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2019年11月13日

山口ミルコさん新連載開始

 2017年の第19回はこだてロシアまつりで講演会『がん闘病→がん克服→再出発ロシアへの旅』を行ってくださった山口ミルコさんのホームページで新連載が始まりました!

 ミルコさんの著書『毛の力 ロシア・ファーロードをゆく』のリミックス版のようなものだそうで、タイトルは『ミルコのファーロード』。ロシアのクロテンに人生を重ね、その生きざまをたどるミルコさんの旅は、まだまだ続きます。
 こちらもどうぞご覧ください!

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2019年11月12日

ゲオルギイ・グルジエフ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の講話内容です。

テーマ: ゲオルギイ・グルジエフ
講 師: イリイン・ロマン(准教授)

 「ゲオルギイ・グルジエフ」という名前を皆さんは、耳にしたことがあるでしょうか。彼は、小説家であり、作曲家でもあります。そのほか活動は多岐に渡りましたが、最も有名な活動は思想家だったことです。20世紀最大の神秘思想家と呼ばれています。
 グルジエフは、当時ロシア領だったアルメニアでギリシア人の父と、アルメニア人の母の間に生まれました。家業は羊飼いで、吟遊詩人だったとも言われています。しかし、羊飼いの仕事は疫病のため、廃業せざるを得ず、その後工芸品の商いを行うようになったそうです。
 1877年に起きたトルコとの戦争の影響で、カルスという町に引っ越します。グルジエフはそこで学校に通いながら、聖歌隊の一員として活動をしました。そこで出会った神父を師と仰ぎ、精神面への興味関心を持つようになりました。その出会いから、聖地や遺跡にも興味を持ち、長い旅へと出かけました。彼が一番長く滞在したのはチベットで、ダライ・ラマ13世と交流があったといわれています。
 しかし、これまでの話は全て本当か分かりません。自伝的な本で少し書かれているだけで、信ぴょう性がないからです。物語のようにも思えます。
 でも最も謎なのは、彼がこれから説明する思想をどこで学んだのか、何で思いついたのか、分からないことです。
 
 それでは、グルジエフの思想について説明しましょう。
 グルジエフは、旅を終え、モスクワで小さなグループを指導するようになります。すでに神秘思想家として有名だったピョートル・ウスペンスキーも一緒に活動をしました。グルジエフの思想は、彼のもとを離れたウスペンスキーが広めたとも言われています。
 グルジエフの考えの一つは、「人間=機械」だというものです。“私たちの見る人、知っている人、知り合いになるかも知れない人々は皆機械だ。外からの影響だけで動いている機械なのだ。彼らは機械として生まれ、機械として死ぬ。しかし、機械であることをやめる可能性はある。” 人はありふれた状態においては、条件づけに支配されている機械のようだ、考えたのです。
 次に、「人間はうそつき」という考えについてです。“真実を話すためには何よりもまず自己の中で、真実とは何か、嘘とは何かを知らなくてはならない。” グルジエフは、人間は常に嘘をつくもので、だから誰も自分も他人も理解できないのだ、と考えました。
 更に、死後については、“人間=機械にはいかなる未来もない。埋葬されて、それで終わりだ。塵は塵に還る。来世のために、ある種の結晶か、人間の内的資質の融合、外的影響からの確固たる独立が必要だ。もし人間の中に、外的影響に抵抗できるものがあるとすれば、まさにそれ自身が、肉体の死にも抵抗できるかもしれない。”と考えました。
 その他にもグルジエフは、人間機械の身体の動きは、脳によってではなく、おのおのが完全に独立し、別の機能と活動領域を与えられた複数の脳によって制御されていることを理解しなくてはいけないと言い、頭と心と体を三区分に分けて考えました。
 そして、その三つに分けた区分を同時に使えるように訓練するムーヴメンツという舞踏や体操を作りました。これらの音楽もグルジエフが考えたものです。別の作曲者が考えたレパートリーも含めると200曲近くもあります。
 グルジエフは、この訓練をするため、生徒たちと共同生活を送りました。ロシア革命のときには、コーカサス地方の山の中で共同生活を送りましたが、晩年はパリに移り住み、ムーブメンツの稽古や、内的なエクササイズの取組みなど活動を大きくしていきました。
 グルジエフは1949年10月29日、パリのセーヌ川近くの病院で亡くなりました。彼の元生徒たち、弟子たちがグルジエフの教えをその後広め、今に至ります。
 最後に、グルジエフの作曲した音楽に合わせて踊るムーブメンツの様子を見ましょう。

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2019年11月01日

2019年オリジナルカレンダー11月は??

