2005年06月08日
●ロシア悪人列伝(第1回)
ソ連になって、ソ連では刑事犯罪はないという建前を押し通すため、犯罪小説や推理小説などは長く出版許可されなかった。1953年アダーモフАдамовの犯罪小説「まだら事件Дело пестрых」の出版の是非を巡って大いにもめた。これは泥棒の手引きが大きな役割を果たしていた。しかし、KGBに対して内務省の威信を高めるため、つまりKGBと内務省の対立のおかげで結局出版され、ソ連初の推理小説となり(1958年映画化)、アクーニンАкунинのファンドーリンФандорин探偵シリーズなども含めて現在の隆盛をみている。ちなみに小話の主人公としてたまに登場するプローニン少佐物語Рассказы майора Пронина(1939年)を書いたオヴァーロフОваловは1941年逮捕され収容所送りとなり1956年ようやく名誉回復となった。プローニン少佐はKGBで国内のスパイ取締を担当していることになっているが、作者はどうやらスパイ容疑で引っかかったらしいのは皮肉である。70年代後半になると、実際の犯罪者をも映画に取り上げる例も出てきた(黒猫、リョーニカ・パンチェレーエフなど)し、最近犯罪実録やロシアの推理小説において実在の犯罪者を小説に登場させる場合も見られるので、過去において著名なロシア・ソ連の犯罪者を簡単に紹介する。
●ロシア悪人列伝(第2回)
- ワーニカ・カーイン Ванька Каин (本名Иван Осипов Каин)
ロシア版瓦版と言えるルボークлубокでも有名なワーニカ・カインは 1718年生、犯罪者こそが最もよく犯罪者を知りうるという点を当局に売り込み、犯罪者と当局への密告者(岡っ引きみたいなもの)を兼ねた。最近映画にもなったフランスのヴィドークVidocq (1775 – 1857) の先鞭をつけたことにもなる。結局裏で悪事を行っているのがばれてシベリア送りとなった。悪党で有名になった先駆者であろう。この後を継いだのがヤーコヴレフЯковлев(1760?~1831)で、モスクワの警察署長だったが、拷問で有名であり、陰で自ら強盗団を組織したり、金持ちをゆするなどしたがついに捕まることはなかった。プィリャーエフПыляев の「古きモスクワСтарая Москва」には、フェドートィチФедотыч、コジマー・ロシシンКозьма Рощин、ペルフィーィチПерфильич、クラスノシショーコフКраснощеков、ヴェリョーフキンВеревкин(エカチェリーナ2世のときに妖術を操るも結局捕まる)などの強盗の話が出てくる。
●ロシア悪人列伝(第3回)
- ポリートニコフ Политников
19世紀初めニコライ1世に可愛がられ、傷痍軍人施設の管理を任されたが、1833年から53年の20年間に仲間と共に120万ルーブル(当時軍艦で世界一周できるほどの大金)を着服し、ばれて毒をあおいで自殺した。
- ハートのジャック団 Шайка «червонных валетов»
1870年代初めの詐欺団で、首領格にシュペイエルШпейерというのがおり、時の警察庁長官と市長を兼ねたドルゴルーコフ公князь Другоруковの家を英国人に空家として10万ルーブルで騙し売った話はギリャローフスキーГиляровскийも書いている。シュペイエル以外は捕まってシベリア送りとなった。シュペイエルはこの裁判も傍聴しており、裁判長宛に「愉快愉快」というメモを渡し悠々引き上げたと言う。実際の首領は破産した伯爵であり、彼もシベリア送りになったという話もある。アクーニンがこの話をファンドーリンシリーズに取り入れている。この犯罪集団の名前「ハートのジャック団」は当時有名だったフランスの作家 Ponson du Terrail のシリーズものでロカンボールRocambole Рокамбольを首領とする義賊集団の名前から取られたのかもしれない。
●ロシア悪人列伝(第4回)
- ソーニカ・ザラターヤ・ルーチカ Сонька Золотая Ручка(黄金の腕を持つソーニカ、1847年生まれ)
