ているのだそうです。

 日本海を挟み、激しく日露が激突した明治期から100年以上の時を経てもなお、両国間には問題が山積していますが、ニコライが戦時にも日本に留まり守ろうとしたもの、それを考えるにも、いい機会です。

 今年11月には、函館ハリストス正教会の敷地内に聖ニコライのイコンが設置されました。ハバロフスクで制作されたこのイコンは当初、来日150周年記念行事に合わせてもっと早く到着する予定でしたが、震災の影響で遅れたため、ようやくの設置となりました。来年は聖ニコライ没100年、ニコライは困難を乗り越え、ふたたびこの地に戻り、函館の街をみつめています。来年こそ、よい年になりますように。

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2011年12月19日

工事現場ではハングルが

 町の至る所で工事が行われている。主に道路工事と建物の外装工事。

 道にパネル状の敷石を並べたり、切ったりしているのはロシア人ではない。現場で指示しているのも普通はロシア人ではない。外装工事の為に足場を組んでいるのはロシア人ではない。外壁の古いタイルを剥がしているのも、下でヘルメットをかぶって指示しているのもロシア人ではない。第一、作業員はヘルメットも安全ベルトもしていない。

 ロシア人はどこに居るのか。時々、ネクタイ、背広姿の人がやってきて、迷彩服を着た現場監督らしき人と何やら話をしている。いました、ロシア人。トラックで資材を運んで来る人、ロシア人。ユンボの上に居る人、ロシア人。現場では何かそれなりの資格を生かして働いているか、役人か、ともかくあまり危険でない所に身を置いている人、それがロシア人。

 後で知ったことだが、韓国からの留学生は工事現場の人と話をしないとの由。北の人と話すのは危険らしい。

 ロシア人はいわゆる“3K”の現場にはあまりいないようだ。資源を売ったお金で、外国人を雇い、外国の製品を買って暮らす生活習慣を身に付けたらしい。はて、この国でいわゆる製造業は育つのだろうか。スーパーに並んでいる商品は中国製、韓国製、日本製が多い。街で見かける車は、ほとんどが日本製と韓国製と、たまにドイツ製。ウラジオストクに自前の自動車工場ができたらしいが、それはどこを走っているのだろう。自国の製品を買わせることまでは強制はできまい。
 市民はしたたかに生活している。特に女性は身を美しく見せることに多くの神経を使い、デコボコ道でもかかんにハイヒールで闊歩している。他人に合わせようなどとは考えていないらしく、美しく自己を表現している。実に魅力的だ。
 一ヶ月の間に、工事現場のハングルと女性のハイヒールの音は、私には、あまり違和感なく響き始めた。

ロシア極東連邦総合大学函館校 ロシア語科2年 畠山 重人

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2011年12月16日

12月の「身近なロシア」は?

 「身近なロシア~ベリョースカクラブ・ラジオ版」、12月21日(水)の放送は、船矢美幸さんの登場です。
 船矢さんは函館初の民放アナウンサーであり、現在も朗読奉仕会の活動に力を入れるなど、とても多彩な女性です。
 函館校でも、ウラジオストクからロシア人留学生が来た時には、華道の教授として指導をお願いしており、何かと縁がある方です。

 また、“船矢深雪”のお名前で句集を出版するなど、俳人としても活躍されています。
 ロシアに関する句もあり、2006年にはサンクト・ペテルブルクで日本の出版社が開催した俳句の展示会にも出席したそうです。世界で一番短い詩、俳句をロシア人がどう捉えているのか。ロシア人の生の反応や、ペテルブルクの街の様子についてお話していただきます。

 
FMいるか「暮らしつづれおり」内
「身近なロシア~ベリョースカクラブ・ラジオ版」
平成23年12月21日(水) 10:15~10:30
出 演:船矢美幸
テーマ:ロシアで俳句

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2011年12月13日

俳優ユル・ブリンナーの生涯

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の内容です。

テーマ:「俳優ユル・ブリンナーの生涯」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)

