私と函館日ロ交流史・・・・「はこだてと外国人居留地:ロシア編」を作成するまで
憧れの地であった函館で教員生活を送りたいという願いを抱いて、美瑛高校から上磯高校に赴任したのは1999年(平成11年)4月ですから、函館地域での生活は10年目を迎えました。
もともと、幕末から明治維新期の外国との関係に興味を持ち、30年前頃から箱館開港史について研究をはじめました。当初は横浜でのイギリスとの関係から始めたのですが、“北海道に生活していながら、横浜でもないだろう、函館があるじゃないか”という思いでズーと遠くで函館を見つめてきました。
函館への赴任の思いを加速させたのは、函館日ロ交流史研究会の設立とロシア極東国立総合大学函館校の開校でした。このころから函館とロシアが自ずと2重写しになってきました。函館日ロ交流史研究会には1998年、市史編纂室を訪ね、亡くなられた清水恵さんに入会を申し込んだ記憶があります。当時は清水さんが函館の日ロ交流史研究を精力的に進められていて、函館日ロ交流史研究会の一つの黄金時代だった気がします。
この頃から、私の関心は開港期よりも半世紀以前のラクスマン来航からゴロヴニン事件の頃に移っていましたが、函館日ロ交流史研究会や清水さんの著作に学ぶなかで、20世紀初頭から30年代にかけての露領漁業時代に函館がウラジオストクとカムチャッツカ方面の中継港として今日では想像できない活気があったことを知りました。
そのことは、函館のシンボルともいうべきハリストス正教会復活聖堂のように幕末開港期から始まる史跡でも今日の姿になったのは、1916年という露領漁業の全盛期であったことに象徴されています。今回のマップ掲載の史跡でも、旧ロシア領事館、旧シュウエツ邸、旧リューリ商会店舗、旧堤商会事務所など現存するものはほとんどこの時期のものです。
ただ、露領漁業の先駆者が、幕末の箱館でニコライにロシア語を学んだ合田光正という人物であったこと、そのニコライが箱館に来た重要な動機がゴロヴニンの『日本幽囚記』を読んだこと、これらを考えると函館日ロ交流史には浮沈はあるものの、切れ目なく一本の糸が貫いていることが読み取れます。この辺は、リーフレットの「はこだてとロシアの交流の歴史」、「はこだてとロシアの交流史・ミニ年表」や参考資料として函館日ロ交流史研究会HPに掲載の「函館に関わる日露交流史」(2005年「日露修好150周年回航事業」船上セミナー)などをご覧頂ければと思います。
函館日ロ交流史研究会でお迎えした、函館で育ったガリーナさんやオリガさんのお話を聞いても戦前は市民レベルのロシア人との交流が連綿とあり、むしろ戦後の米ソ冷戦期の交流断絶のほうが深刻な気がします。
ところで、私は上磯高校に赴任すると同時にロシア極東国立総合大学函館校のロシア語市民講座に通い始めました。それまでロシア語を学んだ経験はなく、50の手習いで、函館日ロ交流史研究には必須条件と思い、苦しみながらも楽しく学習を続けてきました。5年目にユーラシア協会の講座に移りましたが、ロシア極東国立総合大学函館校の諸先生には今も感謝しています。一昨年、目標としてきた、あるロシア語の研究論文(露米会社に関するもの)を翻訳しました。最近は幕末開港期に研究関心を集中しているので、この時期のロシア語史料に挑戦しようかと・・・・私の場合、こうでもしないとロシア語学習のモチベーションが低下してしまうのです。目下、NHKの講座で錆び付かないように心がけていますが、かなり錆び付いています。
昨年、数人の同じ関心を持つ仲間と「はこだて外国人居留地研究会」を設立し、「はこだて外国人居留地マップ」を作ろうという構想も出てきました。たまたま2009年の「開港150周年」に出会い、今年は、函館市「函館におけるロシア年事業」もあり、ロシア編から作成しました。ロシア編は函館日ロ交流史研究会の中心メンバーでもある倉田有佳会員から、とくに20世紀の事項について全面的な協力を得ました。本来、函館日ロ交流史研究会でも計画していたことでもあり、開港期を中心にという条件はありましたが、新しい研究会の息吹きで完成にこぎつけたことを嬉しく思っています。
最後に、サミットでのロシア大統領の来函はかなわず残念でしたが、市民レベルの日ロの日常的交流がなければ、国レベルの理解も進まないのも事実です。このマップ・ロシア編が市民レベルの日ロ交流の一助となればと願うものです。
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