19世紀末ヨーロッパ、ロシアをまたにかけた稀代の悪女。列車やホテル荒しが専門で必要とあれば、相手に眠り薬を使った(現在のロシアならクロフェリンклоферинを使うというところか)。ソーフィャ・ブリュフシュテインСофья Блювштейн (Шейндля-Сура Лейбова Соломониак) が本名のユダヤ人。娘の話ではそれほど美人ではなかったというが、愛嬌があり、男を垂らしこむ手口は一流であった。写真では着ている服の関係もあるのかゴージャスな魅力的な女性に見える。当局のスパイも勤め、気に入らない犯罪者を密告したりした。また子供好きで、貧乏人に施し物をするなど義賊的な面もあった。捕まって何度も脱走したが、結局サハリン送りとなり、ドロシェーヴィチДорошевичも現地で彼女に取材した記事を「流刑Каторга」に載せているし、チェーホフも「サハリン島」で鎖につながれたソーニカを描いている。その後脱走したが、力尽きて死んだと言う。異説ではオデッサで78歳まで生きたともいう。オデッサに1840年頃から1914年まで盗芸学校 Школа воровского искусства が存在したが、これに彼女は金を出していたと言う。優秀な生徒にはロンドンに留学させ技にさらに磨きをかけさせた。彼女の他にあと4名ザラターヤ・ルーチカ Золотая Ручкаの名を冠せられた悪女がいる。二人はペテルブルグで活躍した。一人はアンナ・ジリベルシュテインАнна Зильберштейнと言いスリで、別名魔女のアニュータАнюта-Ведьмаとも呼ばれた。1880年頃から活躍、1902年に逮捕。もう一人はオーリガ・フォン・シュテインОльга фон Штейн(1869年生)は20件の詐欺で1907年捕まるが、米国に逃亡。後にロシアに引き渡されるが、懲りずに1924年逮捕、ロシア最初の自動車泥棒とされる。オデッサでは二人おり、1912~13年に泥棒の女王と言われた22歳のオーリガ・ヂヤチェンコОльга Дьяченкоが有名である。この他にエリェーナ・ボウルスЕлена Боурсというスリが同じ仇名で1922年ペレールマンПелерманのダイヤを飲みこんで盗もうとしたが捕まり、浣腸されてダイヤも無事に戻ったと言う。
●ロシア悪人列伝(第5回)
- 騎兵少尉サヴィン Корнет Савин
19世紀後半から20世紀初めまでペテン師の王と言われた。妻の関係からフランスの伯爵トゥールズ・デ・ロートレクграф Тулух де Лотрек (トラーヴェルス侯爵Маркиз Траверс)を名乗り、ロシア、ヨーロッパ中で詐欺を働き、1887年危うくブルガリア王位をものにするところまで行った。1916年シベリアのナルィムНарымに流刑されたが、そこで暴動を企んだ。この息子を名乗ったのがピョートル・ショーポフПетр Шоповというマケドニア出身の男で、ボーア戦争に参加、後アナーキストとしてスラブの大義を名目に銀行詐欺を働いた。
- ツェレーテリЦеретели(トゥマーノフ公князь Туманов)
インドの金持ちなどに化け多くの顔を持つ男と言われた稀代の国際詐欺師。大掛かりな金銭詐欺панамаを得意とした。美男であり、中年の貴婦人はイチコロであったと言う。慈善運動に隠れて銀行詐欺を得意とした。ただ公爵の出であることは間違いないようだ。1915年ようやく逮捕された。
●ロシア悪人列伝(第6回)
- サーシャ・セミナリスト(神学校生徒サーシャ)Саша Семинарист
1913年5人組を率い、10件以上の強盗殺人を犯したが当時のモスクワ警視総監コシュコーКошкоにより逮捕され20年の刑となったが、二月革命で釈放された。しかし1920年ボリシェヴィキーБольшевикиにより銃殺された。神学校中退なのでこの仇名がある。
- パナレートフ兄弟 Братья Панаретовы
革命初期、偽札、偽の証明書で最初に偽の部隊を作った。また一味は20回ほどネップマンнэпманыに対して強盗を働いたが、結局一味は捕まった。
- コシェリコーフ一味 Банда Кошелькова
1919年1月19日脱走中、あろうことかレーニンから乗っていた車と金品を強奪したことで有名。レーニンとは知らずに襲ったもので、気がついて返そうと思ったがそのときすでにレーニンは立ち去っていた。レーニンはあまりの治安の悪さに激怒したと言う。最後は警官隊と撃ち合って射殺された。А. БезугловとЮ. Кларовが Конец Хитрова рынка(ヒトローフ市場の最後)という警察小説で描いている。
- 黒いワタリガラス Черный ворон
元はボリシェビキーなどの資金稼ぎ(徴用とか収用экспроприация (экс))が目的の銀行強盗や金持ち目当ての強盗だったらしい。この名前を出した脅迫状を出すだけで、被害者は言う通りに金を所定の場所において置いたという。しかしほとんどは素人の模倣犯であり、簡単に捕まった。1922年にもモスクワで女性コストローミナКостроминаを首領とする一味がこの名を名乗ってネップマンを狙ったが、捕まって銃殺された。オデッサでは1920年代初めにこの仇名をもつ首領が60の騎馬を従え、4丁の機関銃で武装強盗を働いていた。