<11月>救世主ハリストス大聖堂(モスクワ)

 モスクワの地下鉄クロポトキンスカヤ駅を出ると目にとびこんでくる救世主ハリストス大聖堂は祖国戦争の勝利を記念して19世紀に建てられました。当時のロシアで最大の建築物であり、モスクワのどこからでも大聖堂のキューポラ型の屋根が見えたといいます。しかし革命後に宗教弾圧の対象となり爆破され、その後「ソヴィエト宮殿」の建設が始まるものの計画は頓挫し、温水プール「モスクワ」へと生まれ変わりました。ソ連崩壊後に再建が決定し、現在の大聖堂は2000年に完成しました。新しい建物であり、観光地としても有名ですが、内部は正教会の厳かさが保たれ、モスクワ中心の繁華な雰囲気とは違った空気を感じることができます。
 モスクワを訪れた際には、紆余曲折を経て復活したこのロシア最大の大聖堂に足を伸ばしてみてはいかがでしょう。
 

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2019年10月07日

ミリオン・ズビョースト 第101号

 函館校の学報であり、函館日ロ親善協会の会報であるミリオン・ズビョースト/百万の星 第101号を函館校のページに掲載しました。

 今回の巻頭言は、イリイナ・タチヤーナ准教授による「ウラジオストク2019夏」です。いつもとは違うルートでロシア・ウラジオストクへ帰国した夏の出来事について振り返ります。

 また、今号は北方四島交流事業で択捉島を訪れた学生や、函館市のインターンシップに参加した学生からの投稿のほか、開校25周年記念行事に参加した学生の投稿も掲載しています。前期から夏休みにかけて、様々な経験を通し、学習意欲が高まったことが伺えます。是非ご一読ください。

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2019年10月04日

2019年オリジナルカレンダー 10月は??

<10月>旧日本総領事館と旧デンビー商会(ウラジオストク)
 日本とゆかりの深い建物がウラジオストクには今なお残っています。その代表格が旧日本総領事館です。20世紀初頭のウラジオストクは、ロシア人のみならず、ドイツ人、中国人、朝鮮人、日本人など外国人が多数暮らす国際都市でした。1876年に日本人人口が100名近くになった時、「貿易事務館」が設置され、日露戦争後の1907年「領事館」に昇格、1909年に「総領事館」となりました。
 この写真の建物は、1916年にオケアン大通りに完成したもので、写真右上には空想上の動物グリフォンを見ることができます。
 左下の写真が旧デンビー商会です。ウラジオストクに本店を置き、1899年に函館に支店が開かれました。デンビー商会はカムチャツカにサケ・マスの缶詰工場を建設し、大いに繁栄しました。この建物は、ロシア革命後の1918年から1930年までは朝鮮銀行が所有していました。
 

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2019年10月02日

ユーリー・ガガーリン

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。

テーマ: ユーリー・ガガーリン
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(教授)

 1961年4月12日は人類史上で最も重要な日の一つです。この日、宇宙船「ボストーク1号」が宇宙に向けて飛び発ち、地球を周回した後に無事に地上に戻りました。この宇宙船に乗った人物、ユーリー・アレクセービッチ・ガガーリンは1934年3月8日に西部ロシアのスモレンスク州グジャツカ市近郊のクルシノという小さな村で誕生しました。
 家は非常に貧しかったため、彼は特別職業学校に進学しました。そこで生徒たちは専門教育を受け、職業教育を受けながら安い給料をもらい工場で働きました。

 1951年、職業学校を卒業後、ユーリーはサラトフの産業技術学校に進学しました。この技術学校の近くにサラトフ出身の多くの学生が所属する航空クラブがあり、ガガーリンはすぐにクラブに入ることに決めました。しかしそこで学べるのは上級生だけだったので、ガガーリンが研修生になったのは1954年のことでした。
 この年の10月25日に彼は生まれて初めての単独飛行を行いました。この日ガガーリンは、「飛ぶことが自分の運命である」と知りました。彼はプロの飛行士になると決心しました。

 1959年の末に、ガガーリンは数人の若い飛行士と共にモスクワに召集されました。理由は誰も知りませんでしたが、モスクワへの道中の列車の中で、彼らは互いに宇宙飛行をする者を探しているのではないか、と語り合いました。その少し前の1959年10月7日に、ソ連のロケットが月の周りを周回しました。近く人間が宇宙に行くことになるのは明らかでした。おそらく彼らの誰かが選ばれるのではないかと話していたのです。そして誰もが「それはひょっとすると自分かも」と考えていました。

 宇宙への有人飛行計画の実際の活動が始まったのは1957年10月4日でした。まさにこの日、ソ連で世界初の人工衛星ゼムリ号が打ち上げられました。生き物を載せたロケットの初の打ち上げはそのわずか一か月後の1957年11月3日に行われました。その生き物とは一匹の犬で、実験は成功しました。このようなわけで世界初の宇宙飛行士はユーリー・ガガーリンではなくライカという名の犬であったとも言えます。

 ソ連中の全ての軍事航空学校から候補者の3461名が挙げられました。最初の身体検査で10分の1の347名が選抜されました。そこで再度の身体検査を受け、206名が残りました。その後彼らは特別な心理検査を受けた結果134名に絞られました。残った候補者は一人ひとりインタビューを受け、意欲があるかを訊ねられました。彼らは前もって、実験が長期にわたる危険なものであり、中止になる場合もすぐに開始される場合もあり得ることが告げられました。結果、1960年に20名が選ばれました。この中に25歳のユーリー・アレクセ―ビッチ・ガガーリン上級中尉も残っていました。