 
 ソ連時代、ユル・ブリンナーの映画はとても有名でしたが、彼がロシア生まれということを知っている人はほとんどおらず、ロシアでそのことが知られるようになったのは、ここ20年くらいのことです。 今日はみなさんに俳優ユル・ブリンナーの生涯についてお話したいと思います。
 あまり知られていないことですが、ユル・ブリンナーはウラジオストクの出身です。生まれた家が今もウラジオストクにあり、私もよくこの前を通っていましたが、そこがユル・ブリンナーの家とはまったく知りませんでした。今はユル・ブリンナーの生家であることを示すプレートが飾られています。

 1865年夏、ジュリ・ブリンネル(ユル・ブリンナーの祖父)と言う名の16歳の青年が中国の上海から日本へ向かう船に乗りました。彼はスイスにある自分の家から数ヵ月かけて、極東にやってきたのです。
 上海から横浜に渡った後、ジュリは横浜にあるイギリスの貿易会社で数年働きました。そこの経営者が亡くなったとき、会社と資産はジュリに引き継がれました。まだ若い企業家は日本人女性と結婚し、子供も生まれましたが、そのうち家族を捨ててウラジオストクへと移りました。

 ウラジオストクで彼はユーリー・イワーノヴィチというロシア名と父称を得ました。すぐに彼はロシア人女性ナタリヤ・クルクトワと結婚し、3人の娘と3人の息子が生まれました。
 息子のうちの一人、ボリス(ユル・ブリンナーの父)はウラジオストクの高校を卒業後、ペテルブルク大学に入学しました。そこで出会ったウラジオストクの医者の娘と結婚し、娘が生まれました。
 若い家族はウラジオストクに戻り、そこで1920年7月11日、息子が生まれるのです。その男の子は祖父と同じくユーリー(ユル・ブリンナー)と名付けられました。
 1924年、ボリスは仕事でモスクワに出かけ、そこで舞台女優エカテリーナ・カルナコワと出会います。ボリスはまもなく最初の妻と離婚してエカテリーナと結婚し、彼女とともに中国のハルビンに移ります。ユルはハルビンのYMCAの学校に入学します。

 1935年、14歳のとき、ユルは中国からパリへ行き、ここで有名な歌手アリョーシャ・ドミトリーエヴィチと知り合いになります。この年の7月15日、ユルはパリのキャバレーで歌手デビューします。ドミトリーエヴィチのギター・アンサンブルでジプシーの歌を歌いました。
 ジプシー・アンサンブルの仕事の後、ユルは2年間サーカスでアクロバットの仕事をしていました。
ある時、高いところから落下し、骨折の大けがを負います。その痛みを和らげるために病院でアヘンを与えられ、すぐにそれが習慣化してしまいました。
 退院後、中国やベトナムより密輸した麻薬を船員から買うようになりました。そして麻薬中毒を取り除くため、1年間スイスの専門のクリニックに入りました。

 1938年パリに戻った彼は、ロシアの劇場に入って勉強します。戦争が始まると、ユルは中国へ行き、父親と彼の妻、エカテリーナに会います。舞台女優であったエカテリーナが有名な舞台演出家ミハイル・チェーホフ(作家アントン・チェーホフの甥)に推薦状を書き、1941年、ユルはチェーホフのいるアメリカの演劇学校に入りました。そこで本名のユーリー・ブリンネルをユル・ブリンナーとアメリカ風の読み方に変えました。
 チェーホフの学校でユルは、衣装や舞台装置を運ぶトラックの運転手をしながら俳優の勉強をしました。そして1941年12月2日、俳優として人生初の役を演じました。
 はじめは英語の発音がむずかしく、数ヵ月間、彼はフランスのラジオ局「アメリカの声」でアナウンサーとして働きます。そして徐々にロシアなまりから解放されました。

 1943年、突然ユルは映画スター、ヴァージニア・ギルモアと結婚します。そしてユルは有名な俳優となりました。ほかにもジュディ・ガーランド、マレーネ・ディートリッヒ、マリリン・モンロー、イングリット・バーグマンといった有名女優たちと浮名を流しました。
 もちろんこのロマンスは、彼の妻を喜ばせませんでした。20年後に二人の共同生活は終わりました。その後の人生で、ヴァージニアは二度と結婚しませんでしたが、ユルはあと3回結婚しました。