●ロシア悪人列伝(第7回)
- ミーシュカ・ヤポンチク Мишка Япончик(あるいはヤポーニェツ Японец、本名ヴィニーツキーВинницкий、1891~1919)
オデッサ生まれのユダヤ人。オデッサの警察長官を爆殺し、後に1918年内戦の中、オデッサを仕切った。義賊を気取り貧乏人の味方で流血をできるだけ避けた。医者、弁護士、役者には手を出さなかったといわれる。後に多分有名な盗賊上がりの将軍コトーフスキーКотовскийの計らいで赤軍に、ペトリューラ軍と戦うために極道部隊(レーニン名称第54銃兵隊2000人)を設立し、隊長となるも、略奪、逃亡などで処刑された。バーベリの「オデッサ物語」に登場するベーニャ・クリクБеня Крикのモデルとされる。1926年から27年にかけてベーニャ・クリクという映画が公開され大評判となったという。この主人公を勤めたクラーフチェンコКравченко(マフノー役の映画もある)は後に映画の配役通り盗賊になり1936年捕まって銃殺された。ヤポンチク(日本人)という仇名は日露戦争の後ということもあってそれほど珍しいものではなかったようだ。ミーシュカと張り合った詐欺師にコーリカ・ヤポーニェツКолька Японецというのがいる。ちなみにヤポンチクの写真は見つかっていない。似顔絵があるのみである。革命後の戦火で焼かれたという。Утесовによれば、背が低く、ずんぐりして、動きは素早く、つり目だ(そのためにヤポンチクという仇名がついたという)という。70年代に親族が持っていたのを見た人によると目が細かったとのことである。親族がヤポンチクのことを恥と思っていたらしい。時代も変わったので写真が出てくるかもしれない。筆者はオデッサにヤポンチクの写真を探しに、市立図書館まで出向いたが、妻と姉のはあったがやはり本人のはなかった。
●ロシア悪人列伝(第8回)
- ピョンピョン(生ける屍)Попрыгунчики (Живые покойники)
トルストイの「苦悩の中を行く」という小説にも登場する。1918年ペテルブルグで経帷子をまとったものがピョンピョンと跳ねながら行くのを見て、気絶したすきに犠牲者の男女から金品を奪ったり、暴行したりと言う事件が続発した。実は竹馬のようなものにバネをつけて飛び跳ねていたのである。犯人はバリガウゼンБальгаузенとポレヴァーヤПолеваяの一味で結局捕まり、首領は処刑された。同じ事件が第2次世界大戦中にもあり、これはドイツのスパイが起したものと言われており、ドイツ軍が革命前後の犯罪史を研究した結果と言われている。
- サバン Сабан
1917~19年にかけてモスクワの暗黒街を仕切った。しのぎは強盗だった。麻薬におぼれ、結局口喧嘩から自分の妹の家族(子供も含めて)を皆殺しにしたところを、隣人に捕縛され、リンチで殺害された。他にこの時代有名な強盗として グリーシュカ・アドヴァカートГришка Адвокат(弁護士グリーシュカという仇名で、20年代の初めモスクワで有名な強盗一味。結局撃ち合いで射殺された)がいる。
●ロシア悪人列伝(第9回)
- クリチャープィ Культяпый
20年代にモスクワで「牢獄」という雑誌が発行された。その中に極道クリチャープィの懺悔 (主教という仇名で織工 ткачи 一味を率いた)が掲載されており、その内容は、
На воле жил я бить учился, シャバじゃ喧嘩を覚え、
в тюрьму попал – писать решился 牢屋にぶち込まれて、ものを書いてみることにした。
вот вся история моя…. ほらこれが俺の全てさ。
Я – молодой бандит народа, 俺は民の若き極道、
Я им остался навсегда. 永久に民と共にある。
Мой идеал – любить свободу, 俺の理想は、自由を愛し
Буржуев бить всех, не щадя. ブルジョア全部を容赦なく打倒すること。
Меня учила мать-природа, そう俺に教えたのは母なる自然、
И вырос я среди воров. そして大きくなったのは盗人の中。
И для преступного народа 極道仲間のため
Я всем пожертвовать готов. 全てを犠牲にする覚悟。
…Я рос и ждал, копились силы 大きくなって俺は待ったし、力もついた。
И дух вражды кипел сильней. 憎悪の気が更にほとばしり
