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2017年06月14日

『白痴』について

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。

テーマ:「『白痴』について」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(准教授)

 私がなぜドストエフスキー作の『白痴』をテーマに取り上げたかと言うと、この作品の主人公ムイシュキン公爵が好きだからです。『白痴』は難しい話ですけど、皆さんに私の想いを伝えたくて選びました。

 「白痴」はどういう意味か知っていますか?意味は愚かな人、世間を知らない人という意味ですね。ここでいう「白痴」は主人公であるムイシュキン公爵を指しています。

 それでは『白痴』に触れる前に、まず作者のドストエフスキーについて知りましょう。
 彼は1821年、モスクワで生まれました。兄弟が多い家庭でした。そのため彼の父が医師であっても裕福とは言えませんでした。彼が15歳の時に母が、16歳の時に父が亡くなりました。当時は、ソ連時代ではありませんので大学などに行くためには学費を払う必要がありました。ドストエフスキーはお金が無かったので、モスクワの高い学費が払えませんでした。そのため、サンクトペテルブルクに移り、工兵学校に行きました。卒業後は少尉として働きましたがすぐに辞めてしまいます。もちろん、仕事をしなければ収入はありませんので、彼は貧乏でした。補足しますが、彼はギャンブルが好きでした。働いているときもお金が入るとすぐに使ってしまいましたから、借金もありました。彼はただの貧乏ではなく、ものすごく貧乏でした。
 そして書いたのが小説『貧しき人々』です。この作品でドストエフスキーの名前は有名になりました。
 その後の小説があまり売れなかったのもあり、次第に政治運動に目覚めていきます。1849年、レジスタンスとして仲間と共に逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞に収監されました。彼はこの時、死刑判決を受けるのですが刑は執行されませんでした。直前で取りやめになったのですが、人生で一番長い10分間だったそうです。その時の心情は『白痴』にも反映され、描かれています。
 刑は執行されなかったので、彼はシベリアに送られて囚人として4年間過ごしました。
 出所後は、たくさんの小説を書きました。けれどやはりお金は持っていませんでした。またすぐにギャンブルに使ってしまうのです。でもその経験さえも彼は小説にしました。
 彼は2度結婚します。1人目の妻は病気で亡くします。2人目の妻は年の離れた速記者でアンナといいます。アンナとの間には4人子どもをもうけましたが、2人は生まれて間もなく亡くなり、あとの二人も60歳を迎えることなく亡くなりました。彼のギャンブルのこともあり、結婚生活は平穏なものではなかったと思いますが、ドストエフスキーはアンナのおかげで幸せだったと言えるでしょう。

 さて、ドストエフスキーが『白痴』で描きたかったのは何でしょう。
『白痴』の主人公ムイシュキン公爵は、無知な人ではありますが、優しく、まっすぐな人柄です。白痴の意味に愚かな人も含まれますが、何も知らない人が愚かな人というわけではありません。ムイシュキン公爵は善の象徴なのです。誰からも愛される人間として描かれています。そして彼が愛した人は美の象徴であるナターリャです。ナターリャのことを同じように愛し、彼のライバルになるのがロゴージンです。
 今日は、最後に彼らの出会いとそして作者のドストエフスキーが体験した処刑間際の描写について映像で触れてみましょう。
 映像は2003年にロシアでドラマ化されたものです。

 私はドストエフスキーの作品が好きですが読むと少し気持ちが暗くなります。それは映像を見ても分かるように考えさせることが多いからです。でもこれはとても良いことです。皆さんも、本を読むのが難しかったら映像でいいですから、ぜひ見てください。
 

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2017年06月02日

ペテルブルク・モスクワ旅行記6

<6日目>
 いよいよインターンシップ最後の日、今日はシェレメチェヴォ空港そばの東洋トランス社に伺う。ロシアCIS諸国に強みを持つ物流の会社だ。
 ホテルから地下鉄でベラルースカヤ駅に移動し、鉄道駅のベラルーシ駅からアエロエクスプレスの赤い車両に乗る。二つの駅は隣り合っているので乗換えはスムーズだ。
 列車は30分ごとに走っていて、空港までの所要時間はおよそ35分。ペテルブルクでの遅刻を繰り返さぬよう、早めにホテルを出た。
 アエロエクスプレスのチケットは券売機でも買えるが、窓口で買おうと試みた。「10時発のシェレメチェヴォ空港行きをください」、しかし「その便はまだ早い、発売前だ」と断られてしまう。こういうところは意外と厳密。30分待合室で過ごし、ようやくチケットを手に入れることができた。