 1946年、ユルとヴァージニアはニューヨークに移りました。ここでユルはレストランの運転手やドアマン、写真のモデルとして働き、夜はナイトクラブで歌を歌いました。1946年12月、息子が生まれました。翌年、夫妻はテレビの仕事を得て、ユルは同時に劇場で役者の仕事ももらいました。彼は全米で公演するようになりましたが、それは二番手的な役でした。
 その頃、有名なブロードウェイの作家、ロジャース&ハマースタインがミュージカル「王様と私」を書きました。女優のメアリー・マーティンがユルを王様役に推薦し、この瞬間にユルの栄光が始まりました。

 1951年2月26日にミュージカルが初演されました。ユルは役に自分の極東での子ども時代の思い出や自分の歌の能力、アクロバットのスキル、ミハイル・チェーホフの下で学んだことなどを取り入れました。  ほかの出演者が普通の衣装なのに対し、ユルは肌を露出し、裸足で演じました。日本への憧れも強く、顔には歌舞伎を想像させる化粧を施しました。
 初演は成功を収め、彼は30年間で4633回「王様と私」に出演しました。

 1956年には映画版の「王様と私」を制作し、1957年に彼はこの役でオスカーを獲得しました。「モーゼの十戒」ではファラオを演じました。1958年にユルは黒澤明の「七人の侍」をリメイクしようと決め、1959年に作業を開始、映画「荒野の七人」を制作しました。1960年に公開され、世界的に、そしてソ連でも素晴らしい興行成績を収めました。
 「華麗なる一族」の後、映画人生にピリオドを打ち、次第にユルは観客からも忘れられようとしていました。
 1958年からはスイスに住んでいましたが、1972年にアメリカに戻り、テレビシリーズ「アンナと王様」に出演しました。これは興行的には不成功に終わりましたが、ユルは再び好きな役を得て幸せでした。

 1977年5月18日、長い間中断していた「王様と私」をブロードウェイで再開させました。この瞬間に、ユルの栄光は復活しました。その後8年間ステージに立ち、常に何か新しいものを役に取り入れました。
 1983年4月には上演4000回を数えましたが、その喜びを打ち消す出来事が起こりました。彼は自分が肺がんを患っていることを知ったのです。15歳の時からヘビースモーカーで、1日に2~3箱も吸っていました。彼は50歳でタバコを止めましたが、もうすでに遅かったのです。

 1985年7月半ば、ユルはトニー賞(アメリカの演劇・ミュージカルに贈られる賞)を受賞し、同じ月の30日がブロードウェイでの最後の上演となりました。 
 ユルは自分の人生がまもなく終わることを知っていました。そして最後の日々をテレビでの禁煙キャンペーン活動にささげました。
 「私が死ぬのはタバコをたくさん吸ったからだ。これを見ているみなさんに言いたい、運命をもてあそぶな、と。」―このテレビCMは彼の死後、放映されました。彼が亡くなったのは、1985年10月10日のことでした。
 これが俳優ユル・ブリンナーの、波乱に満ちた生涯です。

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2011年12月09日

ロシア歴史タイムライン

 先日行われた、はこだて高等教育機関合同研究発表会「HAKODATEアカデミックリンク2011」で学生が作成した日露史年表「ロシア歴史タイムライン」を校内の階段に展示しています。


 ロシア1500年の歴史をたどる年表に日本の歴史をリンクさせ、両国の時間の流れを同時に体感する年表で、12枚の大作です。


 2階から20世紀が始まり、3階に昇るにつれて5世紀までさかのぼるようになっています。


 ロシアの元ができ始めた6世紀頃、日本では仏教が伝来があったことなどを比較できるようになっています。20世紀はロシア帝国からソ連へ、そして新生ロシアへと変化した激動の時代であり、写真も書き込みも多くなっています。


 余白はたくさんあります。まだまだ書き込んで、みんなで完成させましょう!

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