今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅲ
日露戦争後の10年間は、日露関係の「黄金時代」と言われました。しかし、その後、第一次世界大戦、ロシア革命、国内戦争、そして日本をはじめとする米・英・仏・伊など連合軍によるシベリア出兵があり、さらに時代が下り、1930年代半ば以降になると、スターリンの粛清の嵐が吹き荒れ、ウラジオストクで商売をしていた日本人は次々と引揚げてゆきました。1937年には極東大学の東洋学者がいっせいにスパイ容疑で逮捕され、1939年、同大学はついに閉鎖に追い込まれてしまいます(1956年再興)。最後まで残っていた浦潮本願寺の住職(1937年引揚げ)、そしてついには日本総領事館の館員も終戦の前年の1944年にはウラジオストクを後にしました。
ソ連時代閉鎖都市であったとのイメージが強いウラジオストクですが、閉鎖都市となったのは、1952年のことです。外国人の立ち入りは禁止され、一般のロシア人も立ち入りが制限されていました。函館市が市制施行50周年を迎えた1972年(昭和47年)、函館市は「市民の船」(ソ連船籍)を仕立て、300人近くの市民がソ連を訪問しますが、この時訪問したのは、ロシア極東で外国人の立ち入りが許可されていた港町ナホトカとハバロフスクでした。
ソ連市民には、ペレストロイカ時代の1989年に、そして外国人に開放されるは、ソ連邦崩壊の翌年、1992年のことでした。同年、市制施行70周年を迎えた函館市は、ウラジオストク市との間で7月28日、姉妹都市提携を結びました。そして提携10周年に当たる2002年には、市立函館博物館とウラジオストクにある国立アルセニエフ博物館との間で博物館提携が結ばれました。また、1994年4月には、ウラジオストクにある極東国立総合大学(ソ連時代はロシア極東地域にある唯一の総合大学。現在、学生数4万人を抱える。)の分校が函館に開校しました。現在、函館とウラジオストクの交流は、市、博物館、大学と、様々なチャンネルを通して活発に行われています。
2012年のAPEC(アジア太平洋経済会議)の開催地に決まったウラジオストクでは、市街地から30キロほど離れた空港から街までの道路の拡幅工事、金角湾横断橋、そしてAPEC首脳会議の会場となるルースキー島への横断橋の建設など、大規模なインフラ整備が進んでいます。空港から街に向かう途中、右手にあった森の木々がほとんど伐採されてしまい、アムール湾が遠く見渡せるようになった様には驚かされました。そしてこれまで何度も計画倒れで終わっていた金角湾横断橋建設が、現実のものになろうとしています。ウラジオストク市民の悲願でもあり、完成すればウラジオストク名物の車の大渋滞が解消されるに違いありません。ただし、建設中の今は、大渋滞をさらに増長させているようで、渋滞のひどい市内中心部では、路面電車を走らせないようにしています。
戦略的に重要なアジア太平洋地域との関係強化を目指すロシアの動きには、今後も目を離せません。しかし、政府のテコ入れで大きく変貌しようとしているウラジオストクの表面的な姿にばかり目を奪われるのではなく、150年に及ぶ歴史の光と影、さらには函館との古くからの接点にも目を向けていただきたいものです。そこで初めてウラジオストクの底力や真の魅力を実感することになるでしょう。
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