И поклялся я до могилы 俺は誓った、くたばるまで
Бороться с игом нэпачей. ネップマンの奴らのくびきと戦うことを
しかしこのクリチャープィはシベリアの獣と呼ばれ、1919~24年ペルミを中心に強盗を行い、78名を斧で殺害した。殺害した相手の足を体が扇を広げるような形にし、子供とて容赦はしなかった。この詩を書いたのもプロレタリア出身ということで恩赦を願ったからに違いない。1924年銃殺された。
●ロシア悪人列伝(第10回)
- リョーニカ・パンテレーエフЛёнька Пантелеев(本名レオニード・パンテールキンЛеонид Пантелкин、1902年生まれ)
レニングラードの強盗。1922年強盗で、牢獄クレストゥイКрестыにつながれるも脱走した。ネップマン中心に襲っていたため、この頃までは当局の息がかかっていたと思われる。そうでなければ簡単に脱走できまい。この捜査に加わった刑事で二人、後に映画の主人公になった名刑事がいる。一人は映画「革命に生まれて、警視は語るРожденные революцией. Комиссары милиции рассказывает.」の主人公コンドラーチエフКондратьев(1898~1957年)でリャボーフРябовとナゴルヌィНагорныйの「刑事捜査局物語」を映画化(1974~77)したものに描かれている。第3部「銃火の中でВ огне」にパンテレーエフの脱走があっさりと描かれているが、仕組まれた茶番劇のようにも見える。もう一人はボドゥノーフ(?~1976)で1930年代半ばゲルマンにより小説化(我が友イワン・ボドゥノーフ Мой друг Иван Бодуновという題名)され、その息子が1950年代に「我が友イワン・ラプシーンМой друг Иван Лапшин」という名で映画化した。パンテレーエフは結局麻薬におぼれ、1923年警官隊と撃ち合い射殺された。死体はさらしものにされ、その写真が残っている。カヴェーリンもパンテレーエフを直接知っていて、「ヤサの最後 Конец хазы」という小説を書いている。シェイニンШейнинという検事上がりの作家が1950年頃「捜査検事の手記Записки следователя」という短編集の中で実際とはまったく異なるパンテレーエフ像を描いている。この作家は犯罪者の更生というのがメインテーマらしく、1937年に犯罪者が大挙して前非を悔いて警察に出頭したなどと書いてある。仮にそうだとしてもそれはスターリン支配下で取締が厳しくなり、ネップとともに市場経済がも終わり、店からは盗むものがなくなったからではないか。まったく今思えば噴飯ものだが、それでも1950年代初め彼の本は極秘扱だった。つまりソ連には刑事犯罪はないという建前になっていたからである。
●ロシア悪人列伝(第11回)
- パーヴレンコ Павленко
1942~52年年ソ連軍の退却時の混乱をよいことに10年間偽書類でのソ連軍部隊UVR-2 (軍建設作業局) を作り、大佐を名乗り銀行に口座も作った。殺人もからむ戦利品の横流しなどを行った。、戦後キシュニョーフ、オデッサで建設アルテーリに変身。3000万ルーブリを横領したとされる。ブレジネフも随分接待を受けたと言われている。後にばれて銃殺された。
- 黒猫 Черная кошка (Шайка черного кота)
1947年3月6日夕刊モスクワ紙に強盗団「黒猫」の記事が載った。黒猫のいわれはある強盗団が去り際に、「捜索無用。黒猫参上 Не ищите нас, здесь была «черная кошка»」とメモを残したことによる。これはブクヴァーレフ Букваревの一味(後に逮捕された)がふざけて行ったことだが、模倣犯が続出し、40年後半から50年前半にかけてモスクワ市民を恐怖に陥れた。多くはこそ泥の集団である(例えばブーシュキン通りにある家を荒らしたパノーフПановやシュネイデルマンШнейдерманを首領とする若者8人グループには黒猫の入墨があったという)。モスクワの横断地下道入り口に黒い猫を描いた落書きの写真もある。これより有名ではないが、オデッサで1944年に同名のより凶暴な強盗団があり、首魁はマルシシャークМарущакといい18人の部下を率いた。地下通路 катакомбыに逃れたりしたが、結局当局により壊滅に追い込まれた。翌年同じくオデッサにまたもや黒猫と名乗る強盗団が現れ、壁に黒猫を書くなどして市民を恐怖に陥れた。首領はチェルノーフЧерновと言い、結局逮捕された。1946年にも黒猫がオデッサに現れているので、よっぽど賊の間ではポピュラーな名前だったのだろう。黒猫を取り上げた映画と言えば「待ち合わせの場所を変えることはできないМесто встречи изменить нельзя」、ヴィソーツキーВысоцкий(俳優、詩人、歌手)主演、5シリーズ、ビデオ3巻がある。戦後のムールМУР(モスクワ刑事捜査局)の活動をリアルに描いている傑作である。このジェグローフЖеглов捜査主任(ヴィソツキーが演じた)セリフが今でも時々犯罪実録や小説で見かける。