 

 エクスプレスと言いながらも、全然エクスプレスではなかった。ベラルーシ駅を出発するとすぐにのどかな田園風景が広がり、ゆっくり走る鈍行列車の印象だ。

 

 空港の改札には東洋トランスモスクワオフィスの日本人駐在員の方2名が迎えに来てくださり、車でオフィスに向かう。この会社は函館校の卒業生が過去何人も就職し、現在も1名がモスクワに駐在中。しかしちょうど日本に帰国中で卒業生には会えなかったので、ほかの社員の方に社内を案内していただく。会社概要の説明を受け、ヘルメットを被り倉庫を拝見。日本の飲料メーカーの自販機がずらりと並んでいる姿は壮観であった。モスクワで自販機を売るということは、それに入れる飲料も日本から輸出できるということ。学生たちは前日、マネージ広場で見かけた自販機で飲み物を買っていたので実感できたようだ。日本と同じ缶コーヒーやジュースをルーブルで買うと、日本語で「ありがとうございます」と自販機がしゃべる。

 
 
 ふたたび空港まで送っていただいた後、アエロエクスプレスに乗り、今度は地下鉄パヴェレツカヤ駅に向かう。午後からは双日ロシア会社を訪問する。そこで私たちはまた道に迷ってしまった!地下鉄パヴェレツカヤ駅と鉄道パヴェレツキー駅は大きな道路をはさんで向かい合っているが、その二つを混同し、いただいた地図に従って進んだつもりがまったくの反対方向に行ってしまったのだ。ここでも人々は親切にロシア語で、時には英語で道を教えてくれた。大幅に遅れてようやく双日社に到着した。

 ここでは日本から駐在している社員の方のお話を伺い、商社という大きな仕事の一部について教えていただいた。双日はスバル自動車の輸入卸販売代理店の仕事もしている。ペテルブルクでもモスクワでも、トヨタや日産の自動車をよく見かけた。マツダのテレビCMも見た。しかしスバル車は全然見かけなかったので質問してみたところ、スバリストという熱烈なファンがいて、モスクワのような都会よりも郊外の悪路で活躍しているのだとか。
 お話の後で日本に留学した経験があるという若いロシア人スタッフ3人の方ともおしゃべりすることができ、おすすめの観光名所などを聞いた。

 ひととおりの企業訪問はこれで終了。学生たちは慣れないスーツを着てがんばった。ホテルまでの帰路、地下鉄の中で私たちを中国人と勘違いしたロシア人男性に話しかけられた。その人は英語とドイツ語の通訳をしていて、中国語も勉強し始めたので興味を持って話しかけてくれたようだ。私たちがパルチザンスカヤ駅で降りると言ったら「あの駅にあるパルチザンの像の意味を知っているか?」と聞かれ、よく知らないと答えるとじゃあ教えてあげるよ、と一緒に降りてくれた。
 第二次大戦中、土地の住民が武器を持って戦った。この人たちは兵士ではない、だから中には女性もいる。パルチザンは英雄なんだ、というようなことを汗をかきながら熱弁してくれた。たしかにプラトーク(ロシアのスカーフ)を被った女性の像もあり、みな強い意志を持って戦いに挑んでいるようなまなざしだ。その男性の家はまだ先の駅だそうで、ふたたび地下鉄に乗るために手を振って戻っていった。そこまでして教えてくれたことに感動する。

 

 地下鉄構内は日本のように電光掲示板であちこち看板が出ているのと違い、表示も小さく数も少ない。車内のアナウンスも次の駅を一度しか言わないので、注意していないと降り遅れてしまう。ご用心。
 
 ちなみにソ連時代に作られたモスクワの地下鉄駅は、美術館や宮殿にも例えられるほど豪華な装飾と彫刻が印象的である。私が見た数少ない中で気に入ったのはプローシャチ・レヴォリューツィ駅。アーチ状の通路が連なり、アーチごとにすべて違う彫像が置かれていて荘厳な雰囲気。街全体について、ペテルブルクがロマノフ王朝の面影を強く感じさせるのと対照的に、モスクワは共産主義の印象が色濃く残っていると感じた。

 