 1960年の3月7日に6名の候補者が選ばれ、4月の始めの第一回飛行の数日前になって、ユーリー・ガガーリンが初の飛行士であると発表されました。ソ連は1961年の4月20日頃にアメリカが有人宇宙船を打ち上げるとの情報を掴んでいたため、アメリカ人の先を行かねばなりませんでした。そのためソ連のロケット打ち上げの日は1961年の4月12日と予定されました。

 なぜ6名の候補の中から他でもないガガーリンを選んだのでしょうか?第一回宇宙飛行士部隊のメンバーの記憶によると、他のメンバーに比べてガガーリンはわずかに決断力が勝り、わずかに能力が秀で、わずかに活力が秀でていたとのです。しかし彼が他に抜きんでていたのは常に冷静を保つ能力でした。最も複雑で危険な状況の中でガガーリンは落ち着いて微笑んでいました。

 第一回目の宇宙船の打ち上げは、モスクワ時間9時7分に巨大な宇宙船はゆっくりと上昇を開始しました。彼は宇宙から見た地球の景色が大変気に入り、彼は船内の録音機に特に次のような言葉を録音しました。
 「地球の上に掛かる雲が見えます。小さな積乱雲とそれが作る影と。美しい!地球の水平線が見えます。とても美しい光輪です。まずは地表の虹が現れて、なんと美しいんだ!」

 地球の周りの軌道を一周した後に、ガガーリンは着陸の準備を開始しました。10時25分に自動ブレーキ装置が作動開始しました。「ボストーク1号」はゆっくりと速度を落とし始め数分後には地球の大気圏に突入しました。この時宇宙船は急激に熱せられるためガガーリンは窓の外の炎を目にしました。

 地上7千メートルの地点でガガーリンは予定通り機体からカタパルトで脱出し、その後パラシュートでの降下を始めました。
 地球を周回し10時55分、108分目に宇宙船の飛行は終わりました。ガガーリンはサラトフ州の、彼が飛行クラブの生徒時代に初めて飛行機を飛ばした場所からほど近い場所に着陸したのでした。

 飛行を終えたガガーリンがモスクワに着いた時、盛大な歓迎が彼を出迎えました。オープンカーに載せられ、数千人もの人々が町中の通りに立って出迎えました。赤の広場でガガーリンはフルシチョフに会い、フルシチョフは彼にソ連に黄金の英雄章を授けました。

 この後にガガーリンの世界旅行が始まりました。1961年の一年間で彼はチェコスロバキア、ブルガリア、フィンランド、英国、ポーランド、キューバ、ブラジル、カナダ、アイスランド、ハンガリー、インド、セイロン、アフガニスタンを訪問しました。海外への旅は翌年も続き、全部で30カ国を周りました。こうした旅の途上で、時に彼は一日に18回から20回講演をすることもありました。

 1962年の5月7日にガガーリンは日本を訪問しました。羽田空港で彼を出迎えたのは国会、政府、政党、公共機関の代表や外交官や記者たちでした。全部で1万人もの人が集まりました。記者会見でガガーリンは言いました。「皆さんの国は私が宇宙から見た初めての国でした。地球と同じく大変小さく見えました。でも、来てみるとそんなに小さくないですね。台風や津波や戦争からお国を守ってください」と。誰かが彼に訊ねました。「ガガーリンさん、記念に何かロシア語で言ってください」それに対しガガーリンは「人々よ、我はあなた方を愛する。どうかお幸せに」と言いました。その後彼は冗談で日本語でこう付け加えました。「ありがとう!万歳!」

 ガガーリンの日本滞在は1週間でした。国会や、テレビや、大学や日ソ協会のメンバーの前で講演を行いました。彼は言いました。地球の住人は敵対するのではなく仲良くせねばならない。特に宇宙ではと。「宇宙は一つです。そしてそれは全ての人類のためにあるのです。」早稲田大学で行った講演では、「そろそろほかの天体に宇宙船や実験室を飛ばす時代がきます。その時の乗組員はロシア人の他に、日本人、アメリカ人、その他の国の人々となるでしょう」と述べました。
 今日は、ガガーリン訪日の様子を撮影した、18分間のソ連時代のフィルムを見てみましょう。
 

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2019年09月02日

ロシアまつりの看板とご対面

 2010年の卒業生、石郷岡慧さんが、かわいいフィアンセとともに学校を訪れてくれました。
 
 石郷岡さんは、2008年のロシアまつりの際、美術の才能を遺憾なく発揮して、ウレタンボードで看板を作ってくれました。その前で記念に一枚。マトリョーシカを割ってチェブラーシカが出てくるユニークなデザインです。
 
 製作の様子がこちら。当時のロシアまつりは7月に屋外で開催していましたが、2月開催となった今もずっと、毎年大切にこの看板を入り口に飾っています。お客さんがこの看板の前で記念撮影する人気のスポットなのです。
 まだ使い続けていることに、石郷岡さんも喜んでくれました。

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