●ロシア悪人列伝(第12回)
- イオネシャン Ионесян(1937年生アルメニア人)
1963年12月から翌年1月までモスクワでモスガスМосгазのガス検針員を装い、斧で3件の強盗殺人を犯した。銃殺刑。フルシチョフも事件に関心を持ったという。
- スラーヴァ・ヤポンチク Слава Японичик(本名ヴャチェスラフ・イヴァニコーフ Вячеслав Иваньков、1940年生)
東洋風のつり上がった目と柔術の心得があることからこの仇名がついた。初犯は1966年スリで逮捕。モスクワを中心に70年代モンゴル一味で頭角を現す。1972年逮捕。1974年にブトゥイルカБутырка拘置所にてヴォールвор в законе(犯罪のエリート集団)を襲名。チェルカスЧеркасなど闇屋と関係するようなヴォールやカフカス系のヤクザを嫌った。1983年イルクーツク州のトゥールンТулун刑務所に移送。91年釈放。92年米国へ(アメリカにおけるヴォールの代表となったという話もある)。95年6月8日強請の容疑でニューヨークでFBIに逮捕される。一時ロシア全土を仕切っていたと言われる。
●ロシア悪人列伝(第13回)
- チカチーロ Чикатило
ロストフ・ナ・ダヌーを1978年から1990年まで恐怖に陥れた連続殺人犯。10歳の少女も含め53人殺害。銃殺刑となった。世界的に有名である。
- マヴロージ(1955年生まれ)Мавроди
1993年から96年まで弟と共にネズミ講финансовая пирамидаで1400万人の預金者から金を騙し取った。俗に言うМММ事件である。94年逮捕されそうになると、国会議員に立候補して当選し、議員の不逮捕特権を利用しその間逮捕されることはなかった。次期選挙で落選した後、逃げ回っていたが、2000年ついに捕まり収監された。ある意味で1990年代のロシアを代表する知能犯である。ネズミ講についていえば1920年代初めオデッサでトヴビーヌィ兄弟がネズミ講で500万ルーブルを騙し取ったと言う記録がある。
●ロシア悪人列伝(最終回)
一方名刑事と呼ばれるのはプチーリン Путилин(19世紀後半ペテルブルグの刑事局長)、コシュコー Кошко(20世紀初めのモスクワ刑事局長で遊撃隊летучий отрядを最初に組織したり、ミーシュカ・セミナリストの逮捕で有名)、上述したコンドラーチエフやボドゥノーフ、現代では1990年代に連続殺人犯フィーシェルФишер(大蛇)を逮捕したモスクワ刑事捜査局のツハイЦухай(惜しくも37歳で肝臓ガンのため死去)がいる。
悪人ばかりではなく、ロシアにも名君回国譚として有名な水戸黄門や名判官である遠山の金さんを気取った人がいるので紹介する。ツィツィアーノフ公 князь Цицианов(1747~1835)は乞食のなりをしてモスクワ市内を見回るのを趣味とした。これはバグダッドのカリフ、ハルン・アル・ラシード Гарун-аль-Рашидの真似をしたのかもしれない。市中の欺瞞や乱暴な振る舞いを見ると、つぎはぎだらけのフロックコートの前をパッと払い、桜吹雪や葵の御紋の入った印篭ならぬ勲章の数々が見えると言う次第。悪さをした奴を自分で懲らしめるか、警察に引き渡したと言う。トレースキンТрескин(1763~1892)はイルクーツクの州知事だったが、彼も平服で市内を歩き(警官が遠巻きについて行ったのは言うまでもない)、厳しく規律の緩みを正したと言う。おかげで犯罪も大いに減ったというが、奥方は大の賄賂好きでこれには頭が上がらなかったようである。
1990年代中頃のモスクワでは大物ヤクザの暗殺が続き、巷では国が特別な暗殺部隊「白矢部隊 Белая стрела」にやらせているのだという噂が流れたことがある。これはどうも敵対するヤクザ同士が流したデマらしいが、19世紀初めのクシェリョーフ Кушелевという政府高官の庶腹の子で船乗り上がりがアルハンゲリスクで、10人の船乗りと徒党を組み、収賄者(裁判官や役人)に対しムチ打ち50~100回という私的制裁を加えていた。金持ちで、金で警察も押さえていた。船乗りだからか船の形をした家に住んでいたという。