 企業訪問も済んで気が楽になったので、夕食は各自自由とした。ホテルの周りにはロシアのファストフードチェーンのほか、サンドウィッチのサブウェイや観光客用の土産物店が並んでいる。土産物店の看板は大々的に中国語で書かれ、ほとんどが中国人客であった。
 私もお土産を買おうとしたが、強引な中国人が山ほど買っているのでなかなか注文できない。大方の商品はショーケースに並べられているため、店員に頼まないと手に取ることもできない。お客が少ない店を見つけて、チョコレートや紅茶、グルジアワインなどを買い求める。

―グルジアワインはあるか?
―ある。赤か白か?
―赤。
―甘いのか、辛いのか?
―辛いの。
―じゃあ“ムクザニ”ね。
―ちょっと待って、そのきれいな瓶は?
―これはちょっと甘口の“フヴァンチカラ”。
―それもちょうだい。

 こうして私は素焼きの美しいボトルに入ったグルジアワインの赤を手に入れた。この程度の会話でも買い物はできる。こちらががんばってロシア語で話すと、お店のお姉さんは親切に対応してくれるが、逆に割り込もうとする通訳なしの中国人には「待て!」と手厳しい。という訳で、勇気を出してロシア語で店員さんに話しかけることをおすすめします。

                  

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2017年06月01日

2017年極東大学オリジナルカレンダー 6月は?

<6月>クレムリン内の福音大聖堂(ブラゴヴェシチェンスキー聖堂/モスクワ)

 ロシアの政治の中心地、クレムリンはロシア正教の中心でもあります。クレムリン内の聖堂広場には4つの聖堂や教会が集まっています。
 その一つ、ブラゴヴェシチェンスキー聖堂は黄金に輝くいくつもの丸屋根が青空にそびえ、ひときわ瀟洒な雰囲気を醸しています。
 皇帝自身の礼拝のために使われた教会で、内部を埋め尽くすフレスコ画やロシアで最も素晴らしい一つと言われるイコノスタス(聖障)は必見です。
 クレムリンに入ったら、これらの聖堂内部にも入ることができますので、ぜひ素通りせずに訪れてみてください。
 

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2017年05月19日

1993年のモスクワ騒乱事件の裏側

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。

テーマ:「1993年のモスクワ騒乱事件の裏側」
講 師:デルカーチ・フョードル(本校副校長)

 1993年10月4日、ロシアの新憲法制定をめぐって当時のエリツィン大統領と、ハズブラートフ最高会議議長・ルツコイ副大統領を中心とする議会派勢力との間で起きた政治抗争について今日はお話します。
 
 私は当時、学生でした。朝、母に「国内で戦争が始まった」と起こされ、一緒にニュースを見た記憶があります。テレビ画面ではロシアのホワイトハウスと呼ばれる建物(ベールイ・ドーム)から黒煙が上がっているのを映していました。
 この時、いったい何が起きていたのか、何が原因なのか話すためには事件が起こった少し前からお話しする必要があります。

 当時、国家独占資本主義を唱える最高会議派と世界経済との連合化を唱えるエリツィン大統領派ですでに両者、睨み合いの状態でした。

 1992年、エリツィン大統領はIMF(国際通貨基金)の指導のもと、貿易や物価の自由化などを行いました。貿易の自由化により、海外から安い製品が流入しました。また、物価も自由化させたことにより、ある程度決まっていた物の値段が市場に任せた結果、30倍~40倍になりました。この変化は急激なもので市民にとっては混乱でしかありませんでした。
 国内での生産は落ち込み、物資は不足していきます。需要と供給がかみ合わず、消費者物価は激しく上昇することとなったのです。
 そして更に1992年6月1日、ルーブル・外貨の自由交換も導入されたことにより、当時のルーブルはただの紙切れのように扱われ、ドルがないと生活できない状態となりました。
 
 1992年6月15日~19日、エリツィン大統領はアメリカを訪問。そして10月15日~18日にはアメリカのCIA局長がロシアを訪問。この時、すでに1年後の抗争について話がされていたのかもしれません。少なからずともその予兆はあったでしょう。

 同時期にウラン取引についての会談が始まり、年が明けた1993年2月18日、調印には至りませんでしたが、20年間に500トンのウランをアメリカに売り渡す、という内容の話し合いがなされました。アメリカのクリントン大統領は「ロシア改革の成功はアメリカ合衆国の安全を意味する」とコメントしています。しかし、これには続きがあって、「ただし、ロシア最高会議はウラン取引を追認しないこと」とコメントしたのです。

