今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅰ
今年7月、ウラジオストクは、開基150年を迎えました。そこで、「開基150年を迎えたウラジオストクと函館の交流関係」についてまとめてみました(参考:原暉之著『ウラジオストク物語』三省堂、1998年)。
まず、ウラジオストクの概要ですが、中国、北朝鮮と国境を接する沿海地方の主都で、統計上の人口は約60万人、極東最大の都市です。水産業,鉱業,木材加工業、港湾や空港が発達した交通の要衝で、太平洋艦隊総司令部の所在地として知られています。ウラジオストクは、北に700キロほど離れたハバロフスクと良く比較されますが、ハバロフスクが極東連邦管区の本部が置かれたロシア極東の政治の中心地であるのに対して、ウラジオストクは、ロシア極東の経済、文化の中心地と言って良いでしょう。
ウラジオストクは、海と小高い丘に囲まれた坂の多い街で、地形的に函館とよく似ています。港町特有の活気に溢れており、加えて、街には極東大学、極東工科大学、ウラジオストク経済・サービス大学などと、多くの大学や研究機関が集中しているため、街を歩いていると若者の姿が目立ちます。メインストリートには、ヨーロッパ風の重厚で美しい石造りの建築物が立ち並んでいるため、ウラジオストクを訪れる日本人の多くが、どことなく親しみやすく、それでいて文化の薫り高い「美しい街」だといった印象を持つようです。
私自身にとってのウラジオストクは、1998年から3年間、日本の総領事館の専門調査員として勤務した地であり、極東大学の先生や博物館の学芸員の中には、今なお親しくお付き合いいただいている人たちもいるため、この街には、人一倍強い愛着を感じています。
さて、ウラジオストクの街の歴史は、まだ150年と比較的新しいものです。150年前と言えば、函館が貿易開港した1年後のことです。1860年7月2日、ロシアの軍用輸送船「マンジュール号」が金角湾に到着した日がウラジオストク開基の日(誕生日)です。同年11月、北京条約が結ばれ、中国(清朝)とロシアの共同管理地であった現在の沿海地方に相当する地域(ウスリー川以東、アムール川以南)が、ロシアの範図に加わりました。それまでは、中国人から海參崴(ハイサンウエイ=「ナマコ湾」、「ナマコの生息する険しい断崖の地」)と呼ばれ、中国人が夏場に海産物を取るために番屋を構える程度の場所でしかありませんでした。
開基直後のウラジオストクは、周囲に大きな街もなかったため、函館まで食料品を買い付けにきた船(「グリーデン号」)があったことが当時の記録からわかっています。また、函館から煉瓦などの建材が、初期のウラジオストクに運ばれていったようです。
ウラジオストクに哨所ができる以前のロシア極東の拠点は、アムール川河口に位置するニコラエフスク(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)でした。ここは、11月から翌年4月までの半年間、港が凍結し、船の出入りができませんでした。一方、ウラジオストクは、深い入り江を持つ「天然の良港」で、しかも、ほぼ1年を通じて不凍港という、ロシアにとって戦略的に非常に大きな魅力を持ちあわせた場所でした。時の皇帝ニコライ一世は、ここを「ヴラジェイ ヴォストーコム」(「東方を支配せよ」)と命名します。これがウラジオストクの語源です。
ここに民間人も暮らし始めるのは1870年代以降のことで、1875年に市制が敷かれました。帝政ロシア時代の首都サンクトペテルブルグから1万キロも離れた極東の地に、人を定着させ、安定的生活を確保するのは容易なことではありませんでした。そのための策として採られたのが、1909年までの約40年間続いた自由港(ポルト・フランコ)制で、アルコール類の一部を除き、関税はかけられず、商売も自由に行われました。そのおかげで、20世紀初頭のウラジオストクは、ドイツ人、近隣からの中国・朝鮮・日本人など、外国人が多数暮らす国際都市として栄えました。
外国人の中で最も数が多かったのは中国人で、肉体労働(苦力)に就き、この地に移住した朝鮮人はウラジオストク郊外で農業を営み、日本人の場合は、初期の頃は大工、左官、洋服仕立、靴職などでしたが、日本人が増えるに従い、米・味噌・醤油を扱う商店、旅館、日本料理屋、洗濯屋、銭湯、写真屋など、日本人相手の商売を営む人が中心となってゆきました。大半は、長崎をはじめとする九州の出稼ぎ労働者で、女性は、いわゆる「からゆきさん」でした。20世紀初頭には、最大で3000人とも5000人もの日本人が暮らしていたと言われており、領事館、日本人学校、西本願寺系の浦潮本願寺が開設され、日本と変わらぬ生活が営まれていたのでした。そして日本人は、親しみを込めて、「浦塩」あるいは「浦潮」の名で呼んでいました。
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