 様々な政策や会談をエリツィン大統領が行う一方で、最高会議派は反対勢力を増していき、対立は悪化していきました。

 そしていよいよ事件の起こる一カ月前の話になります。
 1993年9月21日、エリツィン大統領は辞令1400号 憲法改革について述べ、最高会議の解散を発表しました。すると議員たちはこの大統領令は違憲だとし、9月22日、最高会議派の議員たちはホワイトハウスに集合し、占拠しました。
 そして9月27日、それに対して大統領派はホワイトハウスの包囲を開始し、翌日9月28日完全に包囲しました。機関銃や戦車が取り囲んだのです。ホワイトハウスの電気と水道も止められました。降伏を余儀なくされている中、一部の議員は地下道で逃亡しました。

 最高検察庁長 V・ステパンコフは当時このようなコメントを残しています。「我々は単なる操り人形だ。今、エリツィンだって状況を変えられない。どうやら彼も今、人質の立場にいるようだ。彼は言われた通りにするだけだ。ホワイトハウスは流血を逃れることはできない。それを考えて、慎重に行動しなさい。1991年、このようにソ連と共産党が破壊されたが、今度は国会も破壊されるだろう。」

 この言葉通り、9月29日最初の銃殺が行われました。
 そして1993年10月4日早朝、大統領側の軍隊が、ホワイトハウスを戦車で砲撃しました。警察の特殊部隊OMONと保安庁のALPHAという部隊が突入しました。ALPHA部隊のザイツェフ少将は突入を拒否し、「出来る限り生きて外に連れ出す」と話したそうですが、OMON部隊は違いました。大勢の人の命を奪いました。
 警察官として偶然ホワイトハウス内に入った人の話によると死体の山があったといいます。しかし、その死体は翌日すぐに消えました。どこに行ったかわかりません。ですから、どれくらいの方が亡くなったのか定かではないのです。
 結果として、生き残った最高会議派の議員たちは犯罪者として逮捕されました。

 この事件の黒幕はエリツィン氏でしょう。
 その後12月にエリツィン大統領は強大な権限のもと、新しいロシア連邦憲法を制定したのです。
 

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2017年05月09日

2017カスピ・サマースクールのご案内


 ロシア・アストラハン国立大学ではロシア語短期留学文化体験プログラム「2017カスピ・サマースクール」参加者を募集しています。

 ロシア南部ヴォルガ川下流にあるアストラハン国立大学では現在、卒業生の長谷川里子さんが日本語講師を務めています。
 長谷川さんは2005年に函館校を卒業後、ウラジオストク本学やJICAから派遣されてキルギスで日本語講師の仕事をするなど、幅広く活躍しています。その様子は、以前このブログに連載されていた「グータラ猫のウラジオ日記」や現在連載中の「グータラ猫のアストラハン日記」からも知ることができます。

 今回募集するプログラムはアストラハン国立大学が開催するもので、ロシア語初心者を対象としています。例年、日本の大学から5~6名の実績があります。
 興味をお持ちの方はアストラハン国立大学ロシア・アジアセンターjapanese.aspu@gmail.comまで直接お問合せください。

 

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2017年05月01日

2017年極東大学オリジナルカレンダー 5月は?

<5月>ワシリー寺院(モスクワ)

 別名ポクロフスキー聖堂、ロシアで最も有名な教会と言っても過言ではないでしょう。赤の広場の南東に位置し、極彩色に彩られた、合せて9つのねぎ坊主(クーポル)を頂く教会です。この純ロシア風の教会は1560年、イワン雷帝により建築されました。

 実際に中に入ってみると、クーポルの尖塔一つひとつが教会になっており、薄暗い迷路のような作りです。階段を上りつつ角を曲がるとそこここにイコノスタス(聖障=左上の写真)が現れます。それが一つの大聖堂となり、この独特の景観を作り上げています。
 

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2017年04月27日

ペテルブルク・モスクワ旅行記5

<5日目>
 豪華寝台列車「赤い矢号」がモスクワに近づき夜が明けてくると、車掌の女性がコンパートメントのドアを強くノックして、熱々の紅茶を運んでくれる。これは前夜に注文を聞かれて、下車する時にテーブルに料金を置いておく仕組み。たしか30ルーブルほどだったと思う。その後で朝食のブリヌイにジャムやドライフルーツが添えられて出される。こちらは乗車料金に含まれている。温かいのでとてもうれしい。
 

 「赤い矢号」では歯ブラシやお手ふきのほか、ミントや靴べら、歯間ブラシまでアメニティとして配られた。
 

 さて、モスクワではレニングラード駅に到着する。レニングラードはサンクトペテルブルクのソ連時代の名称である。このあたりにはターミナル駅が集中しており、行き先によりカザン駅、ヤロスラヴリ駅、ベラルーシ駅などに別れる。どの駅舎も特徴があり美しい。

 

 旅行会社の送迎車でホテルベストウエスタンヴェガに向かう。ホテルが林立するこのイズマイロヴォ地区は、1980年のモスクワオリンピックの選手村だったところだが、現在ではアメリカ資本などが入り、観光客向けのショッピングセンターも充実するなどその面影は少ない。私たちが泊まったヴェガ(ほかにアルファやベータ、ガンマなどがある)などすっかりアメリカンスタイルのホテルになっていた。日本を含む西側諸国の大半がボイコットした当時の五輪のことを考えると隔世の感である。
 

 しかし、まだ早すぎてチェックインはできない。このまま企業訪問に出かける私たちは、ホテルのトイレでスーツに着替え、スーツケースを預ける。預り所にはおじさんがいて、名前を書いて鍵を受け取る。注意しなければならないのは、このホテルの場合、基本は無料であるが受け取りが18時以降になると150ルーブルを支払わなければならない。
 時間に余裕があるので、雨の中近くのイズマイロフスキー公園を散策。緑が目に新鮮である。
 

 昨日の遅刻の二の舞はしたくないので、早めにこの日の訪問先となるモスクワ日本センターがあるモスクワ大学(МГУ)へ向かうことにした。
 モスクワ大学は日本でいえば東大にあたるロシア屈指の名門。函館校にも、ここの寮に住まい、通った教員が何人かいる。スターリン・クラシック建築と呼ばれるソ連時代の建物は、市内に7つあるスターリン様式の中でも最大のものだ。見上げても天に突き刺さるばかりの尖塔は威容を誇り、かつ美しく圧倒される。とても一枚の写真には収まらないのである。
 

 モスクワ大学のすぐそばには市内を一望できる名所、雀が丘がある。手前にはモスクワ川が流れ、眼下にあるのはモスクワオリンピックの競技場。オスタンキノのテレビタワーやモスクワ・シティの高層ビル群も見えて、ペテルブルクとは違う近代化された街の様子がうかがえる。

ロシアの人々はこのような眺めの良いところで婚礼写真を撮る風習がある。この日もウエディング姿のカップルに出会った。私たちはベンチで休み、屋台でポンチキ(ロシアのドーナツ)を食べるなどして時間をつぶした。
   

 モスクワ日本センターはモスクワ大学構内にあり、建物の前には「2012年10月 日本国民の友情の印として、日本政府の協力により建設された」旨の碑がある。ここではロシア語を勉強して将来どうするか、ロシア語ができるだけでは駄目で、その背景にある歴史など幅広く学ばなければならないということを教わり、北海道新聞モスクワ支局の取材も受けた。
 

 この日の夜は、モスクワ在住の知人の案内で、まず赤の広場に連れて行ってもらう。モスクワに来たら必ず訪れたい場所。しかし、この日はなぜか16時には門が閉まっていたので、鉄柵の外からのぞくだけで入場することはできなかった。近隣のボリショイ劇場や国営百貨店グム(ГУМ)、マネージ広場、などを見て回る。どこも観光客でいっぱいだ。
 

 夕食には日本ではなかなかお目にかかれない、グルジア(現在の国名はジョージア)料理をリクエスト。ウ・ケティ(キティーちゃん)というこのカフェは、時々店名が変わるが昔からあるお店だそうで、とてもおいしかった。
 

バドリジャーニという、くるみやにんにくのペーストをソテーしたナスでくるんだ前菜や、中にとろけるチーズがたっぷり入ったピザのようなパン・ハチャプリ、お米の入ったピリ辛のスープ・ハルチョーなどを堪能。コーカサス地方の料理は意外と日本人の好みにも合う、大変な美味である。
 

 満腹になって地下鉄でホテルに戻る。最寄りの駅はパルチザンスカヤ。18時を過ぎたので料金を支払って荷物を受け取り、ようやく部屋に入ることができる。今日も長い一日であった。
 

              

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